第6話 似非ヒロイン枠
暗闇の中を落ち続けていた身体へ、突然、冷たい雨が叩きつけられた。
視界を覆っていた白い光が消え、代わりに広がったのは、厚い雲に覆われた灰色の空だった。遥か彼方には街らしきものが霞んで見えるが、もはや地平線の一部と変わらないほど遠い。
眼下に広がっているのは、明かり一つ見当たらない大草原である。
俺たちを受け入れる窓口があるという城壁都市は、いったいどこへ行った。
「高い高い高い高いッ!」
人生でこれほど《高い》しか口にできなかった五秒間はない。語彙が恐怖に食い尽くされ、残された形容詞一つだけで状況を報告していた。
落下の勢いで制服が激しくはためき、雨粒が小石のように頬を打つ。着地方法を考えるより先に、あと何秒まで人間の輪郭を保っていられるか心配する段階だった。
ロズウィアさんは転送直前、《着地する前に》と言いかけていた。
その先こそ、いま最も必要な情報だったのではないだろうか。安全に関わる説明を最後まで聞く権利は、床が消えた瞬間に俺の手から奪われている。
「着地する前に、何をすればいいんだよ!」
叫んでも、《ヴァルハラ》から返事はない。
このままでは、《回転しながら死ぬ》か《姿勢よく死ぬ》かを選ぶくらいしか自由がなかった。せめて求人サイトへ低評価をつける権利くらいは残してほしい。
「楓、落ち着け! 地面へ着く前に止まればよい!」
頭上から声が聞こえ、黒衣の少女――オティヌスが同じ空を落ちてきた。
首から提げた紐の先では、金色の虫籠が風に煽られている。片手には虫取り網の姿をした《グングニル》を握り、本人の顔には恐怖ではなく、初めて滑り台へ挑む子供のような興奮が張りついていた。
その余裕があるなら、主人の命令を聞かず、いまだ行方不明になっている八本脚の神馬を探してきてほしい。空を駆ける神馬が必要になる場面としては、いま以上の機会など滅多にないはずだ。
「その止まり方を聞いているんです!」
「私に任せろ!」
任せた覚えはなかったが、オティヌスは《グングニル》を大きく振りかぶった。
先端についていた金色の網が、一瞬で数十倍の大きさへ広がる。黒雲の下を飛んでいた竜じみた魔物へ放たれ、その胴体と翼をまとめて絡め取った。
「食料を捕まえたぞ! 私の夕食だ!」
俺を助けるためではなかった。
飛行魔物へぶら下がったオティヌスの落下速度が、一気に緩む。首から提げた虫籠を胸元で跳ねさせながら、彼女は空いている手を伸ばし、落下を続けていた俺の腕を掴んだ。
引き上げられた身体が宙へ浮き、ひとまず地面へ向かう速度だけは落ちる。
方法と目的には重大な問題があるものの、神聖な虫取り網を即席のパラシュートへ転用するという発想自体は成功していた。
俺たちは異世界へ到着して数秒で飛行魔物と遭遇し、命綱を夕食候補へ任せることになったが、ここから加入できる保険はあるのだろうか。
当然、捕まった魔物は俺たちの都合など考えてくれない。
巨大な網へ絡まった翼を激しく動かし、空中で体勢を立て直そうと暴れ始めた。伸びた《グングニル》を中心に魔物が回転し、その先へぶら下がるオティヌスと俺まで、まとめて錐揉み状態へ巻き込まれる。
自由落下から、支柱の外れた絶叫遊具へ乗り換えただけだった。
「見ろ、楓! 空を飛んでいるぞ!」
「魔物に引きずられているだけですううううううう!」
「地面へ落ちていないなら同じだ!」
その理屈が通るなら、崖から突き落とされた人間も、地面へ着くまでは空中散歩を楽しんでいたことになる。
オティヌスが胸を張った直後、暴れた魔物が大きく身体を捻った。その衝撃で首から提げた《グレイプニル》が跳ね上がり、留め具の甘かった蓋が開く。
中に入っていたバッタが、強風に攫われて次々と空へ散っていった。
「ああっ、私の昼食が!」
オティヌスは反射的に俺の腕を放した。
「同行者と自分の命を優先しろ、馬鹿あああああ!」
「命はあとで拾えるが、逃げたバッタは二度と見つからないかもしれない!」
俺の身体が再び地面へ向かって加速する一方、オティヌスは風の中へ腕を伸ばした。指先が一匹の後ろ脚を掴んだ瞬間、その顔へ神話級の達成感が浮かぶ。
直後、飛行魔物が最後の力で翼を大きく振った。
片手には捕まえたバッタ、もう片方には魔物へ繋がる《グングニル》。どちらかを手放さなければ、腕ごと持っていかれそうな状態で、オティヌスが選んだのは当然のようにバッタだった。
《グングニル》から手を放し、捕まえた一匹を両手で大切そうに包み込む。
飛行魔物は巨大な網を引きずったまま遠ざかり、オティヌスも俺の少し上から落下を再開した。伝説の神槍より昼食を優先した結果、主神の装備は異世界到着から一分も経たず、現地の魔物に持ち逃げされている。
眼下の大草原が急速に近づき、やがて一本の街道や、その周囲を徘徊する小さな人影まで見分けられるようになった。
どう見ても、窓口のある城壁都市ではない。
「本当に転送先を間違えてるじゃないか!」
ロズウィアさんは、《転送先を間違えなければ》と確かに言っていた。あの条件つきの安心は、契約開始から数秒で不渡りになったらしい。
地面が迫る。
この高さから叩きつけられれば、元の世界で待っていたはずの事故より先に人生が終わる。死から逃げるために契約した人間の死亡予定を、異世界到着直後に前倒しするのは洒落になっていない。
その時、眼下へ金色の光が広がった。
柔らかな光の膜が落下する俺の身体を受け止め、衝撃を幾重にも分けて地面へ逃がしていく。急激に速度が落ちても身体が引き裂かれることはなく、骨も内臓も本来あるべき場所へ残っていた。
両足が濡れた街道へ触れる。
勢いを殺しきれずに片膝をついたが、少なくとも自分の足で立っていた。手足を動かし、身体の各部が揃っていることを確認してから、ようやく呼吸を再開する。
「大丈夫ですか?」
暴風雨の向こうから、柔らかな声が届いた。
波打つ金色の髪に、白を基調とした衣装。整った顔立ちへ穏やかな微笑みを浮かべた女性が、雨粒を身体へ触れる寸前で光に変えながら立っている。
その傍らには、一振りの剣が鞘へ収まったまま宙に浮かんでいた。
同じ神でも、足し算で頭から煙を噴いた誰かとは、方向性の違う神々しさだった。どうか今度こそ、まともな相手であってほしい。
「私はフレイアと申します。お名前を伺っても?」
「嵯峨楓です。少し事情があって、空から来ました」
《少し》で片づけていい事情ではないが、求人サイトへの強制登録から説明を始めれば、さきほどの落下時間より長くなる。
オティヌスの名前を出そうとした時、頭上から甲高い悲鳴が聞こえた。
「楓、受け止めろ!」
「その体勢でどうやって!」
黒い影が、少し離れた地面へ頭から突き刺さった。
重い音とともに街道が陥没し、小さなクレーターから放射状の亀裂が走る。オティヌスの身体は肩まで地面へ埋まり、外へ出た両脚だけが、落下の余韻を引きずるように揺れていた。
「オティヌス!」
駆け寄ろうとした俺の腕を、フレイアさんが掴んだ。
彼女が見上げているのは、地面へ埋まった少女ではない。先ほどオティヌスが捕らえた飛行魔物が、《グングニル》の巨大な網に絡まったまま、遅れてこちらへ落下している。
その真下には、身動きの取れないオティヌスがいた。
『防御障壁を展開します』
フレイアさんの傍らに浮かぶ剣が声を発し、金色の光が俺たちを覆うように半球状へ広がった。
直後、飛行魔物がオティヌスへ正確に着弾する。
落雷よりも重い音が響き、街道がさらに深く陥没した。周辺を徘徊しながら一部始終を見上げていた小鬼たちまで、巻き起こった衝撃に吹き飛ばされ、草原の向こうへ転がっていく。
「……オティヌスは?」
「ご安心ください。神核は無事です」
フレイアさんの言葉どおり、クレーターへ散らばった光の粒が中央へ集まり始めた。
小さな手足が形を取り、続いて黒い衣装と、片目に眼帯をつけた少女の姿が再構成される。オティヌスは片膝をついてよろめきながらも、落下中に捕まえたバッタだけは、両手でしっかり守り抜いていた。
「見たか、楓。私の勝利だ」
飛行魔物に直撃されて身体を一度作り直した者が、何を基準に勝利を宣言しているのだろう。試合終了後に担架で運ばれる選手でも、落ちたマウスピースを掲げてここまで誇らしげな顔はしない。
オティヌスは倒れた飛行魔物を見つけると、早速それも持ち帰ると言い出した。
「焼けば大抵のものは食べられる。毒があっても、一口食べれば分かる」
「分かった時には手遅れなのでは?」
「私が平気なら、楓も食べられるということだ」
「神様の胃袋を、人間の安全基準に使わないでください」
異世界へ到着して最初に行われた話し合いが、正体不明の魔物を夕食にするかどうかだった。受け入れ窓口も活動資金も見当たらないのに、食中毒の可能性だけは早くも確保されている。
俺が頭を抱えていると、フレイアさんが濡れた制服の袖へ、そっと手を伸ばしてきた。
「楓さん、身体が冷えています。まずは衣服を脱ぎましょう」
「雨を避けてからですよね?」
「いいえ。いま、ここで私が脱がせて差し上げます」
ようやく出会えたまともそうな女神は、俺を助け、口調も丁寧で、今日初めて命を預けてもいいかもしれないと思えた相手だった。
その貴重な第一印象が、着地から僅か数分で音を立てて崩れていった。




