第80話 イーナは旅立った
イーナが明日、旅立つ。
もう夜になっている。
数時間後だ。
部屋はもう真っ暗になっていて、外も静まり返り、フクロウさえ鳴いていねえ。
ベッドに横になって、天井を見ている。
宿の梁に目を這わせ、壁で行き止まる。
この部屋で、このベッドで数年前はイーナと一緒に寝ていた。
あの頃が懐かしい。
まだ、本当に小さくて、寝返りで潰さねえかと慎重に寝ていたもんだ。
よく、おねしょをしたよなあ。
《クリーン》の魔法を覚えてなきゃ、今も匂いがしていたかもしれねえ。
買い換えて、弁償ものだよな。
冬は寒くて、体をくっつけて寝ていたよ。
子供の体ってのは体温が高いんだ。
ちょっと甘い匂いがしてな。
色々な思い出がある。
あんなに小さかった子供が、今は大きくなって、そして、魔王討伐に旅立つ。
なんだろうなあ。
寂しさ?
不甲斐なさ?
苛立たしさ?
よくわかんねえよ。
とにかく寝付かれねえんだ。
ベッドから起き出し、窓を開ける。
夜の空気が部屋に入り込んでくる。
冷たく新鮮な空気だ。
気分転換にはいいだろう。
空には笑っているような薄い三日月が浮かんでいる。
月が薄い分、星たちが輝いている。
静かな夜だな。
そうだ、明日、イーナが旅立つんだ……
トントン……
ドアをノックする音。
「ねえ、フェル。起きてる?」
イーナだ。
「ああ、まだ、な」
窓を閉める。
部屋は暗くなる。
ドアを開けると、部屋着のイーナが枕を持って立っていた。
暗闇の中、表情はわからねえ。
「どうしたよ?」
そうシンプルに聞くが、なんか少しだけ嬉しく思う。
明日旅立つイーナが夜に俺に会いに来てくれる。
なんとなくな。
「うん、ちょっと眠れなくて……」
イーナを部屋に入れ、一緒にベッドに座る。
まあそうだよな。
明日旅立ちだ。
俺よりも、本人の方が大変なんだ。
「このベッド、ずっとフェルと一緒に寝てたよね」
イーナがベッドを撫でる。
イーナもこの部屋を懐かしんでくれている。
「一緒にくっついて寝てたよね。フェルは筋肉でゴツゴツで。ちょっとだけ臭いんだ」
「おりゃあ、そんなに匂うか?」
ちょっと傷つくぞ。
「汗と、あと、ちょっと加齢臭が出てきてるんじゃない? だけどフェルの優しい香りも一緒にするんだよ。だから安心できるんだ」
俺の匂い?
自分じゃ気にならねえからな……
気をつけねえといけねえか。
「……だからさ、一緒に寝たいな。フェルの匂いの中で。落ち着くから」
もう、イーナも大きいんだ、ベッドが狭いだろう。
こんな大きな娘と一緒に寝る父親がどこにいるんだよ。
とか、言葉が浮かぶが、それを飲み込む。
そういうことじゃないよな、今日は。
「ああ、いいぜ」
ベッドの端に横になる。
隣にイーナが寝る。
ぎゅうぎゅうだ。
自然、体が密着する。
「フェル、腕枕」
枕持って来てるじゃねえか、と思うが。
イーナの枕に腕を乗せる。
イーナの頭が俺の腕に乗る。
こういうときに高レベルってのはいいと思ったりする。
イーナの頭の重さ程度じゃ、俺の腕は悲鳴を上げたりしねえぞ。
「ふふふ。子供に戻ったみたい。なんか嬉しい」
イーナは女神様の子供か?
生まれてから、まだ五年も生きていねえんだ。
それなのに魔王と戦える年齢まで、急激に成長させられている。
それは幸せなことじゃねえと思う。
本人にも相当な負担だと思う。
だが、それが必要なんだろう。
だがなあ、それでいいのかよ……
「ずっとね。ずっとフェルの子供のままでいられたらよかった。わかっているんだ。私が行かなきゃいけないって。スズハだって頑張っているんだって。だけど、行きたくない自分もいるんだよ。情けないんだよ。私、ダメダメなんだよ」
鼻をすする音がする。
イーナは泣いているんだ。
腕枕の手で、そっとイーナの頭を撫でる。
「イーナ、みんなそうだ。誰だって、イーナの立場だったら行きたくねえって思う。俺だって、魔王なんて戦いたくねえ」
「ちょっと前まで大丈夫だって思っていたんだ。旅に出て、魔王を倒す。それは覚悟していたんだ。だけど、今は行きたくない……」
「そうだな。怖いよなあ」
「ちがうの、魔王はどうでもよくて……この街から出たくないの。この街が好きなの。フェルの隣が好きなの。ずっと一緒にいたいの」
そりゃあ……どういう意味だ。
ずっと俺の子供のままでいたいということか?
それとも……
わからねえ。
だから。
「俺が付いて行ってやろうか」
と言ってみるんだ。
「ダメ。ジリでさえ、一緒に行けないんだよ。フェルなんて、余計にダメ」
フェルなんてってどういうことだよ。
なんで俺がジリの下だよ。
「ダメかあ。俺、結構強くなったんだがなあ」
「ダメ。フェルはここで、この街を守っていて。私の好きな街を。私の好きな人たちを」
「ああ、わかった。ちゃんと守るよ」
「お願いね、フェル。私、帰ってくるからね。この街に、フェルのところに」
イーナはまだ泣いている。
その頭をゆっくりと撫でながら、天井を見ていた。
俺にできることはもうねえのかな。
いや、イーナが言った通り、この街を守ること。
そしてイーナを待つこと。
それをやりゃあいいんだ。
それだけでいいんだ。
そう言い聞かせる。
いつしかイーナの寝息が聞こえる。
落ち着いたのだろうか。
安心できたのだろうか。
俺がそれを彼女に与えられたのなら嬉しい。
俺は眠れずに、イーナの体温を、体重を感じながら、今までのことを思い出していた。
イーナとの思い出を一つ一つ。
翌朝、目を覚ます。
それでもいつしか寝ていたようだ。
「おはよう、フェル」
イーナはもう起きていたようだ。
涙の跡はねえ。
なんだか優しく微笑んでいる。
「おう、おはよう。眠れたかい。もう少し寝ててもいいんだぜ」
「うん、ありがと。でも、フェルの寝顔を見てたの」
俺の寝顔かよ。
「おっさんの寝顔なんて見たって詰まらねえだろうが」
「ううん。それは人によると思うよ。私は――好きだよ」
なんだよ「好きだよ」って。
少しこそばゆいじゃねえか。
「じゃ、起きるぜ。今日もいい天気だ!」
窓の隙間から、陽射しが差し込んでいる。
「日課の鍛錬をして、エルマさんの朝食を食べるぞ」
「えー、鍛錬するんだ、旅立ちの日なのに」
「日課ってのはそういうもんだぜ。やらねえと調子が悪いだろうが」
「うん、フェルらしい」
イーナに笑われた。
だが、しめっぽいよりいいじゃねえか。
旅立ちの朝ってのはすがすがしくだよな。
『私、一人でベッドで寝ていました』
ジリが起きて部屋の前に、ちょこんと座っていた。
「ほら、ジリ。朝食に行こう」
『イーナ様、最後の夜だったのに』
「ま、俺に負けたってことだ」
『勝ち負けじゃありません! そして私が負けたわけじゃありません。ただ、私が起きなかった、気付かなかっただけです』
そりゃあ、イーナがこっちに来た時点で、ジリの負けじゃねえのかい?
ま、勝ち負けじゃねえよ、確かに。
だが、少しだけ嬉しかったりする。
『……引っ掻かれたいのですか?』
「なんでもねえよ。ほら、行くぞ、ジリ」
あれ?
ジリがイーナについていかねえってえと、ここに残るのかな。
もしくは森に帰るのか。
『フェルドが寂しいなら残ってあげますよ』
「そうだな……」
「ジリはここに残って、フェルと一緒に私を待っていてね」
「お姫様がそうおっしゃっているぜ。よろしくな相棒」
『仕方ないですね。フェルドのお守りでもして待っていましょう』
とすると。
「今日からは一緒のベッドだな」
『いやらしい。私に何もしないでくださいね』
「猫に何をするってんだよ、たく」
「ほんと、仲がいいよね、フェルとジリって」
イーナに笑われながら一階に降りた。
旅立ち。
そういや、俺が故郷から王都へと旅立ったのはどんなだっただろうか?
もうずいぶんと前だよ、よく覚えていねえ。
あのときは俺とレナーテとエトムントの三人だった。
それぞれの家族に見送られたような気がする。
ジュディおばちゃんは泣いていただろうか?
いや、泣いてなかったと思う。
気丈に笑ってたんじゃないだろうか。
今度は俺が送り出す番だ。
笑って送り出そうじゃねえか。
イーナが心配しないように、不安にならないように。
街の入り口に馬車が止まっている。
その横に、スズハたちがいる。
エトムント、プリシラとロレッタの『聖女守護騎士団』もイーナと一緒に街を出る。
彼らは一度王都へと寄り、そして、エヴァルレンドラ帝国へ。
そこから魔王討伐へと向かう。
ずいぶん寂しくなる。
見送る側もたくさんいる。
冒険者の仲間たち。
バルドゥル、マリアンネさん、ドミニク、テオ、ルッツ。
シャノンたち『清廉なる赤い薔薇』、カールたち『幸福の青い大樹』、ディーターたち『星を掴む強靭なる蔓』、ラーレたち『一角獣の透明な角』等々。
エルマさんとティム。
ダグラスとか子供たち。
イーナとかかわりのある街の人たち。
それと頼りにならねえ領主とかな。
大勢だ。
「いやあ、ほんとお世話になったよ。私、この街が好きになったよ」
スズハが手を差し出す。
その手を取って握手する。
コイツと握手するとはな。
最初はずいぶん嫌われていたような気がするが。
「終わったらいつでも遊びに来いよ。歓迎はしてやる」
「どうかな? 王様がそれなりの地位を用意してくれるって言ったんだよ」
「いやあ、おめえ、似合わねえだろうが。偉くなって王宮に引きこもるのかよ」
「はは、確かにそれは窮屈そうだ。私はメイジー、アガサとのんびり暮らしたいね」
「のんびりってのもイメージじゃねえなあ」
「きっとアクシデントは向こうから飛び込んでくるよ。私の場合はね」
「それじゃあ、この街にいてほしくねえよ。俺も巻き込まれるんだろう?」
「しっかりと巻き込んであげるよ、フェルド」
うん、コイツも余裕が出てきた。
一回り大きくなったように思う。
それなら。
「スズハ」
頭を下げる。
「イーナを頼む。俺が付いていってイーナを守りたいけど……俺は付いていけねえから、それはできねえから。お前に託す。頼む、イーナを守ってやってくれ」
「な、何してんだよフェルド。頭を上げてくれよ。大丈夫、私がしっかり魔王を討伐して、イーナちゃんをフェルドに、この街に返してあげるから。約束するから」
頭を上げて、スズハを見る。
困った顔をしている。
しょうがねえじゃねえか、俺には頼むくらいしかできることがねえんだから。
「まったく困ったお父さんだよ。イーナちゃんも愛され……」
「フェル……」
横で見ていたイーナが俺に近寄る。
んで……
キスをした。
「好きだよ、フェル。行ってきます。私を待っていてね」
何だよ……
何なんだよ。
「あ、私が帰ってくるまで浮気しちゃダメだよ。ジリ、見張っていてね!」
なんか、背後が騒がしい。
が、怖いので振り返らない。
「何してるんだ、イーナちゃん」
「これでシャノンちゃんとあいこだよ。シャノンちゃんもフェルドとキスしてたもんね」
いや、イーナ、それを今ここでばらすか?
「フェルドさん、シャノンちゃんに手を出していたんですか!」
マリアンネさんの声がする。
俺が答えねえといけねえか?
ありゃあ、シャノンに一方的に……
「それはそれは熱い口づけをしました」
「じ、事実に反するだろうが!」
つい、振り返っちまったよ。
シャノンが頬を染めている。
いやあ、マリアンネさんが怒っているよ。
エルマさんの表情も険しいじゃねえか。
どうしてくれるよ。
「あのときはあんなに激しかったのに」
「まさか、それ以上のことを!」
「マリアンネさん! だから、それは誤解だって。シャノンも紛らわしいことを言うなよ」
「既成事実になれば、フェルドさんは私のものでは?」
「そうはならねえだろうがよ!」
「フェルドさんは少しお説教が必要かもしれませんね」
勘弁してくれよ、エルマさん。
エルマさんの説教は怖いんだからよお。
「ははは。あ、指輪貰った分、シャノンちゃんよりリードしているかも」
右手を上げて、薬指にはまった指輪を見せびらかすように。
「あー、そうだ、それ、気になっていたのよ!」
「やっぱりフェルドさんからの贈り物でしたか」
「わ、私は負けてません。フェルドさん、私にも指輪を! 左手の薬指にお願いします!」
混沌が加速してるじゃねえか!
「あ、そうだ。これあげる。私の代わりだと思って、持っててね」
紐のネックレス。
ヘッドは木で彫られた拙い花。
手作りだろうか。
「可愛いでしょ? 本当は指輪をプレゼントしようと思ったんだけど、間に合わなかった。今度の指輪は左手の薬指かな!」
後ろのざわめきが大きくなる。
が、今は無視だ、無視。
関わっちゃいけねえ……
「じゃあね、フェル。ちゃんと大人しくしてるんだよ。行ってきます!」
イーナは旅立った。
手を振って、笑顔で。
爆弾を落としてから……
ま、元気そうでよかったよ。
さて、これからどうすっかなあ。
どう収拾つけるんだよ、これ?




