Ⅲ. プライベート・キー
その夜、ウーティス・バルジャンに提供された夕食と環境は、この質素なデジタル拠点の主において、最大限の「礼遇」を意味していた。
食卓には、温かい手料理とともに、ミリエル老人が唯一、過去の資産から引き継いでいた「純銀のクラシックな食器」が並べられた。それは、デジタル化された現代においてあえて使われる、工芸品としての銀器だった。そしてテーブルの中央には、二本の蝋燭が厳かに灯る「銀の燭台」が据えられていた。それだけではない。老人のデスクの上には、暗号通貨の黎明期に発行された、今や天文学的な価値を持つプライベート・ビットコインの秘密鍵が格納された、鈍い銀色に輝く最高峰の「ハードウェア・ウォレット」が置かれていた。
ウーティスは貪るように食事を平らげた。彼の目は、暖かなスープの湯気の向こうで、デスクの上に置かれたその小さな銀色の端末に釘付けになっていた。
(あのウォレットの暗号を解き、中身を海外の分散型取引所(DEX)でミキシングすれば、いくらになる?)
彼の脳内で、瞬時に「経済的計算」が始まった。十年の極貧と服役生活は、彼の思考を極端な実利主義へと染め上げていた。あのトークンがあれば、ダークウェブで完璧な偽造マイナンバーを入手し、新しいデジタル上のアイデンティティを買い、監視社会の目の届かない海外へ逃亡するプライベートジェットをチャーターすることだって可能かもしれない。国家という巨大な悪党に人生を奪われたのだ、ならば社会からこれくらいの「賠償金」をハッキングで徴収することは、己の正義において許されるのではないか。
老プログラマーはウーティスに、過去を責めるような問いは一切しなかった。ただ、社会のアルゴリズムがいかに人間を記号化し、傷つけているかについて、静かに語りかけるだけだった。
「ウーティスさん、この世には国家の法やAIのアルゴリズムよりも高い次元の秩序があります。人間はデータのみにて生きるにあらず、また、信用スコアの数字のみにて縛られるべきでもない。あなたを排除したこの社会のシステムを、私は深く憂慮しています」
その言葉は、ウーティスの頑なな心には届かなかった。むしろ、この老人の「無防備な善意」が、彼の中の冷酷な知略を刺激した。
(おめでたい老人だ。世界がどれほど残虐なデータ市場であるかも知らずに、綺麗事を並べている。システムを信じる者は、システムに裏切られるだけだ)
深夜、全員が深い眠りについた頃、ウーティスは音もなくベッドから起き上がった。刑務作業で鍛え上げたその怪力と精密な身体コントロールは、古い木造住宅の床板の一枚すら鳴らさない隠密行動を可能にした。
彼はデスクに近づき、自身のスマホを取り出した。端末のセキュリティをバイパスし、老人のハードウェア・ウォレットに物理的にアクセスする。十年のブランクがあるとはいえ、彼の指先は全盛期のハッキングの感覚を完全に記憶していた。わずか数分で、ウォレットのローカル暗号を解除し、数億円相当の暗号資産の所有権を、自身が用意した一時的な匿名アドレスへと転送する手続きを完了させた。彼はその銀色のウォレット端末を、背嚢へと詰め込んだ。
中央のテーブルに置かれた銀の燭台に目が留まった。
(これも持っていくか?)
だが、人間の心理とは奇妙なものである。あまりに過剰な物理的利得は、時として行動の機動性を損なう。何より、顔認証カメラに引っかかりやすい大きな金属塊はリスクでしかなかった。ウーティスは燭台をあえて残し、ウォレットと数点の銀の食器を入れた背嚢を背負うと、窓から夜の闇へと飛び降りた。
彼は走った。オデュッセウスがトロイアの包囲網を抜けた時のように、スマート街灯の死角を正確に選びながら、ひたすら都市の境界線を目指して疾走した。




