9話
あっという間だった時間は、しかし思い違いだったと時計を見れば一目で分かる。
D組の教室に戻ると、時刻は既に十一時を回っていた。
僕が教室を飛び出したのは二時間目の頃だったから、一時間かそこらは過ぎている。この土壇場では贅沢すぎるサボりだ。
ただ誰も何も言ってこない。
謝罪の言葉も用意していただけに肩透かしを食らった感じ。いや有り難い話だし、そもそも周りの目を気にして口にしないだけで思うところがある人もいるだろう。
如何にも反省してますといった面持ちで落ち着く先を探し、金田を見つける。教室を出るまで一緒に作業していた仲だ。
「すまん、いきなり抜けて」
それから辺りを見回し、岩崎を発見。
向こうも横目でこちらを見ていた。目が合うなり逸らされたから盗み見ていたつもりなのかもしれないけど。
「岩崎も。押し付けて悪かった」
「別に」
返事はそれだけ。
まぁ周囲に見せるための形式的な謝罪だ。返事なんて期待してないし、向こうもそんなことは分かっている。
すぐに気持ちと表情を切り替え、津久井に顔を向けた。この文化祭準備でクラス内のリーダー的ポジションを確実なものとしたイケメン。その顔に浮かべるのは玉虫色の笑み。
「悪い。何したらいい?」
「彼女の方はもういいのか?」
「一応、保健室の場所は教えてきたから」
「保健室?」
「校舎はどこも人いたから少し外出て話してたんだよ。そうしたら熱中症だと」
「大丈夫なのか」
「大丈夫だと思うよ。まぁ下校の頃には治るんじゃないかな」
そこまで言えば津久井も察する。
余計な心配をさせるな、と咎めるような眼差しまでセットで。まさか知り合いでもない不良を心配するとは思っていなかったのだ。申し訳ないことをした。
それで作業は、と話を戻そうとした矢先、金田が出し抜けに言う。
「つか、アオナギ? ……ってヤバい奴なんしょ?」
「ちょっ……! 大臣! そんな言い方!」
「いや言われても仕方のないやつだけど」
慌てる佐々木に言い聞かせるつもりでわざとらしく苦笑を作る。
「まぁ目が合っただけで詰め寄るとか、何か言われたら殴るってタイプの不良じゃないから安心していいよ」
「だけど学校とか全然来てなかったって話じゃん」
だから? それがどうかしたの?
……というのが本音ではあるが、言われてしまうだけのことをしてきたのが青柳だ。擁護はできまい。
「金田。あんまりそういう話は……」
「いいよ、別に。青柳が不良で学校来てなかったのは事実だ。自分のクラスで周りに迷惑かけてたのも」
「だからってな……」
「だからだろ。ミッキーが付き合ってやる必要もなくね?」
金田の不満げな声でようやく察する。
これはもしかして僕に同情してくれているのか? あるいは青柳某のために教室の作業を放り出すなという遠回しの苦情かもしれないが、金田は金田でサッカー部にかまけて教室にほとんどいなかった男だ。
悪いやつではない。諦めて苦笑する。
「僕である必要はないけど、僕じゃダメだとも言われてないからね」
あまり長くしたい話じゃない。
ただでさえナカチュー出身者は青柳を快く思っていないし、その噂を聞いたら直接知らない人でも反感は抱く。そんな人物の話で準備の手が止まるのは、青柳を抜きに教室の雰囲気だけを考えても良くない。
「だから、別にミッキーがどうこうしてやる理由がねえって話で」
「おい金田、いい加減に――」
「いや、いいよ。津久井」
金田は善意で言っている。それを止めに入った津久井のそれも善意だ。
でもそんなことお構いなしに、時間は流れる。その話ってそんなに重要なの、と遠巻きに見てくる眼差し。
腹を括る。
精神論のつもりが、空腹と昨日のダメージを思い出してしまった。重く響く不快感が今は有り難い。
「僕じゃなきゃダメだって言ってもらえたら嬉しいけどね。それがなんであれ、君だけが特別だって言われたら嬉しいでしょ。誰だって」
唐突な言葉。
唐突に聞こえたはずの言葉。
なんの話だと、一時でも思考を遅らせられればいい。
「けどまぁ実際そんなことってそうそうないし、今もそうだよね。準備に人手が足りてないのに、僕一人抜けたくらいじゃ特別困らない。でも多分、津久井が抜けたら止まるよ、これ」
「そんなこと……」
「あるだろ。分かってるだろ。ここどうすんだろ、誰かに聞かなきゃって時に真っ先に浮かぶのが津久井だ。そこに津久井がいなくて他の誰かに聞いても、最終的には津久井に確認取ろうってことになると思う。重要なら重要なほど」
それはあまりに不健全な集団だ。
会社組織なら絶対にあってはいけない属人的な集団。でもここは高校の教室だ。しかも入学して四ヶ月と経っていない。どうしても中心人物に比重が偏る。その一人が抜けただけで回らない、その一人だけが特別な集団の完成だ。
特別なのは津久井で、津久井と一緒にいる面々。僕たちはオマケ。数合わせ。一人抜けて他の人と入れ替わっても多分、気付かれもしない。
「だけど今、僕は一年D組の一員だし、この展示は成功してほしいと思ってる。正直そんな情熱はなくても『何あのD組の展示。中途半端じゃね?』なんて言われるよりは『D組の展示見た? あれすごかったよね』って言わせたい」
情熱はない。
そう言いながら、今の僕は文化祭の熱に酔った青春謳歌野郎である。
「僕がクラス展示の準備する理由なんかそれだけで十分だよ。僕じゃなきゃダメなことじゃないし、僕がいなくてもどうせ間に合うんだろうけど、それが何もしない理由にはならない。それと同じ」
じっと金田を見据える。
微かに怯んだような、そんな視線の揺らぎが見えた。
だから、敢えて呼ぶ。
「大臣はどう? お前じゃなきゃダメだって言われなきゃやる気にならない?」
惚れた女の前だ。
惚れた女が頑張る企画だ。
男を見せろ。
「そうだな……、そうだったな! よっしゃ! やったろうやないかい!」
下手くそな関西弁で男が叫ぶ。
お前は良いやつだよ、金田。この流れで一緒に盛り上がるなんて僕なら絶対に嫌だ。絶対にできない。ほんと良い奴だよ……。
「三木ってあんな熱い奴だっけ?」
「ていうか、そんな話じゃなかったと思うんだけど」
冷静を気取った圷と津久井。なんだよもっと青春謳歌しようぜ、と僕の中の金田がウザ絡みしたがっていた。僕は三木優至なのでぐっと堪える。
代わりに意味ありげに津久井を見てみた。
特に意味はない。アイコンタクトなんてできる仲じゃない。だけど相手は津久井恭平、イケメンである。
「あぁはいはい! 一個だけ言わせてもらうと、普通に進捗最悪です。三木が帰ってきても全然間に合わない可能性あります。そもそも誰が抜けてもかなりキツい状況です。そんなわけなんで」
イケメンがイケメンを遺憾なく発揮し、きらりと笑顔を輝かせた。
「誰一人欠けることなく全員で、一年D組の展示、絶対成功させるために頑張ろう!」
おう、と金田が叫ぶ。佐々木や下川も叫んでいた。他のノリの良い連中も一緒に声を上げ、ノリの悪い連中は呆れ顔で愛想笑い。
「つうか! そんなこと言ってる時間が勿体ないから! 早く手ぇ動かす!」
ぴしゃりと圷がその場を締める。
素晴らしい連携プレイ。伊達にいつも一緒にいない。
「あと三木、なんか誤魔化されそうになったけど今日一番サボってたのお前だかんな!」
「あっバレて……」
「冗談いいからさっさと手伝え。サボってた分取り返せよ」
「うす」
平身低頭、言われるがままにへこへこ従う。
しかしまぁ、なんというか。
入学前に思い描いたどんな自分より、今の僕は高校生をやっている。
高校なんて中学の延長、なんて話は散々読んできたけど、中々どうして小説とは信用ならない。
文化祭を週末に控えた一週間。
正式には文化祭準備期間と呼ばれる今週は、午後のホームルームが形骸化する。
そもそも部活動の方に顔を出したまま教室に戻ってこないことも多い。
本来はホームルームの時間だけ戻ってこなければいけないのだが、全校生徒が一斉に移動したらどこもかしこも大混雑だ。五分もかからない挨拶のために十分や十五分もかけて往復していたのでは非効率甚だしい。
そんなわけで賢い大人の教師陣はホームルームを形骸化させることでルールを曖昧化させていた。
生徒のルール違反を見逃すのではない。ルールの運用が曖昧だっただけである。
……そこまで組織的な思惑があったかはさておき、実際問題として罰則規定の執行を棚上げしながらルール違反の常態化を防ぐ意図があるのは想像できた。
しかし裏を返せば、明確かつ目に余るルール違反には適切に罰則が下されなければならない。
「そういうわけだから教科書や荷物は全て持ち帰って、明日も貴重品の類いを極力持ち込まないように」
連絡事項を終えた担任が言葉を切る。
作業の片付けもしていない教室で規律と礼を求められることもなく、あとは解散の一言でホームルームが終わるはずだった。
「それと、もう一つ」
予想に反して終わらなかった担任の声は、それでいて誰もが想像できた通りの緊張を僅かに孕む。
「噂を耳にしているとは思うが、ここ最近、駅周辺で不審人物が目撃されている。関わり合いを避け、もし話しかけられても付いていかないように。必要なら駅員を呼んだり警察に通報したりしてもいい。それで何か言われたら学校から説明する」
無視しろ、の一辺倒ではなくなったことが救いか。
それでも恐怖を和らげる効果は薄いだろうが、果たして昨日の今日で篠塚が姿を見せるかも怪しい。あくまで儀礼的な注意喚起。
むしろ本題は……。
「では、解散。三木はこの後、生徒指導室まで来るように」
何気なく付け加えられた名指しのそれ。
まぁ、当然である。
僕が事実上の関係者なのは周知の事実だし、朝のうちに予告されていたこともあって訝る声も上がらない。
それより帰り支度を始める姿がないではないけど、大多数は早くも一時中断していた作業に取り掛かり始めている。
ただ僕はといえば、やはり鞄を手にするしかないのだろう。
「津久井、すまん。あんだけ煽っといて……」
「ほんとだよ。けどまぁ、気を付けて帰れよ」
「そっちも。あまり遅くならないように……って言うのは無茶かもしれないけど」
「全員一緒にってわけにはいかないけど、一応あんまり一人で帰るやつが出ないようには気を配っとく」
「助かる」
話はそれで終わった。内容は決まりきっているし、そもそも津久井も暇ではない。
廊下に向かおうと身を翻せば、どうやら僕を待っていたらしい担任と目が合う。向こうが一足先に教室を出た。小走りで追い掛ける。
「すみません、まだ何か」
「あぁいや、そういうんじゃないんだ」
歯切れの悪い返事。
担任が誤魔化す必要に迫られる何かに心当たりがあるはずもなく、かといって追い抜いて生徒指導室に走るのも変な気がして何気なく話を続ける。
「そういえば青柳も生徒指導室ですか」
言った瞬間、嫌な予感。
いや。
予感と呼ぶにはあまりに明瞭すぎる、正夢にでも見たのではないかと錯覚するほどにリアルな映像。
「あぁ。今頃A組の平先生が――」
「すみません。あいつ保健室です」
担任の足が止まった。
僕も一歩余分に歩いてから足を止めるも、すぐに思い直す。
「まだ間に合うかも。失礼します」
「あ、あぁ頼む」
下校時刻だ。
文化祭準備期間も残すところ二日といえど、前夜祭が始まる明日よりはずっと多くの生徒が今から駅に向かう。朝の僕がそうしたように、木を隠すなら森の中。
それでも律儀に放課後まで待ってくれているかは微妙だが、走って間に合う可能性があるなら走る以外の選択肢がない。
何年かぶりに階段を何段か飛ばしに下りていく。
向かう先は保健室じゃない。最初から玄関を目指す。
形骸化したホームルームのせいでクラスごとに下校の時間に大きなズレがあった。横に広がって歩く上級生の脇を、すみませんすみませんと頭を下げながら駆け抜ける。
着いた一階、玄関前。
アッシュブラウンが混ざった髪に、どうしてだか視線が吸い寄せられた。
人混みの中だ。一つ一つの声は小さくとも、数が増えると立派な喧騒。声を上げるより駆け寄る方が早く、そのまま勢いで肩を叩いてしまう。
一瞬の危惧。
杞憂に終わった。
「あ? ……なんだ、ミキかよ」
「ちょっと来て」
「断る」
即答だった。
まだ用件も言ってないのに。
だが青柳も馬鹿じゃない。というより経験豊富だ。
「どうせ呼び出しだろ? 誰が行くかよ」
そうだけど、そうじゃない。
大した力ではなかった。振り向いていた上体を元に戻す。それくらいの力でしかなかったけど、肩に置いていた手は自ずと払い落とされそうになった。
それで条件反射的に、力を入れてしまう。
初めてだった。
やりたいようにやる。そう態度で示し、行動してきた。その青柳のやろうとしたことを真っ向から否定したのは。
ただ手に力を入れただけのことでも、致命的な意味を持ってしまう。
「おい」
重く沈み込むような声。
「お前、何か勘違いしてねえか? おい、なぁ、ミキ」
身を翻し、真正面から見据えてくる目。
目線の高さはほぼ同じ。
じっと睨んできたそれが、しかし微かに揺れた。しまった、とでも言いたげな表情。まるで僕自身の顔を見た気がする。いやまぁ、僕の顔はこんなに整ってないけど。
……と、遅まきながらに僕も気付く。
言葉数は少なく、声量も大きかったわけではないが、玄関前で足を止めていれば嫌でも目立つし邪魔になる。青柳がそんなことを気にするとも思えない……けど、良いタイミングではあった。
「ごめん。でも、ちょっと来て」
肩から手を離し。
その手を掴んで引っ張れたらどんなにいいかと思いながら、軽すぎる手を不安に感じて歩いた。
人が多すぎて、足音も多すぎて、青柳が後ろにいるのか分からない。
咄嗟のことでどこに向かうべきかも分からない。
ただ、ただ、最後に見た青柳の姿を想像する。青柳の、姿を……?
「ちょっと待った!」
慌てて振り返る。
すぐそこに青柳が立っていた。驚いた顔。
「んだよ。お前が――」
「あ、いや、ごめん。でも鞄は?」
教室から出てそのまま連れ回し、最後に保健室の場所を教えたきり。
当然、わざわざ鞄など持ってきていない。そして今も、青柳の手は空だった。
「は? 持ってきてないけど」
「教室に置きっぱ?」
「じゃなくて、家から持ってきてねえ」
なんと大胆な。
スマホと財布と、あと煙草だけポケットに入れて登校してきたと?
「すごいな」
「……んなこと言うために引っ張ってきたのかよ」
「あ、ごめん。違う」
「知ってるよ」
呆れ、ため息。
青柳の視線が不意に逸れた。なんだろうと反射的に追い掛けて、自販機を見る。ペットボトルのコーラは売り切れていた。
「で、どこまで行きゃいいんだ? 職員室とか生徒指導室は行かねえぞ」
「ちょっ、ちょっと待って」
別棟まで行くほどの用事ではない。
然りとて人混みの玄関前でできる話でもなかった。
苛立たしげな青柳にもう少しの辛抱を願って本校舎の外へ。別棟が見えるすぐそこで数歩だけ脇に行って立ち止まる。
「暑ぃな」
青柳がワイシャツの胸元を引っ張る。努めて目を逸らした。
「……で?」
「まず本題は生徒指導室への呼び出し」
「帰る」
「余計に長引かせない!」
子供じゃないんだから。
声には出さなかったけど、顔には出てしまったらしい。睨まれた。咳払い。
「警察のお世話にはなった?」
「そこまでじゃねえよ」
「昨日のことは結構な噂になってる。高校生がヤクザに殴られて倒れたって尾ひれが付いて」
「ハッ」
呆れたように笑い飛ばすけど、その青柳も口元に怪我をしている。整った顔立ちのせいで、いやに目を引く。努めて目を逸らそうとしたけど、遅かった。
「こんなの、別に」
「どうあれ噂にはなってるんだよ。昨日の今日だ。何も言わなくても誰かが噂する。そうじゃなくてもガサ入れだのなんだのって話が本当なら警察はとっくに動いてる。篠塚がどう関わってるのか知らないけど、最悪の可能性は考えなくちゃいけない」
何か事件があったとする。
チームとやらが起こした事件だ。
関係先にはガサ……家宅捜索が入った。事件に篠塚が関係しているなら、どうやったって尻尾を掴まれる。刑事モノの小説やドラマでは無能な組織と優秀な個人の対比が描かれるけど、恐るべき治安を誇る日本の警察を侮っていいことなんて何もない。
篠塚が直接関わっているなら、捜査線上にジュウゴやケンジ、そして青柳が浮上する。
通称チームが裏で糸を引いた事件、実行役には不良グループが使われた。そう筋書きされる可能性は十分すぎるほどに存在する。
どうせ不良なんてと問答無用で冤罪を着せられる可能性は低いだろうけど、何がどう転ぶか分からない。分からない以上は打てる手を打つべきだ。
「僕は青柳が何かやったとは思ってない。何も根拠なんてないけど、今日学校に来たことと、中学の二年間で見てきた青柳なら滅多なことはしないと思う」
「お前、なに見てきたんだ?」
「青柳は自分から喧嘩売るようなタイプじゃないよ。この何ヶ月かで変わったのかもしれないけど、かもしれないって言い出したら明日には真面目な優等生になってるかもしれないしね」
「……面白い冗談だな」
「…………ありがとう」
そんな話はどうでもよくて。
「とにかく。正直に話して警察のお世話になるようなことを、青柳がするとは思えない」
「そりゃどうも」
「いえいえどういたしまして」
そんな話もどうでもよくて。
「でも、それは僕が勝手に思ってること。現実がどうかは知らない。警察がどう思うかなんてもっと知らない」
青柳の目をじっと見る。
不躾なくらい、じっと見据える。
居心地悪そうに、ふいと逸らされた。
「……で?」
「呼び出しに応じて生徒指導室に行く。全てを話す。後でもし事情聴取されるようなことがあっても、警察が不良の言うことを鵜呑みにするとは思わない。学校や親に連絡を取って事情を確かめる。その時に生徒指導室での証言と一致するなら、少しは信用されるかもしれない」
青柳は黙って話を聞いていた。
付け加えるなら、そっぽを向いたまま聞いていた。
そして視線が舞い戻る。
呆れた眼差し。
「お前、よく考えるよな、そういうこと」
「知らなかった?」
「知ってたつもりだったよ」
想像と何かが違った?
まぁ、気にするほどのことではない。
呆れて笑う青柳の声は、顔は、うっかり手に力を入れてしまった時とは全く違った。
「どこなんだよ、生徒指導室」
「ありがとう」
青柳は鼻を鳴らす。
そこまでの返事が貰えるとは思ってもみなかった。
生徒指導室で待っていたのは、予想外の人物だった。
体格の良い男、中谷ではない。
どちらかといえばひ弱な印象を抱かせてきた我らが担任、小久保隆先生である。教室を出る時にわざわざ待ってくれた理由が分かって、思わず口を開いていた。
「今日は中谷先生じゃないんですね」
「もう先週のこと忘れたなんて言うつもりじゃないだろうな」
「……ん? 何かやらかしたのか、お前」
事情を知らない青柳が暇潰しのように口を挟んでくる。長々と話すことでもない。
「先週、君たちに絡まれた次の日、僕の制服が煙草臭いって言ってきたんだよ」
「そりゃ悪いことをした」
思ってもいないくせにぬけぬけと。
とはいえ種明かしをすれば詫びてもらう理由もなくなる。
「ちなみに僕は毎日ちゃんとワイシャツを替えてるし、スラックスはその日のうちに洗濯してもらったから次の日には予備のものを穿いていた」
「は? じゃあなんだよ。……ハハッ、お前にそんなこと言う間抜けがいたのか」
「いたんだよ。だからその場で抗議して、目の前にいる小久保先生にも苦情を入れさせてもらった」
「災難だな」
その言葉は明らかに小久保先生に向けられたものだった。
本人がそれをどう受け取ったのかは知る由もないし、知る必要もない。
「ちょうどいい。それじゃあ、その先週のことから話を聞きたい。昨日のことを聞くためにも知っておく必要があるだろうし」
さて、どこから話そうか。
思っていたら、意外や意外。
「朝、こいつが遅刻してたんすよ」
「えっ敬語……!」
「私は中学ん時から一応敬語だったが? あ?」
「ごめん続けて」
「虫歯野郎」
「着色汚れだよ。まぁそれで遅刻してる時間帯に駅を通ったらジュウゴに呼び止められたんですけど……あとはいい?」
「話遮ったのはお前だ、馬鹿」
青柳が吐き捨てる。
それから少し、ほんの少し、躊躇いを踏み越えるための間を置いて口を開いた。
先生に敬語を使うことは何も恥ずかしいことではないのに。




