第9話 この作品にヒロインはいない
雨脚がさらに強くなったため、俺たちは街道脇に立つ大樹の下へ移動した。
太い根が地面から大きくせり出し、その間に雨風を避けられる空間がある。フレイアさんが金色の障壁を広げると、横殴りの雨は光の表面を滑り落ち、濡れた衣服を叩く不快な冷たさもようやく遠ざかった。
さきほど救出したロキは、フレイアさんの治癒を受けるなり何事もなかったように立ち上がり、濡れた深紅の衣装を両手で払っている。
頭からゴブリンの山へ突入した直後とは思えないほど、立ち直りだけは早かった。ダメージ判定より羞恥心の回復力の方が優秀らしい。
「それで、空間転移と術式構築に関しては、神々の中でも指折りだというロキさん」
「お、おう。なんや改まって」
「俺たちが正規の受け入れ都市ではなく、空から落とされた理由を教えてください」
得意分野を褒められたと思ったらしいロキの顔から、分かりやすく喜色が消えた。表情筋の動きだけで自白調書が1枚書けそうだった。
「それについては、うちも悪かったと思っとるよ?」
どこかで聞いたような言い方だった。
思わずフレイアさんへ視線を向けると、本人は自分と似ているとは微塵も思っていないらしく、穏やかな笑顔を浮かべながら俺の髪を布で拭こうとしていた。
同じ台詞を、同じ温度で、2柱の女神が使い回している。北欧神話には謝罪のテンプレートでも配布されているのだろうか。
「自分で拭きます」
「遠慮なさらなくても、お身体が冷えてしまいます」
「その心配ができるなら、自分で拭く機会も残してください」
布を奪還してから視線を戻すと、ロキは大樹の根へ胡坐をかき、その手前の地面へ指先で簡単な術式を描き始めた。
反省文の代わりに現場検証を始めた技術者、という構図である。少なくとも土下座よりは専門的に見えた。
「世界を越える転送経路に、ほんの僅かな揺らぎが出とったんや。せやから、経路を安定させる補助術式を追加したんや」
「頼んでいない機能を、安全のために付け加えたんですね」
「そこだけ切り取ると、うちが余計なことしたみたいやないか。実際、楓らは吐いとらんやろ?」
「吐く前に落ちたので、比較対象がありません」
乗り物酔い防止機能を飛行機へ追加した結果、目的地から400キロ離れた草原へ墜落したようなものだ。
乗客が吐かなかったのは快適だったからではなく、胃の中身より先に命を心配していたからである。
「追加した補助術式が、転送経路の途中に残っとった古い空間の裂け目と共鳴したらしい。出口を、こっちへ丸ごと繋ぎ替えてもうたんや」
「しかも、出口を空へ向けたと」
「それは現地の空間が捻れとったせいや。出口の向きだけが横から上へ回転して──」
「結果として、俺たちは空から落ちました」
「目的地の近くには出せたんやから、転送そのものは成功しとる」
同じ理屈を採用すれば、日本行きの飛行機が北海道ではなく九州へ着陸しても、国内だから定刻どおりの到着になる。むしろロキの基準なら、乗客が海に着水しても「濡れる場所には出せた」で通過しそうだった。
「正規の受け入れ都市まで、直線距離で400キロほど離れているそうですが」
ロキの指が止まった。
地面へ描きかけていた術式を靴の裏で消しながら、何気ない素振りで大樹の外へ顔を向ける。
誤魔化す者は視線を逸らすという、人間にも神にも共通する分かりやすい機能が備わっていた。せめてもう少し高性能な誤魔化し方を実装してほしい。
「……フレイアから聞いとったんか」
「答え合わせのつもりで聞きました」
「世界と世界の隔たりから考えたら、400キロなんて誤差の範囲やで」
「俺の徒歩に、誤差を吸収する機能はありません」
400キロ。改めて数字にされると、胸の奥へ重いものが沈んだ。スマートフォンは制服のポケットに残っているが、圏外どころか時刻表示すら見覚えのない記号に化けている。地図も交通手段もない状態で、東京から名古屋を歩けと言われたようなものだった。
「求人広告にあった3つの特典と、オティヌスの特殊同行手当は使えないんですか?」
「特典は、正規の受け入れ窓口で本人確認と登録を済ませてから、1つ選ぶ決まりや。同行手当も契約満了時の報奨金へ加算されるから、今すぐは受け取れへんな」
宿泊費無料を選んでも、対象になるのは指定施設だけ。食事補助も現地で発行される登録証がなければ利用できず、初期魔法についても、適性を調べてから選択する仕組みらしい。
その手続きを行う窓口が、ここから400キロ先にある。
将来受け取れる同行手当は増えたが、雨をしのぐ屋根も、今日の食事も、現在地から目的地まで移動する手段も手に入らない。福利厚生というものは、利用できる場所へ辿り着けない人間に対して驚くほど無力だった。
「いま、ここから受け入れ都市まで転送できますか?」
「無理に繋げることはできる。ただ、この辺りは空間の歪みが強すぎるんや。先に周囲を調べて、経路を安定させる補助術式をもう少し追加せんと──」
「その《安全のための追加機能》が、さっき俺を空から降らせた元凶なんですが」
「今度はちゃんと調整するで!」
「調整した結果がこれです」
ロキは技術者としての尊厳を傷つけられたように眉を寄せたが、こちらからすれば、彼女の善意ほど質の悪いものはない。
悪意なら警戒できるが、善意は改善の顔をして近づき、発動した瞬間に目的地を動かす。次に改善されたら、大陸ごと変わりかねない。
「事故を起こしたんは、うちや。安全な経路が見つかるまで転送は使わんし、責任を持って受け入れ都市まで同行したる」
言い訳を重ねていた声から、僅かにふざけた調子が消えた。
ロキは胡坐を解いて座り直し、神妙な顔で頭を下げる。態度だけを見れば、自らの失敗を認め、被害者を目的地まで送り届けようとする責任感の強い女神に見えなくもない。
以前の俺なら、素直に反省しているのだと思っただろう。だが今の俺は、着地から数分でこの手のポーズを2度見ている。女神が神妙な顔をした時は、疑うのが正しい作法らしい。
「同行する必要はありませんよね。1度へ戻り、事故を報告してから、救援できる者を寄越せば済む話では?」
「いや……戻るんは、ちょっとな」
ロキの視線が再び泳いだ。今日何度目の回遊か、もう数えていない。
「今はお前を捜している《しばき隊》も、こちらの世界までは追ってこないだろう。戻れば即座に指導室へ引きずり込まれるだろうな」
それまで黙って雨を眺めていたオティヌスが、何の前触れもなく事情を暴露した。
ロキの顔から表情が消える。ゴブリンの山から引き抜かれた時より深い絶望が浮かんでいた。人間、驚きすぎると真顔になるらしい。
「なんで言うんや!」
「楓が戻れない理由を尋ねたからだ」
「うちに聞いとったんや! あんたが正直に答える場面やない!」
「質問には正直に答えろと、以前お前が教えたはずだ」
「そんな教育した覚え全然ないわ!」
教え子の暴走を止められない教師のようなロキと、教えていない知識を的確なタイミングで実践するオティヌス。教育とは何なのか、異世界に来て早々に哲学的な疑問が増えた。
「その《しばき隊》というのは?」
「神々の規律を乱した者を取り締まる異端神問官部隊です」
答えたのはフレイアさんだった。ロキが慌てて口元へ人差し指を立てるが、戸板ごと燃えたあとに火の始末をしているようなもので、もはや意味を成していない。
神の口に戸は立てられない。立てれば燃える。
「取り締まりと申しましても、相手は神です。通常の拘束では反省なさらない方も多いため、捕縛後は肉体へ直接反省を促すこともあるそうですが」
「それは取り締まりの範囲に収まっているんですか?」
「神は頑丈ですので」
頑丈だから殴っていいという理屈が、そのまま神々の労務規定になっているらしい。人権も神権も、この世界では耐久力でグレードが決まるようだった。
「ロキさんは転送設備へ無許可で術式を追加し、呼び出しを7回無視しています。8回目の通知が届いたあと、皆様の救援要請を見つけて転送口を開いたようですね」
「7回も無視できる神経、ある意味尊敬します」
「うちかて色々忙しかったんや!」
「8回目でようやく動いたことについては?」
「……9回目が来たら、多分もっとまずかった」
9回目の督促状が、いったいどれほどの威力を秘めているのか。想像しただけで、俺まで転送を怖くなってきた。
「つまり、俺たちを助けるためだけではなく、《しばき隊》から逃げるためにこちらへ来たんですね」
「人聞きの悪い言い方せんといてくれるか。救援が7割で、一時避難は3割くらいや」
「出発前は、《これでしばらく見つからへん》と言っていた。救援対象について調べ始めたのは、転送口を開いたあとだ」
割合の内訳が、監査のたびに変わる決算報告みたいだった。
「オティヌス、あんた自分が何喋っとるか分かっとるか!」
「分かっている。お前がこちらへ来た理由だ」
間違ってはいない。間違ってはいないからこそ、ロキには言い返す言葉がないらしく、オティヌスの肩を掴んだまま小刻みに震えていた。
救援と避難の比率が、証言のたびにさらに逃亡側へ傾いていく。最終的に何対何で着地するのか、いっそ集計表を作りたくなってきた。
ロキは慌ててオティヌスの口を両手で押さえたが、この主神を黙らせられた者を俺はまだ見ていない。
事故を起こした責任を取って同行するという言葉に、嘘はないのだろう。ただし、帰れば異端神問官部隊から肉体へ直接反省を促されるため、俺たちへ同行する方が都合もよかったらしい。
責任感と逃亡が同じ方向を向いた結果、ロキは非常に頼もしい顔で旅への参加を申し出ていた。
俺たちを助ける使命と、制裁から逃げる目的を1つの転送で片づけようとした結果、本人まで救助される事態を引き起こす。
高い技術力を持ちながら、その使い方だけが致命的に危なっかしい女神だった。
北欧神話は、俺の知らないところで1度崩壊していたのかもしれない。
こうして俺たちは、目的地まで400キロ離れた大草原で、神々の世界へ帰るに帰れない技術者まで同行者として抱えることになった。
就職初日にして、俺のパーティー編成は《戦力》ではなく《事情持ち》で埋まりつつあった。




