第7話 タイラントメーカー
女神フレイアは、その名にまつわる逸話に違わず、俺の目から見ても美しい女性だった。
波打つ金色の髪に、白を基調とした衣装。空から落ちてきた俺を受け止め、冷えた身体を気遣ってくれる振る舞いまで含めれば、異世界で最初に俺を助けてくれた女神として申し分ない。
救助から数分も経たないうちに、本人の同意なき強制脱衣を始めようとしなければ。
フレイアさんの傍らに浮かぶ剣が、鞘ごと僅かに傾いた。
『警告します。フレイア様による継続的な生活介助を受けた男性は、短期間で自立性を著しく失う傾向があります』
「装備品から先に警告が出るくらい、前例があるんですか?」
フレイアさんは否定せず、悪意の欠片もない笑顔を浮かべている。無罪を主張する時の顔ではなく、表彰式で微笑む時の顔だった。
《勝利の剣》と名乗った自律型の剣によれば、彼女は自立した頼れる男性を好み、献身的に尽くすらしい。食事を用意し、衣服を整え、身の回りの雑事を引き受け、本人が何もしなくても暮らせる環境を少しずつ完成させていく。
やがて男性は、自分が努力しなくても誰かが満たしてくれる状態を当然だと思い始める。最初に失うのは生活能力だが、症状が進めば感謝や遠慮まで消え、周囲の人間も自分へ尽くして当然だと考えるようになるという。栄養満点のスープに、ゆっくり毒を溶かしていく調理法だった。
『過去には、名君と称された人物が暴君へ変貌した事例、自らを世界の中心と誤認した事例も確認されています。一説では、後世に魔王と呼ばれた者の中にも、フレイア様による長期介助を受けた元英雄が存在します』
「生活介助の最終地点が、着替えのできない男ではなく魔王なんですか?」
「皆様、私がお世話を始めた頃は、とても立派な方々でした」
『そのうち複数名は、後世の英雄によって討伐されています』
「立派になった人間の末路として最悪でしょう」
着替えを手伝うところから始まり、最後には別の英雄が討伐へ来る。介護施設のパンフレットに載せてはいけない実績だった。
『この実績から、フレイア様は一部で《タイラントメーカー》《暴君製造機》《不良品製造機》、または《最悪の傾国の美神》と呼称されています』
「異名が1つも女神への褒め言葉になっていませんけど」
「頼りにされると、つい応えてしまうだけなのです」
その《つい》で国が傾き、魔王が生まれ、英雄が後始末へ駆り出されている。世界史の教科書に、脚注として名前が載る日も近いかもしれない。
美の女神から自立した頼れる男性として認められたことに、嬉しさや誇らしさを感じる余裕はない。それより先に、次の暴君候補として生活介助の対象へ選ばれた恐怖が遥かに勝っていた。
俺が想像していた異世界のヒロインは、いったいどこで道に迷っているのだろう。
「助けていただいたことには感謝します。ただ、ここから先は別行動でお願いします」
拒絶されたフレイアさんは傷つくどころか、むしろ瞳を輝かせた。
「ご自分のことをご自分でできる方なら、私がどれほど尽くしても、すぐには困らないかもしれませんね」
「俺の自立心で、暴君化までの耐久試験を始めないでください」
距離を取ろうとした結果、彼女の好みへ最短距離で近づいてしまった。自立した人間ほど世話を焼きたくなるのなら、逃げようとする行為そのものが追跡する理由になる。皮肉にもほどがあった。
「着替えは自分でできます。それより、フレイアさんも《ヴァルハラ》の関係者なんですか?」
「ええ。日本区域へ派遣される方々の支援を担当しています」
「日本区域?」
この世界には、日本と呼ばれる地域が存在するらしい。俺の暮らしていた日本とは歴史も状況も異なる、別の世界線にある国だという。
「そこから、ここまでどれくらい離れているんですか?」
「およそ8000キロです」
「仕事中に偶然通りかかる距離ではありませんよね?」
東京から大阪へ出張した職員が、帰り道で外国の大陸を散歩しているようなものだった。寄り道という言葉へ収納するには、地球儀の縮尺が必要になる。
「各地の支援状況を、自主的に確認していたのです」
『補足します。フレイア様は正式な出張申請を行わず、日本区域の担当場所を離れています。現在地周辺における支援業務も、フレイア様の担当には含まれていません』
持ち主によって磨かれた説明を、装備品が容赦なく切り捨てた。上司の言い訳より、部下の内部告発の方が先に真実へ辿り着く職場らしい。
「つまり、職務を放棄して大陸を歩き回っていたんですね?」
「放棄ではありません。より広い範囲へ、自主的に支援の手を差し伸べていたのです」
「実際に、誰かを支援しました?」
フレイアさんの微笑みが、ほんの僅かに固まった。
返事がない。それだけで、活動実績については十分に理解できた。無言の説得力だけなら、契約書1枚分に匹敵する。
「では、俺たちが向かうはずだった受け入れ窓口も、フレイアさんの担当ではないんですか?」
「ええ。ここから約400キロ離れた大陸内の窓口には、別の担当者が配置されています」
8000キロ離れた日本区域の担当者が職場を離れ、他人の担当区域を自主的に見回っている途中で、400キロの誤転送を受けた俺と遭遇したらしい。ロキの転送事故がなければ、俺とフレイアさんが出会う理由は1つもなかった。運命の出会いというより、2つの過失が偶然衝突した交通事故に近い。
「担当者ではないのに、どうして俺を助けたんです?」
「空から落ちてくる楓さんを見つけたからです」
フレイアさんは、何を当たり前のことを尋ねるのかとでも言いたげに首を傾げた。
職務上の責任もなければ、報酬が出る保証もない。それでも、落下している人間を見つけたから助けた。その判断だけを取り出せば、彼女は間違いなく善良な女神だった。
「それなら、助けていただいて本当にありがとうございました」
「いいえ。当然のことをしたまでです。これから楓さんの衣食住と財産を管理し、老後の生活まで責任を持って──」
「救助後の人生まで持ち帰らないでください」
「伴侶につきましても、すでに私で決定しておりますのでご安心ください」
「そこが1番安心できないんですよ」
善意を評価した直後に、その善意が俺の人生全体へ根を伸ばし、最後には本人まで住み着いた。賃貸契約より早い入居速度だった。
「俺の将来は自分で決めます。生活費も自分で稼ぎますし、財産の管理も任せません」
「でしたら、楓さんが自力で生活を築かれる過程を、隣で支えさせていただきます」
拒絶するたびに条件だけが調整され、同行するという結論は1度も動いていない。別行動を求めているはずなのに、話し合いを続けるほど、俺専属の支援計画だけが具体的になっていく。交渉ではなく、逃げ道を順番に塞がれている気分だった。
「まずは雨をしのげる場所を探します。俺たちは現在地も、安全な場所も分かっていません」
「ご安心ください。楓さんの安全は、私が必ずお守りします」
「それは助かります。ただし、守ることと世話をすることは分けてください」
「善処いたします」
『警告します。フレイア様が《善処》と回答した場合、要望が実行される確率は著しく低下します』
「装備品に答え合わせされる言葉を使わないでください」
フレイアさんは何も言わず、《勝利の剣》の柄へ手を伸ばした。
剣は触れられる直前に滑るように距離を取り、俺の背後へ避難する。自律型の装備から身を隠す場所として選ばれたことで、俺は女神に続いて神器の面倒まで見る立場になったらしい。就職1日目にして、部下が2人に増えていた。
「主へ正直に報告しただけで避難が必要になる職場環境も、あとで改善してください」
「楓さんがお望みなら」
『感謝します』
本人同士で解決してほしい。
俺とフレイアさんが話している間、オティヌスは草原へ逃げた小さな虫を追い回していた。声をかけると、ようやく諦めて戻ってきたが、街道へ倒れた飛行魔物を見た途端、その場へ踏ん張る。
『対象は成体のワイバーンと推定します。飛行能力を持つ竜種の1種で、通常は上位ハンター複数名による討伐が推奨される個体です』
落下中に偶然捕まえた相手が、複数人での討伐を推奨される上位種だったと今更判明した。空中で錐揉みにされた記憶へ、いまさら恐怖を追加されても困る。
「断る。私が倒した獲物だ。このワイバーンの肉があれば、朝、昼、晩、その次の朝、昼、晩……とにかく食事には困らない!」
途中から同じ区切りを繰り返し始めた。足し算も時計も分からない主神は、食事の予定だけを際限なく先へ延ばせるらしい。
「持っていくなら、自分で運んでください」
「当然だ。この程度、私1人で──」
オティヌスがワイバーンの尾を掴んで引っ張る。
死骸は僅かにも動かず、力を込めた本人の足だけが濡れた街道を滑った。そのまま尻餅をついたオティヌスの横で、フレイアさんが軽く手を向ける。
金色の光がワイバーンを包み、巨大な身体を宙へ持ち上げた。
「助かるぞ、フレイア!」
「お気になさらず」
別行動を申し出た直後に、同行する理由を2人だけで完成させないでほしい。連係プレーだけは妙に息が合っている。
虫を主食とし、計算ができず、組織全体から厄介者として扱われていた主神。普段は母性的で献身的だが、気に入った相手を守るためなら、組織の規則や本人の意思まで笑顔で踏み越え、その介助を受け続ければ名君すら暴君へ変える美の女神。
神話に記された性能だけを見れば、どちらも旅へ連れていくには申し分ない。実際の使用感まで確かめれば、契約前に必ず確認すべき注意事項が、性能表の裏側へびっしり並んでいた。取扱説明書があるなら、太字の警告文だけで1冊終わりそうだった。
『周辺に複数の生体反応。人型魔物と推定します』
《勝利の剣》が切っ先を草原の奥へ向けた。
背の高い草が幾つも揺れ、その隙間から緑色の小鬼が姿を現す。先ほど衝撃で吹き飛ばされた群れとは別らしく、粗末な剣や棍棒を手にした個体が、次々と街道へ集まってきた。
俺には戦う力がなく、安全な場所の当てもない。防御、治療、輸送を1人でこなせるフレイアさんを追い返す行為は、生活の自由を守る代わりに生命を差し出す取引に近かった。
「……安全な場所へ着くまで、同行をお願いします。ただし条件があります」
「何なりとお申しつけください」
「食事、着替え、入浴は自分で行います。歩ける時は自分の足で歩く。俺の許可なく金品や物を用意しない。それから、俺のためという理由で、ほかの人を勝手に利用しないでください」
フレイアさんは少し考え、真剣な顔で確認してきた。
「ネギを背負って自分から近づいてきたカモから、ネギだけを受け取るのは問題ありませんか?」
「カモにするなと言ったんです」
俺のためなら他人を利用することも献身へ含める女神に、言葉の意味を都合よく曲げないという条件まで追加する必要がありそうだった。契約書は増える一方で、自由は一向に増えない。
異世界へ来て、まだ10分も経っていない。
俺の隣には、足し算ができず、バッタと魔物を主食にするポンコツ主神がいる。反対側には、善意と母性に満ちていながら、その愛情だけで名君を暴君へ、英雄を魔王へ変えた実績を持つ傾国の美神が立っている。
どちらの欠点も、本人の性根へ深く根を張っていた。
先に俺を食い潰すのがオティヌスの食欲なのか、フレイアさんの愛情なのか。できることなら、どちらも答えが出ないまま6カ月を終えてほしかった。




