第13話 陣形
ワイバーンの売却代金は、4人分の入街税と当面の宿代を支払っても十分に残った。
仮証明書、ハンター許可証、そして生活費。昨日まで雨の草原で落下死しかけていた人間としては、ようやく異世界生活の開始地点へ立てた気がする。
俺たちはギルド内の酒場へ移り、遅めの昼食を取りながら今後について話し合うことにした。もっとも、俺の正面へ座る3柱が同じ方向を向いてくれるかどうかは、相談を始める前から怪しい。
「まずは資金を増やす必要があります。楓さんの生活を安定させるため、将来性のある協力者を探しましょう」
フレイアさんは穏やかに微笑んでいるが、《勝利の剣》が彼女の背後で小さく左右へ揺れていた。協力者という言葉が、本人の同意まで含んでいるかを疑っているらしい。
「魔導石を仕入れられるなら、うちが魔導具を作って売ったるで。ここの術式は古そうやし、少し手を入れるだけでも商売になるやろ」
ロキは早くも酒場の照明を観察し、指先へ赤い術式を浮かべていた。許可を取るより先に分解箇所を探している時点で、商品開発と器物損壊の境界が薄い。
「それより、虫を集めに行かないか?」
オティヌスだけは、資金を増やすという議題からも自由だった。
3柱とも前向きではある。フレイアさんは人脈を囲い込み、ロキは設備へ手を伸ばし、オティヌスは森へ向かおうとしている。俺が望んでいたのは生活再建の相談であって、社会、施設、自然環境へ別々の角度から侵入する計画ではない。
「明日はギルドの依頼を受けます。まずは正規の仕事で、少しずつ生活を整えましょう」
「それは構わないが、何の依頼を受けるんだ?」
オティヌスは尋ねながら、胸元の虫籠へ手を入れた。取り出したコオロギを口へ放り込み、次に脚の太いバッタを選び始める。
近くのテーブルから食器の触れ合う音が消えた。
誰もこちらを見ていない。それでも視線だけが集まり、隣のハンターはスープをすくった匙を皿へ戻している。オティヌスが食べている量より、周囲で食べられなくなった量の方が多そうだった。
「人前で虫を食べるのをやめてください」
「うちに任せてや」
ロキが指を鳴らし、オティヌスの口元へ半透明の歪みを掛けた。
虫と咀嚼する口は見えなくなったが、細かく揺れる歪みだけが残る。何をしているのか分からなくなった分、想像力へ与えられた活動範囲が広がり、隣のハンターはとうとう皿を遠ざけた。
俺はロキの術式を手で遮った。
「虫を食べるのは禁止。生モザイクも禁止です」
「楓さんのために働いていただく可能性のある方々です。食欲を奪ってはいけません」
「本人の知らないところで就職先まで決めないでください」
フレイアさんの視線を追うと、酒場にいるハンターたちが一斉に顔を逸らした。協力者候補として査定されていることだけは、言葉にしなくても伝わったようである。
明日から禁止するものを手元の紙へ書き始めたが、《昆虫の公開喫食》《生モザイク》《無断採用》まで並んだところで筆を止めた。依頼を1つも達成していないのに、内部規則だけが先に充実していく。
半年後には法典が完成しているかもしれない。問題は、それを守らせたい相手が全員神であり、地上の法律より自分の都合を優先しそうな点だった。
俺は依頼掲示板から持ってきた紙を、書きかけの禁止事項へ重ねて置いた。
「明日は、このゴブリン討伐を受けます」
依頼書へ顔を寄せたオティヌスの目が、急に明るくなる。
「なんだ。明日は食べ放題か」
「食事の依頼ではありません」
「森へ行くんやったら、オティヌスにとってはだいたい合っとる」
ロキの《だいたい合っている》は、目的地さえ一致すれば業務内容の違いを誤差へ落とせる便利な言葉だった。依頼書にはゴブリン討伐と書かれているのに、2柱の間ではすでに昆虫採集付きの食事会へ変更されている。
「1文字も合っていません」
依頼書を自分の方へ戻し、記載された目撃地点をもう一度確認した。
西の街道。雨の中で逃げていったゴブリンたちと同じ方角である。
この世界にゴブリンが何体いるのかは知らない。同じ群れである可能性より、別の群れである可能性の方が高いはずだ。
一度紙を伏せたものの、しばらくしてまた表へ返してしまった。
肩に傷を負い、何度もこちらを振り返りながら草原へ消えた個体の姿が残っている。討伐対象の特徴欄に傷痕の記載はない。
「どうしたんや?」
「いえ。同じ場所で何度か目撃されているみたいなので、確認していただけです」
ロキへ答え、依頼書を折り畳んだ。
もし同じ群れだったとして、俺はどうしたいのだろう。襲われれば戦うしかない。それでも、フレイアさんに傷を治されて逃げた相手を、今度は依頼だからという理由で追いかけることには、まだ答えを出せなかった。
向かい側では、オティヌスが明日持っていく虫籠の数を指で数えている。その準備へ口を挟む気にもなれず、俺は冷めかけた昼食へ手を伸ばした。
◇
翌朝、俺たちはバーガサレルの西側へ延びる街道を歩いていた。
依頼書に記されているのは、草原と街道周辺へ出没するゴブリンの討伐である。足跡や痕跡を見つけても森の深部までは追わず、危険を感じた場合は帰還するよう、受付で念を押されている。
その説明を聞いた時、オティヌスも隣にいた。
理解したかどうかは別の話だった。
「ゴブリンがいる場所には食べ物がある。食べ物がある場所には虫も集まる。つまり、ゴブリンを探せば珍しい虫が見つかる」
街道脇で足跡を見つけたオティヌスは、誰の査読も通っていない生態系理論を発表し、そのまま森へ続く獣道へ入っていった。
「森の奥まで追わないように言われましたよね!」
「まだ奥ではない。外から見える場所だ!」
木々の間へ姿が消えた者から聞きたくない主張だった。
放置して街へ戻れば、数日後には森のどこかで虫を食べ続ける最高神が完成する。俺たちはオティヌスを連れ戻すため、依頼範囲の外縁に沿って獣道へ入ることになった。
地面には小さな足跡が残り、折れた枝や踏み潰された草が森の奥へ続いている。少なくとも、ゴブリンがこの道を使っていることだけは間違いない。
10分ほど進んだ先で、木々の間にわずかに開けた場所を見つけた。オティヌスも青い甲虫を虫籠へ収めたことで大人しくなり、ようやく俺の話を聞ける状態へ戻っている。
《勝利の剣》に周囲の安全を確認してもらい、俺は落ちていた枝で地面へ簡単な配置を描いた。
「魔物が現れた場合、オティヌスは前で──」
「楓のそばから離れるつもりはありません」
フレイアさんが、地面へ描いた後衛の位置を靴先で消し、俺の印の真横へ自分の印を描いた。
「俺を守ってくれるなら、場所はどこでも構いません。ロキは少し後ろから術式で援護を──」
「この森やと、木を避ける構成へ変えた方がええな」
ロキは俺の説明を聞きながら、近くの木へ試験用の赤い術式を伸ばしている。撃つ前に試すのは進歩だが、作戦会議の途中で実験を始めないでほしい。
「オティヌスは前衛をお願いします」
「分かった。虫がいれば少し外れるぞ」
「外れないでください」
地面へ描いた配置図を見下ろした。
後衛は前へ移動し、中衛は木を相手に実験を始め、前衛は虫を見つければ離脱を宣言している。完成したのは戦闘配置ではなく、作戦どおりに動かない理由を整理した一覧だった。
俺は枝を捨て、《勝利の剣》を握り直した。
結局、危険が迫ればフレイアさんの障壁へ入り、3柱に対処を任せるしかない。作戦と呼ぶには他力本願すぎるものの、魔力0.0の俺が前へ出るよりは全員の生存率も高いはずである。
『複数の生体反応が接近しています』
《勝利の剣》の警告を受け、フレイアさんが俺の前へ移動した。ロキは木へ伸ばしていた術式を引き戻し、オティヌスも虫籠からグングニルへ手を移す。
草を踏む音が、正面だけでなく左右から聞こえた。
茂みの間へ緑色の影が現れる。棍棒や短剣、縄を持ったゴブリンの集団は3方向へ分かれ、俺たちが来た獣道まで塞いでいた。
囲まれている。
喉の奥が乾き、剣の柄を握る指へ力が入った。昨日までなら、魔物を前にしても逃げることしかできない。それは今も変わらないはずなのに、腰へ下げた剣と3柱の存在が、足をその場へ留めていた。
正面にいる1体の肩へ、薄い傷痕が残っている。
雨の街道でフレイアさんが治した個体かもしれない。顔を見分けられるほど覚えてはいないが、そのゴブリンはフレイアさんへ視線を向け、自分の肩へ何度も触れた。
向こうも動かない。
周囲の個体は武器を構えたまま顔を見合わせ、正面のゴブリンが何かを決めるのを待っている。最初から襲うつもりなら、ここまで近づいて迷う必要はない。
「俺たちを覚えているんでしょうか?」
「先日治療した方であれば、その可能性はあります」
「話が通じるかもしれません」
討伐依頼を受けている。その事実を頭の中でもう一度確認したが、剣を抜く理由にはならなかった。
相手が武器を下ろすなら、こちらから殺す必要はない。依頼を失敗しても、街へ戻って事情を説明すればいい。
俺は《勝利の剣》から手を離し、両手を見せながら1歩だけ前へ出た。
傷痕のあるゴブリンの耳が動く。
その直後、森の奥から腹へ響く低い咆哮が届いた。
ゴブリンたちの身体が一斉に跳ね、俺も反射的に剣の柄へ手を戻した。目の前の群れは俺たちではなく、木々の奥へ顔を向けている。
『奥に複数の生体反応があります。現在地から詳細な判別はできません』
「ゴブリン以外にもいるんですか?」
『その可能性があります』
傷痕のあるゴブリンが、怯えた声で何かを叫んだ。
群れが武器を握り直す。こちらへ向けられた棍棒の先は震え、視線は何度も森の奥へ戻っていた。
戦いたい相手の目ではない。
それでも、ゴブリンたちは逃げなかった。逃げられないのかもしれない。
誰かに襲えと命じられている。
そう口にするより早く、傷痕のあるゴブリンが顔を歪め、俺たちへ向かって地面を蹴った。




