Ⅱ. 市場原理のセオリー
「市場原理」というものは、極めて排他的である。社会的な信用を持たない人間は、どれほど優れた労働力や技術を提供しようとも、まともな経済取引のテーブルにすら着くことができない。
ウーティス・バルジャンがその現代的な現実を知るのに、三日もかからなかった。
彼は新幹線に乗る金もなく、ただ北へ向かって歩き続けた。手元には、十年間におよぶ刑務作業の対価として支払われた、わずかな作業報奨金しかなかった。それも、デジタル決済が主流となった現代において、現金で渡された数万円の紙幣は、地方の自動化された店舗ではむしろ敬遠される代物だった。
最初の地方都市に辿り着いたとき、彼の胃袋は飢えで限界に達していた。彼はスマートな自動決済を導入しているビジネスホテルを訪れ、現金での宿泊と食事を求めた。フロントには人間がおらず、タブレットのAIコンシェルジュが対応した。
『宿泊手続きのため、マイナンバーカードをかざすか、顔認証を行ってください』
ウーティスが言われるままに顔をカメラに向けた瞬間、画面の緑色のランプが突如として不穏な赤色へと変わった。AIの合成音声が、冷徹に告げる。
『……エラー。お客様の信用ステータスでは、当施設のセキュリティ基準を満たせません。オンライン決済も確認できません。誠に恐れ入りますが、当ホテルへのご宿泊および施設利用はお断りさせていただきます』
「金は現金で払うと言っている。相場より多く出してもいい」
ウーティスは無人のフロントに向かって訴えたが、スピーカーからは『規約に基づき、退去してください。応じない場合は自動で警察に通報されます』という無機質な回答が繰り返されるだけだった。
ウーティスは拳を握りしめた。その気になれば、このフロントの自動ドアや受付システムなど、自らのハッキング能力と怪力で一瞬にして破壊することができた。彼の脳裏に、かつてオデュッセイアの神話で、一つ目の怪物ポリュペモスが旅人を貪り食った際、その目を焼き潰した獰猛な知略の記憶が明滅した。
(システムをクラッシュさせるか? あるいは、この街の通信網を麻痺させて全てを奪うか?)
だが、彼は踏みとどまった。ここで騒ぎを起こせば、再びあの監視社会の最深部、刑務所の壁の中へ回収されるだけだ。
彼は店を追われ、次にネットカフェやコインランドリー、果ては高架下の雨風を凌げる場所まで身を寄せようとしたが、すべての防犯カメラが彼を検知し、不審者としてアラートを鳴らした。現代のデジタル監視網という名のシステムは、彼という「異物」を完全に排除しようと機能していた。
日没が近づき、地方都市の郊外に吹き下ろす夜風が、彼の体温を容赦なく奪っていく。ウーティスは、スマート街灯の明かりすら届かない、鬱蒼とした森の入り口に佇む、古びた一軒の民家に辿り着いた。
その家の門柱には、「オープンソース・デジタル・コミュニティ」という小さな看板が掲げられていた。その家の主は、ミリエルという名の老プログラマーであった。この男は、現代の巨大なビッグテック企業が支配する中央集権的なWebの世界にあって、極めて異質な「個人」であった。彼はかつて暗号資産(仮想通貨)の創期に莫大な富を築いた伝説の技術者であったが、その資産の九割を「組織に属さない個人の救済」や、分散型の生活困窮者支援ネットワークの運営に回していた。自らは築数十年の質素な平屋に住み、インターネットの創世記から保持している、暗号化された「初期のハードウェア・ウォレット」だけを、かつての栄光の名残として保持している、一種の「人道主義的ギーク」であった。
ウーティスは半ば自暴自棄になりながら、その民家のインターホンを激しく押した。
「どなたですか」
画面に現れたのは、白髪の老プログラマーであった。ウーティスは、最初から自分を包み隠さず、手元のスマホの信用スコア画面をカメラに叩きつけるようにして吐き捨てた。
「俺は元受刑者だ! 十年間、刑務所で社会から消されていたハッカーだ! どこのホテルも、どこのコンビニも俺をエラーで弾き出した。俺には現金があるが、誰も電子決済のアカウントすら作らせない。お前も俺を不審者として通報するか?」
老プログラマーは、ウーティスの放つ圧倒的な殺気と、悲壮な眼光に眉一つ動かさなかった。それどころか、その穏やかな瞳に、深い理解の光を讃えて微笑んだ。
「ようこそ、名もなき旅人よ。ここはビッグテックのアルゴリズムに支配された場所ではありません。分散型の、誰の許可も要らない空間です。私のサーバーを叩く者に、過去のログや暗号化された前科を尋ねる必要はありません。ただ、あなたという個体が今、飢えと寒さに震えているということだけが、私にとってのすべてです。温かい食事を用意しましょう。ゲスト用のWi-Fiと、充電器も使いなさい」
ウーティスは耳を疑った。
「俺の言葉が聞こえなかったのか? 私は国家のインフラを攻撃したサイバー犯罪者だぞ」
「あなたのアイデンティティは、国家のデータベースが決定するものではありません」
老プログラマーは言った。
「あなたのプロトコルは、私にとって『私の兄弟』です」




