第5話 バッタとワイバーンと私
ロズウィアさんは最高責任者を紹介するだけ紹介すると、壇上でバッタを味わうオティヌスなど最初から存在しなかったかのように、手元の契約書へ視線を戻した。
「そして今回、貴方へ付与される特別同行者も彼女よ」
「いま、最高責任者を厄介者として押しつけませんでした?」
「押しつけるのではなく、能力をより有効に活用できる場所へ再配置するのよ」
厄介払いに辞令を後付けしたような話だった。異世界へ送り出せば、残された職員の職場環境だけは確実に改善されるだろう。
「喜べ、楓。偉大なる主神である私が、直々に旅へ同行してやる」
オティヌスは金色の虫籠を抱えて椅子から立ち上がり、口の端にバッタの後ろ脚を残したまま胸を張った。バッタの脚を旗印にした主神など、世界中の神話を探しても滅多に見つからないだろう。
「同行者として、現地に関する知識はあるんですか?」
「当然だ。疑うなら何でも聞け」
俺は少し考え、知識を試す以前の問題を出すことにした。
「1足す1は?」
オティヌスの表情が止まった……え? 嘘だろ?
右手の人差し指を立て、続いて左手の人差し指も立てる。2本の指を交互に見比べるうち、眼帯に覆われていない目から、みるみる知性の光が失われていった。
「1つと1つを一緒にすれば、大いなる1つになるのではないか?」
「数字を合わせるところまでは、間違っていませんけど……」
でも根本的に間違えてるんだよなぁ……
答えを出せないと悟ったのか、オティヌスは目の前へ半透明の検索欄を開いた。その上部には《ミーミル》という名称が浮かんでいる。世界や時代を越えて知識を探し出す固有の検索機能らしいが、使用者との相性に深刻な問題を抱えていた。
『1と1を一緒にした場合 増えるのか 1つになるのか 食べ物なら分ける必要があるか』
「最後に食事相談を混ぜる意味は?」
「正しい答えを得るには、考えられる可能性をすべて入れる必要がある」
小学生の足し算を検索したはずなのに、自然数、集合、哲学、魔物の合成、食料分配に関する情報まで押し寄せてくる。検索エンジンにも溺れるという概念があるとは知らなかった。
グーグル先生に聞きたくなったぞ♪
「分かったぞ。答えは、より強い1匹だ」
足し算の途中に勝手な合成機能が追加され、最終的には世界の敵まで完成していた。義務教育の範囲で魔王誕生の可能性を見いだされても困る。
「正解は2です。1と1を足したんですから、それ以外にありません」
納得できなかったらしく、オティヌスは再び情報の海へ潜った。すると、数秒もしないうちに髪の隙間から細い煙が立ち昇り始める。
壇上の脇に控えていた戦乙女が、迷いなく消火器を構えた。
「待て。燃えてはいな──」
制止は間に合わず、白い消火剤がオティヌスへ降り注いだ。手際の良さから察するに、この光景は職場の年間行事に近い扱いなのだろう。
オティヌスは激しく咳き込みながらも、金色の虫籠だけは胸元へ抱えて守っている。頭から煙を出している時くらい、自分の昼食より生命を優先してもらいたい。
俺は壇上から視線を外し、ロズウィアさんへ笑顔で向き直る。
「同行を拒否することはできますか?」
「できるわ。ただし拒否された場合、オティヌスは最高責任者として引き続きここへ残ることになる」
ロズウィアさんが答えた瞬間、会場で働いていた戦乙女たちの手が一斉に止まった。
ほとんどの者は、こちらを見ていない。
書類を運んでいた者は足を止め、別の面談を担当していた者も、候補者へ笑顔を向けたまま口を閉ざしている。
ただし、出口の前に立つ戦乙女だけは別だった。
先ほど俺と話した槍を持つ女性が、こちらを真っ直ぐに睨んでいる。
しかも必死な眼差し!!
視線を向けている者は1人だけなのに、会場中の意識が俺へ集中していた。オティヌスを連れていくかどうかではなく、この職場を救う意思があるかと尋ねられている気がする。
組織全体から放たれる無言の圧力が、俺の選択肢を外側から1本ずつ折っていた。
「補足すると、同行を承認した契約者には《特殊同行手当》が支給されるわ」
ロズウィアさんが差し出した別紙には、現地で受け取る初期活動資金へ加算される金額が記されていた。
金で買えないものは確かに存在する。しかし、道徳的な判断を数分ほど保留できる金額も、同じ世界に存在していた。
何より、周囲から伝わってくる戦乙女たちの期待が重い。この場で拒否すれば、俺が異世界へ転送されるより先に、職場1つが絶望へ沈みそうだった。
「……同行を承認します」
止まっていた会場の空気が、一斉に緩んだ。
「そこまで私と旅をしたいなら、仕方がないな」
消火剤まみれのオティヌスが、満足そうに胸を張る。特殊同行手当がなければ拒否していたと伝えても、照れ隠しだと解釈されるだけだろう。
同行承認欄へ署名すると、戦乙女たちは何事もなかったように業務へ戻った。書類を抱えていた1人が、こちらへ背中を向けてから小さく安堵の息を吐いている。
ロズウィアさんに促され、契約内容を最後まで確認した。
一律の契約期間は設けられておらず、《功績ポイント》が規定値へ達すれば帰還資格を得られる。負傷した場合は、担当官を通して治療支援や活動の中断を申請できるが、現地の状況によっては通信や対応が遅れる場合もあると、小さな文字で注記されていた。
安全な仕事ではない。それでも、元の世界へ戻れば、俺は近いうちに死ぬ。危険な異世界だとしても、少なくとも自分で生き残る道を探し、帰還資格を得る機会は与えられる。
「契約します」
契約書の最後へ署名を書き終えた瞬間、紙面に淡い光が走った。
縁から立ち上がった青白い炎が、分厚い契約書を一瞬で包み込む。熱も灰も残さず、署名したばかりの書類は机の上から消え去った。
「証拠まで消さないでください」
「契約内容は《ヴァルハラ》の記録領域へ保存されているわ」
ロズウィアさんが右手を差し出した。ここへ来て初めて、契約らしいまともな行為が行われる。
俺がその手を握り返した時、壇上からオティヌスの声が響いた。
「忘れずに、金色の虫取り網と金色の虫籠を持っていかないとな。おい、スレイプニルはどこへ行った! スタッフウウウウウウウ!!」
視線を向けると、旅支度を終えたらしいオティヌスが、金色の虫取り網と虫籠を誇らしげに掲げていた。荷物はそれだけだった。
そして、虫籠の蓋が開いている……おい!!
1匹のバッタが籠の縁を乗り越え、壇上へ飛び降りる。オティヌスは慌てて虫取り網──《グングニル》を構え、逃げる獲物へ狙いを定めた。
「待て! 貴様は今日1番の個体だ!」
契約も俺の人生も、壇上を跳ねるバッタ1匹に優先順位で敗北した。
しかも夕食に……
その時、座っていた椅子の下から、小さな作動音が聞こえた。機械が仕事を始める時に鳴らす、低く規則的な唸りである。
直後、見えない力が俺の身体を椅子へ固定した。
「いま、何か鳴りませんでした?」
「転送準備が完了した音よ」
ロズウィアさんは握っていた手を放し、転送範囲から1歩だけ下がった。
「契約が成立した直後に、もう転送を始めていたんですか?」
「効率的でしょう?」
床に刻まれていた細い線が、椅子を囲むように四角く発光し始める。光の内側にある床が、僅かに沈んだ。
「落下中に姿勢を崩さないこと。それから、着地する前に──」
「重要事項の説明が、転送より遅れています!」
ロズウィアさんの説明が終わるより先に、椅子の下から床が消えた。
身体が真下へ吸い込まれ、会場も、椅子も、抗議を伝える相手も、白い光の向こうへ遠ざかっていく。
契約書が炎に包まれて証拠を残さなかったように、俺の平穏もまた、跡形もなく消え去った瞬間だった。




