第26話 引っ越し
フレイアさんが旧クランハウスを購入した翌朝、俺たちの荷物は荷車1台で収まるはずだった。
理論上は。
宿で暮らし始めてから、それほど日は経っていない。俺の荷物は衣服と日用品を入れた鞄一つで、フレイアさんとロキも、ほとんどを空間収納へ収めている。
それなのに荷台は、出発前から空き場所を失っていた。引っ越しというより、森の一部を強制移住させる作戦の物資集積地になっている。
「この虫籠は傾けるな。中にいる虫は揺れに弱い」
オティヌスが積み込んだ虫籠は全部で12個。周囲には餌となる草、干し肉、食べかけの骨、用途の分からない枝まで並んでいる。
虫籠の数だけ見れば、引っ越しではなく養殖業の開業準備だった。
同じ荷車を使っているだけで、俺たちとオティヌスでは引っ越しの目的が一致していない。
「楓。私の荷物を奥へ寄せろ。肉の袋が落ちそうだ」
「それはスレイプニルが引っ張っています」
荷台の後ろでは、8本脚の巨馬が肉の袋を咥え、少しずつ外へ引き出していた。
オティヌスが慌てて袋へ飛びつくと、スレイプニルは顔を持ち上げ、主を肉ごと宙へ吊した。最高神が両手で袋へしがみつき、返せと喚んでも、巨馬は一度も口を緩めない。
主従の格を再確認するには、十分すぎる光景だった。
荷物を守る者と盗む者が入れ替わっているが、どちらも所有権を主張できる立場ではある。
話し合いによる解決だけが期待できなかった。馬に契約書は読めない。
いや、オティヌスも読み書きできないなら一緒じゃねぇか。
結局、肉の袋は俺が預かり、オティヌスを虫籠の間へ座らせた。荷物に紛れると、本人まで積み込まれた品の一つに見えてくる。
捨てていいかな?
その隣では、ガルーダが荷台の縁にとまり、スレイプニルから最も遠い場所を確保している。危機管理能力だけなら、この荷車の中で一番高かった。
ゴブリンたちは載りきらなかった工具や家具を分担して運び、メーガナーダさんも列へ加わっている。
彼女は昨日のうちに宿を引き払い、着替えと黒塗りの長弓を旧クランハウスへ移していた。今朝は俺たちの荷物を運ぶために戻ってきたというが、本人の中では手伝いではなく、同居人として当然の仕事になっているようだった。
同居を断るタイミングはすでにどこかへ引っ越し、俺の拒否権も荷物と一緒にドナドナされていた。
泣けるぜ……
◇
旧クランハウスの門を開けると、ゴブリンたちは預けていた工具を受け取り、荷物を作業小屋へ運び始めた。
地下倉庫と排水設備は、不動産業者の負担で修繕される。厨房と浴室も点検が必要だが、居住区画は掃除をすれば今日から使える状態だった。
問題は、掃除の先まで進もうとしている者たちである。
昨日の内見で建物の傷みを見つけていたゴブリンたちは、誰かに命じられるより先に、扉や家具の修繕へ取りかかった。
自分たちの住居と、俺たちが暮らす建物を整えようとしてくれている。
ありがたい。
ありがたいんだが、技術だけが追いついていなかった。
外れかけていた扉は床へ直接打ちつけられ、倒れる心配がなくなった代わりに、開く機能まで失っている。
修理ではなく、扉という概念そのものを破壊していた。
壊れた椅子には何本もの木材が追加され、座面より補強部分の方が広くなっている。4人で持ち上げても動かないため、強度だけならスレイプニルが座っても耐えられそうだった。
もっとも、そこまで頑丈な椅子を必要とする者は、最初から人間用の椅子へ座らない。
屋根へ上がった1体は、割れた板の上へ別の板を載せていた。それを固定するために周囲の瓦を外し、最初より大きな穴を作っている。
雨漏りする場所を増やせば、元の穴だけを問題にする必要はなくなる。扉を直した者と同じ流派なら、建物を壊すことで不具合の方を目立たなくする教えでも受けているのだろう。
「一度、作業を止めてもらえますか?」
俺の声が中庭へ届くと、金槌も木材も同時に動きを止めた。
屋根の上にいる個体まで片足を上げた姿勢で固まっている。命令への忠実さが命への忠実さを上回っていたため、まずは足を下ろし、屋根から降りるよう身振りを交えて伝えた。
言葉の細かな意味までは分からなくても、俺の意図を理解しようとはしている。
額に古い傷のある個体が俺の動きを見たあと、ほかのゴブリンたちへ身振りで指示を送り始めた。以前、メーガナーダさんから俺を守った際、最初に武器を構えた個体である。
背丈は仲間と変わらないが、周囲は自然にその判断へ従っていた。
少し離れた場所では、大柄な個体が長い木材を抱えている。仲間2人がかりで運んでいた物を1体で持ち上げたまではよかったが、置き場所が分からないらしい。
指示を待ちながら中庭を何度も往復し、長い木材だけが出発地点へ戻ってくる。
力と目的地は、別々に管理されているようだった。
もう1体、小柄な個体は修繕へ加わらず、ロキの隣へ座っていた。
ロキは倉庫を自分の実験室へ変えるため、石床へ保護術式を刻んでいる。杖先が動くたびに細い光が線となって残り、小柄なゴブリンは、その順番まで覚えようと目で追っていた。
やがて足元から木片を拾い、中庭の土へ同じ図形を描き始める。
「そこ、最後やのうて3番目や」
指摘を受けたゴブリンは、間違えた場所を手で消した。最初から描き直し、今度はロキが杖を動かした順番まで再現する。
ロキは別の図形を土へ描き、すぐ足で消した。
小柄なゴブリンが少し考えたあと、同じ図形を隣へ描く。線の長さは不揃いだが、形と順番は合っていた。
「お前ら、教えたら覚えられるんちゃうか?」
問いかけられた本人は首を傾げ、正しく描けた図形を指した。
褒められたのか、次の課題を出されたのか分かっていない。それでも、新しい図形を待つように木片を握っている。
ロキが額に傷のある個体を呼ぼうとして、ようやくゴブリンたちに個人名がないことへ気づいた。
「名が必要なら、私がつけてやろう」
虫籠を両腕へ抱えたオティヌスが、頼まれてもいない仕事を引き受けた。
登録用紙へ自分の名前を書けなかった女神が、他人の命名だけは迷わない。文字は書けなくても、自信の在庫だけは常に潤沢だった。
額に傷のある個体へ向け、オティヌスが人差し指を伸ばす。
「お前はヤシチだ」
呼ばれたゴブリンは自分の胸へ手を当て、何度か口を動かして与えられた音を覚えようとした。
続いて、大柄な個体には《ダイゴロウ》という名が与えられる。
最後に、小柄な個体が前へ立った。
「お前はウエサマだ」
最後だけ、役職が名前の顔をして紛れ込んでいた。
「その3つは、どのような基準で選んだんですか?」
「強そうな響きで揃えた」
本人の中では、ヤシチ、ダイゴロウ、ウエサマが同じ分類に入っているらしい。
由来まで尋ねれば修正箇所が増えそうなので、俺はそれ以上聞かなかった。知らない方が平和な真実というものもある。
ところが周囲のゴブリンたちは、言葉の意味も知らないはずなのに、ウエサマへ道を譲り始めた。何体かは頭まで下げている。
名づけ親の知性を経由せず、名称だけが正しい使われ方へ到達していた。
実務上のリーダーはヤシチ。形式上の最高権力者はウエサマ。何も決めていないのに、身分制度だけが成立している。
ヤシチは、自分より小柄なウエサマへ仲間が頭を下げる様子を見たあと、困ったように俺を見上げた。
俺にも解決方法は分からないんだから、そんな顔で見ないでほしい……。
ロキはヤシチの前へしゃがみ、杖の先で額の傷へ触れた。
「知恵や知識を足す術式やない。見たことと、失敗した理由を忘れにくくするだけや。覚える気のある奴にしか効かへんけどな。覚えたことは、仲間にもちゃんと教えたるんやで」
ヤシチは俺と屋敷を順番に見たあと、自分から杖へ額を押しつけた。
空中へ広がった細い光の輪が身体を包み、額の古い傷へ吸い込まれていく。外見に変化はないものの、ヤシチは自分の手をしばらく眺めてから、床へ打ちつけられた扉の前へ移動した。
仲間へ釘を抜くよう伝え、蝶番を指す。相手が迷うと、扉を持ち上げ、どちらへ動かす物なのか実際に見せた。
しばらくして、処分寸前だった扉が再び開く。
一度の失敗を、今度は修理へ生かしていた。
もっとも、それはオティヌスだけには効かないけれど……。
ロキはゴブリンたちの素質を惜しみ、学ぶ機会を与えたのだろう。もっとも、次に整えさせようとしているのは自分の実験室なので、教育事業の皮を被った人員確保にも見える。
俺の心が汚れているのか、ロキの動機が濁っているのかは、今後の作業量で判断したい。
フレイアさんが修繕箇所を示すと、ヤシチは仲間を連れて建物の確認へ向かった。
ダイゴロウは再び木材を担ぎ、今度は指示された場所へ一度で運ぶ。ウエサマはロキの隣へ残り、土に描かれた術式を見つめていた。
細かな道具や備品の管理は、ウエサマへ任されることになった。
一番働いていない個体が、一番偉そうな名前と屋内勤務を確保している。名前に人格が追いつくより先に、待遇だけが完成していた。
夕方には、床へ固定されていた扉が普通に動くようになった。補強されすぎた椅子も人が運べる重さへ戻り、屋根の穴も、少なくとも朝よりは増えていない。
この屋敷における《進歩》の基準は、いつからか随分と控えめになっていた。
俺が直った扉を何度か動かしていると、門の外から呼び鈴が聞こえた。
ヤシチが仲間へ合図を送り、2体のゴブリンが玄関へ向かう。途中で欠けた短剣を持ち出そうとしたため、来客へ必要なのは出迎えであって迎撃ではないと教えなければならなかった。
訪ねてきたルノアさんは、両腕に紐で束ねた書類を抱えていた。
「クラン名は、まだ決まっていませんよ」
「承知しています。以前から、楓さんたちの活動について問い合わせていた方々の申出書です」
西の森で低ランクハンターを救助したことや、名義貸しに利用されていた者たちを切り捨てなかったことから、ギルドには以前から問い合わせが来ていたらしい。
俺自身がFランクであることもあり、低ランクでも話を聞いてもらえる集団だという噂まで広がっているという。
正式な募集を始めたわけではない。
それでも設立準備団体として面談できると伝えたところ、加入を希望するパーティーから申出書が集まったらしい。
受付台へ置かれた書類には、現在のランクやパーティー構成、加入を希望する理由が記されていた。
低ランクの新人や、依頼実績の少ないパーティーが多い。
俺たちは今日、引っ越しを終えたばかりである。
クラン名も活動方針も決まっていない屋敷へ、加入希望者の書類だけが先に届いていた。
その向こうでは、修理したばかりの扉がゆっくり傾き、最後には玄関前の石畳へ倒れた。
応募者へ将来性を説明する前に、まずは扉を自立させる必要がありそうだった。




