Ⅸ. 黒い電脳の迷宮
「国家」という組織が持つ最大の武器は、合法的な暴力の独占と、それを均一に執行するための「戸籍・登録システム」にある。現代のデジタル社会において、個人がこの登録情報の書き換えや破棄を試みることは、国家の統治根拠そのものに対する最高刑レベルの叛逆を意味していた。
二〇二六年の初夏、総合病院のICU。
ジャベール警視正の突きつけた端末には、マドレーヌ市長の顔が「元受刑者ウーティス・バルジャン」であることを証明する赤字のログが非情に点滅していた。
「言い訳は不要だ、ウーティス。お前が築き上げた『イタケ・リンク』の全資産とサーバーの統御権は、これより国家の管理下に置かれる。お前というバグは、再び加古川のサーバー……いや、今度はネットワークから完全に隔離された特別拘置所の闇へとアップデートされるのだ」
ジャベールの背後で、二人のサイバー警察官が電磁手錠を起動させ、パチパチと青い放電の音を響かせた。
しかし、ウーティス・バルジャン――かつて地中海を制した知略の王――の思考回路は、この絶体絶命のコンパイルエラーの瞬間にこそ、最も冷徹に、そして高速に回転を始めていた。彼の目的は、ここで自らの無実を証明することでも、築き上げた数十千億円の企業を守ることでもない。死にゆくファンチーヌと交わした「コゼットを救う」という、アルゴリズムを超えた人間としての契約を果たすこと、ただ一点であった。
「ジャベール警視正。あなたが信じるシステムは、確かに美しい」
ウーティスは静かに、しかし廊下全体に響き渡る声で言った。彼の強靭な指先が、ポケットの中で自作の超小型ウェアラブル・デバイスのスイッチを押した。
「だが、システムが完璧であればあるほど、その『例外処理』の自動化には一瞬の隙が生まれる」
その瞬間、病院内のすべての電子機器が静転した。照明が消え、バックアップ電源に切り替わるまでのわずか三秒間。ウーティスは自ら開発した高出力の電磁パルス(EMP)ジェネレーターを炸裂させたのである。ジャベールたちの端末が再起動のノイズを発したときには、すでにウーティスの巨体は病室の窓ガラスをぶち破り、夜の闇へと躍り出ていた。
三階の高さから、刑務作業で鍛え上げた鋼のような足腰のバネだけで無傷で着地したウーティスは、あらかじめ病院の裏口に待機させていた自動運転のEV(電気自動車)へと飛び込んだ。
車内で彼が最初に行ったのは、世界を震撼させる「ログの最適化」であった。彼は自社のプラットフォームを通じて、全網的なライブストリーミングを敢行した。
『私はマドレーヌ。いや、十年前のサイバー犯罪者ウーティス・バルジャンである。私が黒羽市で興した富のすべては、本日をもって市民のDAO(分散型自律組織)へと完全移譲する。国家が私を逮捕しようとも、この街の経済システムは止まらない。そして――現在、ダークウェブの『テナルディエ・ネット』に囚われているコゼットという名の少女を、私は必ず私の命にかけて解放する』
この動画は、数百万のタイムラインへ瞬時に拡散され、トレンドの最上位を埋め尽くした。自らの社会的地位と名誉、そして全財産をみずからドブに投げ捨てる「情報テロ」。ジャベールが管轄する警察庁の監視AIは、ウーティスという巨大なプログラムが自らデータを「自己崩壊」させたことで、その行動予測アルゴリズムに致命的なエラーを叩き出すこととなった。




