第11話 オティヌスの慟哭
この日初めて、オティヌスが慟哭した。
金色の虫籠を胸元へ抱え、地面へ膝をつき、門前に浮かぶワイバーンの死骸へ手を伸ばしている。その姿だけを見れば、長年連れ添ったペットの亡骸から引き離される飼い主のようだった。
実態は、空から落ちる途中で現地調達した夕食の材料である。愛情表現の演技力だけなら、舞台女優にも引けを取らなかった。
「嫌だ! せっかく捕まえたのに、どうして手放さなければならない!」
嗚咽を漏らしながら訴えているが、愛着が湧いたわけではない。涙に濡れた目は、ワイバーンの中でも特に肉づきがいい部分だけを正確に追っていた。
これが《ヴァルハラ》の最高神なのだから、ワイバーンより先に解体すべきものは神々の組織体制だったのかもしれない。《しばき隊》も秩序を守るために生まれたのではなく、この主神を放置できなかった結果なのだろう。
フレイアさんが余計な慰めを始める前に、門番が困ったように口を開いた。
「街へ入るには入街税が必要です。そちらをギルドへ売却すれば、代金からお支払いいただけます」
「では、楓が外で暮らせばよい!」
「夕食のために俺の住居を諦めないでください」
迷う時間さえなかった。俺の住居とワイバーンを天秤へ載せた途端、食料側が地面へめり込んでいる。
契約者として死骸より軽く扱われるなら、せめて入街税くらいはワイバーンに払わせてほしかった。
そんなオティヌスを見かねたフレイアさんが、優しく肩へ手を置いた。
「私には楓さんという大切な方がいるように、貴方にはスレイプニルという愛馬がいるでしょう?」
何と何を比較しているのか、俺には分からない。人間1人と神馬1頭を同じ天秤へ載せる発想が、そもそも成立していいのかも怪しかった。
しかし、オティヌスには通じた。
「そうだ! 私にはスレイプニルがいたんだ!」
3秒で泣きやんだ。号泣から満面の笑みまでの所要時間として、記録更新である。
今の今まで忘れられていた愛馬は、主人の言うことを聞かないまま、現在も行方不明になっている。それでも思い出した途端に元気を取り戻したのだから、大切な存在であることだけは間違いないのだろう。
ワイバーンの代わりにスレイプニルの名前を出され、納得したことだけは引っかかった。愛馬を思い出したのだと信じたい。非常用食料の在庫まで思い出したのだとすれば、再会した神馬へ最初に伝えるべきなのは主人の居場所ではなく逃走経路になる。
「仕方がない。このワイバーンは預けてやろう」
オティヌスは涙を拭い、門番へ向かって偉そうに顎を上げた。手のひらの返し方だけは、誰よりも堂々としていた。
そこまではいい。
問題は、フレイアさんにとっての俺が何なのかという点である。
オティヌスにとってのワイバーンは食料で、スレイプニルは一応愛馬。そして、それと同じ位置へ置かれたのが、フレイアさんにとっての俺だった。
ペットなのか、保護対象なのか、それとも育てがいのある次期暴君候補なのか。少なくとも餌と思われていたら最悪だ。
考えるほど選択肢が悪化していくため、この問題だけは解かない方が俺の幸せにつながりそうだった。世の中には、知らない方がいい真実というものが確かに存在する。
「それでは、衛兵1名を同行させる条件で一時入街を認めます。ギルドで売却手続きを済ませ、代金から4名分の入街税をお支払いください」
門番の提案へ頷こうとしたところで、フレイアさんが1歩前へ出た。
「その前に、遭難した未成年者への減免規定について、先ほどお願いした確認を──」
「それでお願いします。十分ですから」
俺は慌ててフレイアさんの前へ腕を伸ばした。
「しかし楓さん。本来であれば、貴方から入街税を徴収する制度そのものについて、責任者の方と話し合う必要があります」
「俺のために街の制度と戦わないでください」
門を通りたいだけなのに、放置すれば行政組織との全面対決へ発展しかねない。門番が譲歩してくれた今のうちに話を終わらせなければ、俺の入街税を巡って街の責任者が呼び出される。
フレイアさんの善意は、目を離すと相手の組織図へ向かって根を伸ばす。俺はその根が城壁を越える前に話を打ち切り、衛兵の案内に従って街へ入った。
低い城壁の内側には、石造りや木造の建物が隙間なく並んでいた。
舗装された大通りを荷馬車が進み、その脇を剣や杖で武装した人々が歩いている。軒先へ吊るされた看板の文字は見覚えのない形をしていたが、意味だけは日本語を読むように自然と頭へ入ってきた。
契約時に付与された言語補助のおかげらしい。
世界を越える人材派遣を行いながら、派遣先の言葉を候補者へ教えないほど、《ヴァルハラ》も無責任ではなかったようだ。
到着地点と活動資金については致命的な問題を起こしているため、珍しく正常に働いた機能を褒めるべきかは迷うところだった。
俺は歩きながらスマートフォンを確認した。
通信はできず、地図も開けない。時計があるはずの場所には相変わらず見覚えのない記号が並び、機械としては動いていても、今のところ薄く光る板以上の役割を果たしていなかった。もはや高性能な文鎮である。
「この世界には、楓さんの故郷とよく似た《日本》も存在しています」
画面を覗き込んだフレイアさんが、意外なことを口にした。
「日本があるんですか?」
思わず足を止めかけた。
転送事故によって、異世界ではなく元の世界へ戻ってきたのかもしれない。少なくとも日本まで行けば、家族へ連絡できる手段が見つかるのではないか。
胸の奥へ灯った小さな希望を察したように、フレイアさんは申し訳なさそうに首を横へ振った。
「楓さんが暮らしていた日本と、まったく同じ国ではありません。歴史の途中から異なる道を歩んだ、別の世界線に存在する日本です」
「……そうですか」
浮かびかけた期待が、胸の中へ静かに沈んだ。
同じ国名があり、同じ言葉を話す人々がいるかもしれない。それでも、そこに俺の家族や友人、自宅が存在するとは限らない。
似ているからこそ、違いを見つけるたび、元の世界から離れたことを思い知らされそうだった。
フレイアさんの説明によれば、この世界は元々、俺の故郷によく似た現代社会だったらしい。
しかし、《侵災》と呼ばれる異常現象によって複数の異世界や大陸の一部が融合し、世界各地へ《ケイブ》という異常領域が生まれた。
魔物や異種族だけでなく、魔王と呼ばれる存在まで現れ、人類と争う者がいる一方で、国交を結び、同じ街で暮らす種族もいるという。
純粋な剣と魔法の異世界ではない。俺の知る現代社会と、物語の中にしか存在しなかった世界が、災害によって無理やり縫い合わされた場所だった。
都市計画の担当者が見たら、泣きながら辞表を書きそうな地形である。
「でしたら、ここにも自動車や電気があるんですか?」
「地域によって大きく異なります。この街は融合した異世界側の文化が強く、魔導具が生活の中心ですね。現代文明を維持している国へ行けば、楓さんの知る物も見つかると思います」
地球によく似ているなら、日本へ向かう方法さえ見つけられれば、スマートフォンを充電することくらいはできるかもしれない。
すぐに帰れるわけではない。それでも、完全に何もかも失われた世界ではないと知れただけで、僅かに呼吸が楽になった。
「楓が帰るまでは、私もついていく。その間の食事と生活全般の面倒は頼むぞ」
胸元の虫籠を揺らしながら、オティヌスが堂々と宣言した。
異世界まで同行してくれる最高神へ感謝しかけた気持ちが、扶養家族を1柱追加された重さに負けて沈んでいく。俺の帰還へ協力するのではなく、帰るまで一緒にいるから面倒を見ろという話だった。
期間英雄の契約には食事補助が付いていたはずなのに、なぜか補助を受ける側の俺が、最高神の生活費まで補助する立場へ回されている。
家族のもとへ帰る道筋は、まだ何も見えていない。
それでも、帰れる可能性まで失われたわけではなかった。横で虫籠を揺らしている扶養対象から目を逸らせば、その事実だけは素直に喜べそうだった。




