第8話 うっかり女神
背の高い草をかき分け、緑色の影が次々と街道へ姿を現した。
見える範囲だけでも10体を超えている。棍棒や錆びた短剣を手にした小柄な怪物たちは、甲高い声で合図を交わしながら円形に広がり、俺たちの逃げ道を丁寧に塞いでいった。
囲い込む手際だけは、やけに統率されている。集団行動の授業だけなら、この世界でも真面目に受けてきたらしい。
「ゴブリン、ですよね?」
『身体的特徴から、その可能性が高いと判断します』
フレイアさんの傍らに浮かぶ《勝利の剣》が、律儀に鑑定結果を返してくる。
ゴブリンは初心者向けの魔物だと、ゲームや小説で何度も見た覚えがある。ただし、それは武器や魔法を与えられ、戦う準備を整えた側からの評価だ。初期装備すら受け取っていない高校生にとっては、初心者向けの教材でも、そのまま人生を終わらせる凶器になる。
身の危険を感じる一方で、俺の中には場違いな期待も残っていた。異世界へ来たのなら、ステータスを確認し、転移特典として与えられた能力を知り、初期装備を手にして戦う。ここまで散々な目に遭ったのだから、1つくらい都合のいい力が用意されていても罰は当たらないはずだ。
俺は顔を叩く大雨の中で片手を掲げた。
「ステータス!」
何も起こらなかった。目の前へ半透明の画面が現れることもなければ、頭の中へ能力値が流れ込んでくることもない。雨粒だけが掌へ当たり、何事もなかったように指の間からこぼれていった。
「ステータス!」
2度目も同じだった。念のため少しだけ声量を上げたが、俺の能力ではなく、周囲のゴブリンから警戒するような声が返ってきただけである。
「そんなもの、見られるわけがないだろう。ゲームではあるまいし」
オティヌスが、何を馬鹿なことをしているのかとでも言いたげに俺を見る。1足す1の答えを調べるために世界を越えて検索機能を使った主神から、現実とゲームの区別について諭される日が来るとは思わなかった。
「それより見ろ、楓! 食べ放題だ!」
眼帯に覆われていない目を輝かせ、オティヌスは周囲のゴブリンを見回した。俺が失った異世界への期待は、どうやら彼女の食欲へ移動したらしい。返してほしい。俺が望んでいたのは強力なスキルであって、食材として査定されるゴブリンではない。
10体を超える群れを前にして、真っ先に浮かんだ感想が食べ放題なら、この主神の危機感は元の世界へ置いてきたか、最初から持ち合わせていないかのどちらかだ。
「オティヌス、本当に戦えるんですよね?」
「当然だ。私を誰だと思っている?」
1足す1で頭から煙を出し、空から落ちながら俺よりバッタを優先した昆虫ソムリエである。もっとも、本人へそのまま伝えたところで、偉業を並べられたと解釈する可能性が高い。俺は答える代わりに、ワイバーンの死骸から回収された《グングニル》へ視線を向けた。
飛行魔物へ絡みついていた巨大な網は元の大きさへ戻り、金色の長い柄の先で雨に濡れている。神話どおりの力が残っているなら、少なくとも俺よりは戦力になるはずだった。
「私の力を見せてやろう!」
オティヌスが《グングニル》を両手で構える。金色の柄が輝き、先端に取りつけられた網が左右へ大きく割れた。2つに分かれた枠は内側へ湾曲し、ゴブリンをまとめて挟める巨大な道具へ姿を変えていく。
神話に名を残す主神の武威は、異世界へ到着して間もなく、巨大なパスタトングへ着地した。伝説が雨に流され、街道脇の側溝へ消えていく。
「まとめて捕まえてやる!」
オティヌスが柄を振るうたび、巨大なトングがゴブリンを2体、3体と挟み上げた。捕まえた個体を地面へ放り出すのではなく、街道の1カ所へ器用に積み重ねていく。
調理前の食材を1カ所へ揃えているつもりなのだろう。扱い方には問題しかないが、ゴブリンを傷つけすぎず無力化する技術だけは本物だった。
包囲を崩された残りのゴブリンは、オティヌスを避けてフレイアさんの方へ回り込んだ。
だが、《勝利の剣》が自ら宙を走り、振り下ろされた棍棒を鞘で受け止める。錆びた短剣は金色の障壁で跳ね返し、続いて剣の腹や柄頭を叩き込んで、ゴブリンたちを次々と気絶させていった。
フレイアさん本人は、1歩も動いていない。何もしなくても装備がすべて解決してくれる環境は、彼女に尽くされた男性の末路を小規模に再現しているようにも見えた。本人の生活能力を奪う前に、まず自分が剣へ仕事を任せきっている。
やがて、街道を塞いでいたゴブリンはすべて無力化された。
戦力として見れば、2柱は間違いなく強い。俺が武器を持つ必要も、危険を冒して成長する必要もないほど、目の前の戦闘は一方的に終わっている。この2人がいれば、異世界でも何とか生きていけるかもしれない。
「こいつらは、どう調理するのがいいだろう?」
「食べてはいけません。街道整備や荷物の運搬をさせて、楓さんの生活費を稼がせましょう」
安心した俺が馬鹿だった。
オティヌスは食材としての査定を始め、フレイアさんは俺の生活を支える無償労働者としての運用を考えている。放置すれば、片方は魔物を食べ尽くし、もう片方は異世界へ労働基準法の必要性を生み出しかねない。
俺の身の安全より先に、この世界の平穏を2柱から守る必要が出てきた。
「食べるのも、働かせるのも駄目です。襲われたとはいえ、もう戦えないんですから解放してください」
「せめて味見だけでも」
「駄目です」
「衣食住を保証したうえで、楓さんのために20時間ほど働いていただくのは?」
「残り4時間で何を保証するつもりですか?」
意識を残していたゴブリンたちが、積み重なったまま身を寄せ合っている。最初に襲ってきたのは向こうだが、食材査定と労働条件の説明を同時に受けることまでは想定していなかっただろう。甲高い悲鳴が、戦闘中より切実なものへ変わっていた。
その時、俺たちの背後で空間に赤い亀裂が走った。縦に伸びた裂け目が複雑な紋様を描きながら円形へ広がり、その奥から得意げな女性の声が響いてくる。
「ようやく見つけたで! 空間転移を司る女神ロキ様が、楓たちの救援に──」
名乗りが終わるより早く、円形の転送口が横倒しになった。出口の向きだけが、何の前触れもなく90度回転したらしい。奥にいた本人まで巻き込まれ、得意げだった声が一瞬で悲鳴へ変わる。
「なんで出口だけ横向くん!? ちょっと待ち、まだ準備が──」
転送術式は、術者の都合など待ってくれなかった。
赤毛の女性が頭から勢いよく射出され、濡れた街道を滑っていく。減速する様子もないまま、先ほどオティヌスが積み重ねたゴブリンの山へ突っ込み、そのまま何体かを押しのけて、泥濘へ頭から突き刺さった。
深紅の衣装に包まれた腰から下だけが、こちらへ向かって律儀に突き出されている。役目を終えた赤い転送口は、事故現場から責任だけを持ち去るように閉じていった。
「……いまのは?」
「うっかりやらかす女神です」
フレイアさんが、積み重なったゴブリンから突き出ている下半身だけを見て即答する。顔どころか上半身すら確認できていないが、迷いなく《うっかりやらかす》なんて付け加えるあたり慈悲は一切なかった。
神々の世界には、顔より先に同僚を判別できる身分証でも存在するらしい。あってほしくない種類の身分証だった。
「紹介は後でええから、先に助けてくれへん!?」
ゴブリンの山から、くぐもった抗議が聞こえてくる。
オティヌスが《グングニル》を軽く振ると、巨大なトングが積み重なったゴブリンを上から順番に挟み、街道の脇へ移していった。数体を退けたところで、ゴブリンの山を貫通し、泥濘へ頭から突き刺さっていた赤毛の女性が姿を現した。
俺とフレイアさんでロキの両脚を掴み、濡れた地面から引き抜いた。
「助かったわ。さすが楓やな」
「俺たちを助けに来たんですよね?」
「結果だけ見れば、合流には成功しとるやろ?」
救援者が救助対象へ助け出されても、同じ場所へ到着できれば成功として処理されるらしい。結果の採点基準まで、担当者に都合よく作られている。
「フレイアさん、ゴブリンたちの怪我を治してください。治療が終わったら解放します」
「楓さんのご指示であれば」
フレイアさんが手を向けると、金色の光が街道へ広がった。
オティヌスに挟まれ、《勝利の剣》に叩かれ、最後には救援へ来た女神の下敷きにされたゴブリンたちの傷が塞がっていく。意識を取り戻した個体は互いに身を寄せ合いながら立ち上がったが、もう武器を拾おうとはしなかった。
俺が草原の方を指すと、ゴブリンたちは何度もこちらを振り返りながら逃げていく。
なぜか、その目には命を助けられた相手へ向けるような感謝が浮かんでいた。
異世界で最初に救った命は、俺を襲ってきたゴブリンの群れだった。続いて助けたのは、救援へ来たはずなのに、到着と同時に救助される側へ回ったうっかり女神である。
算数のできない主神と、愛情で英雄を暴君へ変える美の女神。3人目まで揃えば、今度こそまともな同行者が現れるかもしれないという期待は、赤い転送口と一緒に閉じてしまった。
これ以上ヒロイン枠へ期待を持つのは、俺の見る目ではなく学習能力の問題になりそうだ。




