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煙吐く少女  作者: 飯島鈴
10/16

10話

 曰く、ジュウゴは我が校の三年生。

 ケンジも同級生だったけど、今は退学しているという。

 どちらの苗字も青柳は知らなかった。先生が確認のために聞いたけど、年に何十人も退学するような学校ではない。退学が事実なら特定できるだろう。ジュウゴの方も出席簿で一目瞭然。

 他の名前も覚えている範囲で挙げられた。通っている高校も。

「最初は二人で中抜けしてコンビニとか行ってたって話でしたね、確か。そのせいでコンビニ出禁にされてから適当にその辺行くようになって、そのまま学校にも居着かなくなったって。何人かはその頃に知り合って、つるむようになって、今の感じみたいっす」

「名前は?」

「あ? 覚えてんのはさっき――」

「そっちじゃなくて。集まりの。チーム名みたいのは?」

「んなのあるわけないだろ。ただ学校からあぶれた奴が集まってただけだからな。どんな名前付けたって虚しいだけだ」

 青柳は自嘲気味に笑う。

 だけど大切なことだ。名は体を表すというけど、一度名前が付いたものは、どうしても名前に引っ張られる。かん水を使っていない事実上うどんでしかない麺でも、ラーメンを冠してメニューに載せればラーメンになるのと同じ。食べた人も、騙されたとは思わない。

 名前が付けば、あぶれ者の集いではなくなる。全く新しい、確固たる集団の出来上がり。

 ジュウゴたちはそこまでの段階に至ってはいなかった。

「……で、なんだっけ。お前のせいだぞ、ミキ」

 ぐちぐち言いながらも青柳は話を再開する。

 青柳が学校に来なくなったのは四月の下旬らしい。話しかけられるのが鬱陶しくて教室を抜け出し、外で煙草を吸っていたら見つかった。

 その話が出た途端、小久保先生は目の色を変えた。

「注意されて終わり?」

「……? はぁ。めちゃくちゃしつこく怒られましたけど」

「一応言っておくと、うちは校内での喫煙は一発で停学。二回目で退学。よほど間が空けば温情があるかもしれないけど、厳重注意で終わることなんかない」

 つまりは初手で温情に与ったらしい。

 青柳は「そうなんすか」と軽く受け止めていたが、僕は心臓が縮み上がった。薄氷の上どころじゃない。割れて足先が濡れていたのに気付かなかっただけだ。

 ともあれ当時も軽く受け止めていた青柳は、面倒臭いと中抜けするようになった。

 そもそも僕は初めて中抜けという言葉を聞いたけど、どうやら授業がある時間帯に学校の敷地を抜け出すことを指すらしい。敷地内はサボり。そもそも学校に来ないのは不登校とか、ズル休み。

 そうしてジュウゴたちと知り合い、徐々に登校自体しなくなった。それが四月の下旬。

 ドロップアウトにしては随分と早い。ジュウゴも退学処分にはなっていないらしいけど、この分だと遅かれ早かれだろう。

「シノヅカの名前が出てきたのは五月……ですかね。ケンジがどっかでなんか助けられたとか。いや、違うか。ゴールデンウィークの時にそれがあって、私たちの前で名前出すようになったのは六月くらいです。顔を見たのは今月の頭が初めてでした」

 ケンジ。

 退学している方。だからパーカーだったのかと合点がいく。暑そうなことに変わりはないけど。

「で、そいつがTEAMとかいうチーム……ややこしいな。まぁなんかのチームにも覚えてもらってるとか偉そうに言うんで。正直な話、それで威張るってダサくねえかなって何人かは思ってたと思いますよ。すげぇって憧れてる奴もいましたけど」

「ところで、字は分かる? シノヅカの。下の名前とか」

「や、分かんないっすね。なんつうか、まぁ普通のシノヅカじゃないんすか? 身分確認とか必要もなかったですし、みんな多分嫌ってたんで。……あ、ただなんか、話の感じからしてうちの卒業生みたいなイメージでしたね。なんでだったかな」

 そこで不意に、青柳が僕を見る。

 知る由もない話だ。首を振って返すと、何故か呆れられた。あんまりである。

「ごめん。続けて」

「そいつがなんか金儲けの話があるとか言い出したのが先週っすね」

「んんっ――!?」

 急展開に喉が詰まる。

 青柳ですら面倒臭そうというより呆れ顔。いや呆れ顔なのか。

「おい大丈夫かよ……」

「すまん。邪魔して」

「や、いいけど。……あぁいや、待った。中身とかは聞いてない。っす。なんかそういう話があるから一枚噛みたい奴は来いって感じで。どっちかっていうとジュウゴとかケンジに世話になってる奴が多かったから乗り気な奴は少なかったんすけど、ケンジは借りがあるからどうのって」

 そこで再び僕を見る青柳。

 今度は呆れている風ではなかった。ただ、どんな風なのかと聞かれると、分からない。初めて見る表情だった。

「断れない感じでした。ケンジは。だからジュウゴも付き合う感じで。けど他の奴らは関わらなくていいって。ただやっぱ、その感じがシノヅカは気に入らないみたい感じで、使えそうな奴連れてこいって」

 一瞬、言い淀む。

 まさか。

「それでミキのこと言い出す奴がいて。あいつ弱そうだし、ちょっと言えば言うこと聞くんじゃねえかって」

「それは……」

 言葉を失いかけたのは小久保先生だ。

 青柳は小さく笑って首を振る。

「やめた方がいいとは言ったんすけどね。こいつ、馬鹿なんで」

「ひどいな」

「けど、ほんと、馬鹿だろ。お前、気付いてて無視したろ。私が逃げるチャンス作ってやったのに」

 嘘だ。

 全く気付かなかった。

 ……ところで、いつの話でしょうか。

「お前やっぱ馬鹿だったわ」

「ひどーい」

「うぜぇキモい馬鹿野郎」

 ひどいなひどい、本当にひどい。

「で、いつ? どれ?」

「先週だよ。見張りやらせようとした時。お前ならさっさと逃げると思ったのに律儀に挨拶までして帰りやがって」

「……それ、僕がちょうど帰れそうだと思った矢先に君が邪魔した時だね。なんで帰れるタイミングだったのに見張りとか言い出すかなーほんとさーって感じだったんだけど?」

「えっ? マジで? ……それはまぁ、悪かったよ」

 バツが悪そうに目を背けられる。

 けどまぁ、その気持ちだけは今からでも感謝しよう。

 ……。……?

 そういえば、やたらと足を蹴ってきたな。何を遊んでいるのかと思ったけど、あれが抗議だったのか。なんで帰らねえんだよーっていう。分かりにくすぎないか? せめて強く蹴ってくれたら口実に使えたのに。

「一つ確認がしたいんだけど」

 脇に逸れた話が一段落したところで小久保先生が口を挟む。

「先週の出来事が多いね。順番は覚えてる?」

「あっ? あー……お前が来たの何曜?」

「木曜日だね。次の日にここに呼び出されたけど、土日を挟んだからか次に顔合わせる時には教室の誰も気にしてなかった」

「じゃあ月曜か火曜っすね、金儲けがどうのって話が出たのは。で、シノヅカが腹立てて使えそうな奴連れてこいとか言い出したのが金曜。それからもジュウゴとケンジは連絡取ってた……つうか取らされてた感じで、とうとう痺れ切らしたぞってのが昨日です」

 先週と言われた時点で分かってはいたが、随分と短い間に話が進んでいる。

 しかも昨日の時点でガサ入れとかいう話まで出ていた。警察の動きがそれだけ早かった、と考えるのは不自然だ。たかが不良グループ相手とはいえ捜査もなしに令状は出ない。

 だから話は反対だ。

 通称チームが何かを計画したが、警察が先回りしていた。それで実行役が捕まるか何かし、下っ端の篠塚に話が降ってきた。篠塚は事情を知らされていたのかどうか。最初から苛立っていたわけじゃないなら事情は知らなかったと考える方が自然だろう。

 金儲けと言えば不良は釣れると思った。でも及び腰で、それなのに上は急かしてくる。そういう流れだろうか。

「具体的な話は何も聞いてないです。本当に。ただ何かちょっとヤバそうだって話で、ジュウゴもケンジも今日は帰れって言ったんすよ。あ、今日って昨日のことで、あー……」

「いいよ。汲める」

「くそ。それでまぁ、逆に恩に感じてる連中が集まったって感じ。私もそこまでの義理はないけど……」

 また僕を見る。

 悪かったよ、本当に。

 許してくれとは、言えないけど。だって本当は悪いなんて思っていないのだから。

「先週の、木曜の朝にミキを見つけたのは偶然なんすよ。同じ学校の制服で、なんか遅刻してるくせにのんびり歩いてるから、それで興味持ったんじゃないすかね」

「時間を逆算して計画的に登校していたのだと一応訂正させていただきます」

「分かってる。授業は三分の一以上、大目に見ても半分遅れたら欠席扱い。記録だと三木は次の授業には遅刻してない。計算したのは見たら分かる」

「ありがとうございます」

「悪かったよ」

「……何が?」

「うっせえ」

 いや謝罪の意図を聞いただけでその対応って。

 抗議と困惑の眼差しを送ったが、ついぞ目が合うことはなかった。

「で……あぁもう、いいじゃないすか。私の知り合いってせいで巻き込まれたんじゃアレだから一応」

 待っていたと?

 律儀だな。

 律儀といえば小久保先生もだ。

「一応?」

 明らかに言い淀んだそれを聞き出そうと復唱する。随分と律儀じゃないか。背景を勘繰りたくなってくる。

 まぁ浅知恵を働かせていいこともない。

 思考を振り払いながら待っていると、青柳が苦渋でも舐めるかのように口を開いた。

「……一応、なんすか、誰かが呼び付けようとするなら悪評でも振り撒いてやろうかと思って」

「その気持ちは有り難いよ、青柳」

「うっせえ。結局お前のこのこ来たじゃねえか」

「うん。帰り道だし。あと君が見てる限りで、僕の連絡先知るタイミングってどこかにあった?」

 机の下で足を蹴られた。

 生徒指導室は、前回同様、とても狭い。

 机も本来は一対一で座ることしか想定されていないせいか、二人で横に並ぶのは窮屈だった。

 お陰で蹴りに勢いを乗せるだけのスペースはなく、痛みを感じるほどにはならない。

 蹴られた僕は自分のことだから分かるし、蹴った側の青柳も返ってきた衝撃から察したのだろう。

「いっ……!」

 痛みがなくて油断した、その足の甲を思い切り踏まれた。

 小久保先生が咳払い。

「あとはもう全部ミキが知ってることですよ。おい覚えてんだろ?」

「まぁ、そりゃあ」

 訂正しておくと、全部ではない。

 僕が知っているのは、僕が駅の床に倒れ込むまでだ。その後で青柳がどうなったのか、彼らがどこに行って何をしたのかは知らない。

 でも今そこを突付けば痛むのは僕の足だ。

 そそくさと青柳から逃げながら説明を引き継ぐ。

「確か六時……十八時前だったと思います。津久井たちがタイムラプスの撮影に行くっていうんで放課後の作業を切り上げて、僕は一人で駅に向かいました」

「さみし」

「気遣い屋と呼べ」

「ハッ」

「そうしたら通路にジュウゴが立ってて。かなり余裕がない感じでした。他の誰か……篠塚を待ってたんだと思いますけど、僕を見て何か考えを変えたみたいで。用件も言わず、ちょっと来いと。僕はまぁ僕で、青柳が僕の知り合いってことで腹いせされるのも寝覚めが悪いんで一応付いていきました。駅舎の中でしたし」

 状況を今一度整理する。

 そうして待合室に連れていかれ、僕は青柳の隣に座った。ただ警察の取り調べではない。そこまで細かいことはいいだろう。

「そこでケンジにいきなり自己紹介というか、まぁ名前を名乗られました。その人らが占拠してた待合室は木曜に見た時よりずっとピリピリした感じで、息が詰まったのを覚えてます。誰もスマホを触ってませんでした。通報と、通報したと疑われるのを恐れてるんじゃないかと思ったので、僕も触れませんでした」

「じゃあ時間は」

「分からないです。かなり息が詰まって、密集してたんで暑いのもあって、発着のアナウンスもめちゃくちゃな時間に聞こえたように感じてました。で、流石にヤバそうなんでトイレ行くフリして逃げようとしたら、ちょうど篠塚が来たんです」

「シノヅカが来た時、ジュウゴがミキのこと紹介したんだよな?」

「あぁ、えっと、本当にちょうど出ようとしたところなんで目立っちゃって。誰だこいつって篠塚が言い出したんで、紹介したんだと思います。僕も挨拶だけしました。篠塚って名前はその時に紹介されて、勝手に普通の篠塚だろうと。知ってるのはそれだけです」

 まぁ普通じゃない篠塚も考えにくい。

 それで思い出した。リュウという名前。まぁ今は重要ではない。

「続けて」

「チームにガサが入った、と篠塚がいきなり言いました。連絡がつかない。パクられたのか飛んだのかも分からない。そんな話をしてたので、ちょっと本格的にヤバすぎると」

「あの時は肝が冷えた」

 青柳がほとんど無意識みたいな声で呟く。

 僕は流そうとしたけど、小久保先生は目敏く拾い上げた。

「あの時?」

「あぁ、えっと……」

「なに笑ってんだって篠塚に言われたんです。ちょっと前後するんですけど、篠塚に席譲って僕は立ってたんで。ヤバいなーって引きつった顔してんのが笑ってるように見えたのかと」

「本当は?」

 いらんことを言ってきたのは無論、青柳。

「次はマル暴かなって」

「それは確かに肝が冷える」

「馬鹿なんすよ、こいつ」

「ようやく意味が理解できたよ」

 人の目の前で人の悪口をピンポン玉代わりにラリーしないでほしい。

「そういう顔だ馬鹿」

「なんで適当に話を合わせてお茶を濁しました」

「全然濁せてなかったんだよなぁ」

「ちなみに、どんな話を?」

「今みたいな顔で『ヤバいとこ来ちゃったなーって思ってました』ですね」

「肝が冷える」

「見え透いた社交辞令は却って危ないですよ」

「分かっていても、だ」

 話がこじれた。

 それで、と本題に戻しかけ、僅かにだか喉が詰まる。そう、こういうことか。肝が冷える。今思い出しても。

「すぐ逃げられるように半分だけドアの方を向いて立ってたんで、改札の方が見えたんですよ。で、そこに佐々木と圷が通り掛かって」

「それはつまり、一Dの?」

「はい。向こうもこっちを見てました。佐々木が何か声上げたのが口の形で見えて、それに篠塚が気付いた感じです」

 小久保先生にしても、肝が冷えるなどという軽口を叩ける話ではなかった。

 直に見て、無事に済んだと知っているものを思い出しただけで肝が冷えるのだ。初めて実際の出来事を知らされ、その映像を思い浮かべてしまえば、心臓が縮み上がるに違いない。

「待合室に来た時から篠塚はかなり苛立ってました。焦ってて、余裕がない感じで。誰が聞いたわけでもないのにチームとかいうのの恨み言いってる状態で、そんな時に自分たちの方を見て何か言ってるところを見つけちゃったんで……」

「佐々木は……本当に佐々木はっ!」

 やはり担任の目から見てもそうなるのか。

 隣で沈黙している青柳の顔はできれば見たくない。ちょっと怖すぎる。

「ヤバいと思って。咄嗟に。一応圷は引っ張っていこうとしてくれてたんですけど、篠塚が怒鳴り声上げたら動けなくなっちゃったみたいで」

「……それで」

「正直、その時は今の話知らなかったんで。ジュウゴとかケンジは仲間で、流石に高校生に殴りかかったらヤバいって分かるから止めると思ったんですけど、そっちも呆気に取られて動けな――」

「違う。ビビってたんだよ」

 青柳が吐き捨てる。

「自分とは関係ないことだって言い聞かせて、嵐が過ぎるの待とうって。できれば無事に、誰も何事もなく終わったらいいなって」

 そして呻くような、絞り出す声で付け加えた。

「私も」

「いやまぁ実際、青柳は関係ないわけだし」

 笑いながら青柳の方を見た。

 失言を悟る。またしても初めて見る顔だった。

 ほとんど椅子から立ち上がる勢いで、僕の方に身を乗り出してくる。

「じゃあ……っ! じゃあお前は関係あんのかよ! シノヅカんことも知らねえのに! 私らともちょっと前に会っただけなのに! お前は――」

「いや、違う」

 それは違う。

 青柳は明確に誤解している。

「あの時、佐々木は僕を見ていた。知り合いの僕がいるのを見て驚いて、それを圷に言おうとでもしたんだろう。僕は中谷から言われてた。無視しろって。なのに僕は無視しないで、逃げそびれて、そこにいた」

 状況は単純だ。

「僕の撒いた種だ。誰も動いてくれないなら、僕が動くしかない」

「……なんで」

「僕が撒いた――」

「違うッ! お前はなんだよ! 佐々木ってなんだよ! それはお前の惚れた女か何かか? アァ!?」

「違う。多分、友達ですらない」

 まだ何か叫びかけていた青柳がピタリと動きを止める。

 目の奥が揺れていた。

 大声を出しすぎたせいか、目の端に涙が滲んでいる。口元の傷も開きそうだった。痛々しい。見ていたくはなかった。

「ただ怒鳴られて、怖い思いをするだけなら、我慢していいかもしれない。それでも僕は気にしたと思うけど、ヒロイックに憧れる歳でもない。分別はつく。でもあの時の篠塚は明らかに我慢できる状態じゃなかった。詰め寄った勢いのまま殴りかねない。いや違う。本当は怒鳴られるだけでも相当怖いだろうと。そこまで割り切る余裕はあの時はなかった」

「だったら、なんなんだよ……」

「時間を稼ぎたかった。佐々木たちが逃げる時間。周りの人が対応する時間。篠塚が我に返る時間。だけどガサ入れだのパクられるだの言ってる人間に、人が見てる前で味方のフリして近付くわけにもいかなかった」

 売り言葉に買い言葉。

 ちょうどよかった。

 何様のつもりだ、というお決まりの台詞。それに乗るしかなかった。

「ジュウゴが馬鹿だって紹介してたから、馬鹿のフリをした。いや普段から賢いとも思ってないけど。そういう不良だヤクザだ半グレだって連中が好きそうな馬鹿のフリを」

「死ぬぞマジで、お前」

「うん。殴られた瞬間に気付いた。人間の身体って脆いなーって。いや、普段、そんな危険な目に遭うことって、そういえばなかったから。天井が見えて、意識があるのが分かって、めちゃくちゃ痛かった時に、これは多分運が良かっただけだって。賭けに勝った、篠塚が幾分か冷静になってくれただけで、運が悪ければ死んでたなーって」

 青柳が怒っている。

 怒っているのに、目の端から伝う涙は一本の筋を描いていった。

「何か言いたそうな君の顔が見えた。でもそれどころじゃなくて、多分、のたうち回ってた。次に見た時はいなくなってて、本当に安心したんだよ。君まで馬鹿じゃなくてよかった」

 瞬間、青柳が手を振り上げた。

 振り上げた、だけだった。行き場のなくなったそれが僕に伸びる。

 頬を叩く代わりに、ワイシャツを掴んだ。襟元が寄せられ、首の後ろが少しキツい。まだ頬が痛む方がマシだっただろう。

 椅子に座ったままなのに体重を寄せてくるものだから、青柳は今にも転んでしまいそうな危うさだった。

「じゃあ私も馬鹿だ」

 挑発するように、笑う。

「教えてやるよ。シノヅカの乗ってきた車があった。何人か置いていかれて、私は後ろの席に入れられた。横にシノヅカが乗った。運転はケンジがさせられてた。無免だよ。言われるまま運転してた。どうして運転できるのかは気にもしなかった。必死で道を覚えた。交差点のコンビニに見覚えがあって、そこを目印にした」

 息継ぎの間さえも惜しむ声だった。

 震えそうなそれを、勢いで黙らせるかのような喋りだった。

「知らねえアパートに連れてかれて、車から降りた途端に何人か逃げた。残ってたのはジュウゴとケンジだけだよ。ジュウゴがヤバいとかなんとか言って止めようとしたけどシノヅカは聞く耳持たなかった。私の腕掴んで、錆びた階段上って。嫌だった。絶対に嫌だった。だから振りほどこうとしたけど無理だった」

 眼前に見る。

 答えを知っている。

 知っているのだ、答えを。僕は青柳を知っている。知っているとも。

 青柳は、僕ほどの馬鹿じゃない。

 僕よりずっと普通の、当たり前の、十五歳。十六歳。どっちかも知らないのに、それだけは知っている。

 なのに。

 だけど。

 聞きたくなかった。聞いていたくなかった。

「でもお陰で、面倒臭くなったのか、知らないけど」

 息が切れたような声。

 違う。

 動悸。過呼吸。対処法は――。

 我知らず目を見ていた。青柳も僕を見ている。

 ははっ、と小馬鹿にするような笑い声。

 小さく、小さく、一呼吸。

「お前が馬鹿なのは知ってるよ。どうせ咄嗟に身体が動いたとか、そういうカッコ付けた理由じゃないんだろうなって。見てれば終わることなのに必死で考えて、考えたくせに馬鹿だから簡単な答えも出せねえで。だから馬鹿なことしたんだろうなって」

 馬鹿だ、馬鹿だと言う方が、馬鹿なんだ。

 言ってやりたいけど、言えない。先に言われてしまったから。

「お前と目が合った気がした。見てたんだな、マジで」

「一瞬だけ」

「だからまぁ、あれが正解だったんだろうなって。全然お前らしくないこと必死に叫んでんだもんな。馬鹿なお前が馬鹿みたいに考えた答えがあれだったんだろうなって」

「馬鹿馬鹿言いすぎだ馬鹿」

 我慢できなかった。

 青柳が笑う。

「だから馬鹿だって言ってんだよ」

 くしゃりと、ワイシャツを握る手。

「汚えアパートの汚え部屋の前で思いっきり突き飛ばされた。や、シノヅカにしたら手を放しただけなんだろうけど。転びそうになって、なんとか手すり掴まって、足が動かなかった」

 想像する。

 もう夜だろう。

 知らないアパート。

 必死で覚えるしかなかった道。

 男が、三人。

「走って逃げりゃ、それでよかったのかもしれない。だけど逃げ切れる気がしなかった。階段着く前に捕まるとこしか想像できなかった。動けなかった。動かなかったら――」

 喉が痛い。

 誰かが首を絞めているみたいに。

 青柳はもっと、ずっと痛いだろう。声は掠れていた。

「…………。……脱げって。あいつが言った」

「もういい。青柳、もういい」

 小久保先生が切迫した声で言う。

 それを手で遮ったのは、僕だった。

 僕の胸の前で、青柳が笑う。

「お前、やっぱ馬鹿なんだよな」

「知ってる。君がそうなのは知らなかった」

「誰のせいだと思ってんだ」

 乾いた、何かを吹っ切った、そんな笑い声。

「馬鹿なことしたよ。お前のせいだ。あぁそう、全部覚えてる。らしくもねえ。一言一句覚えてる。頭の中で、うるさいくらいに。誰でも知ってる簡単なことも分かんないお前が馬鹿みたいに考えた結果なんだから、あれが正解だったんだろうなって」

 襟元から手が離れる。

 青柳が椅子に座り直して、真っ直ぐ僕を見据えてきた。

「こんなガキも力尽くじゃねえと抱けねえのかって。こんなガキ無理やり抱いて喜ぶ変態なのかって言ってやったら、殴られた」

「馬鹿だろお前」

「あ?」

「馬鹿だろ君」

「変わってねえよ馬鹿だろお前」

 理不尽。

 あまりに理不尽。

 笑うしかなかった。腹の底が震えていた。痙攣したかのように震え続けた。

 馬鹿だろ。

 本当に、本当に、本当に、馬鹿じゃないのか。

「そんでシノヅカはどっかの部屋入ってった。ジュウゴとケンジが呼び付けられてた。でもケンジがジュウゴに帰れって。ジュウゴが送るとか言ってきたけど、そんなの無理だった。……向こうがその気なら蹴ったとこで同じなのにな。馬鹿みてえに歩いて帰った」

「まぁ正解だろうね」

「……なんでだよ」

「後で送り狼で調べたらいいよ」

「おい先生、どういう意味なんだ?」

 敬語はどうした、敬語は。

 ただ小久保先生も安堵のせいか、呆れたような変な笑い声を上げるしかなくなっていた。

「善意を装って女性を送って帰って、そのまま部屋に上がり込む男。本来の意味は妖怪だけど」

「お前なに? なんでそんなこと知ってんの? 馬鹿の上に変態なん?」

「こう見えて読書家なので」

「お前が本読んでるとこなんて一度も見たことねえよ」

 こう見えて、と言っただろうが。

 ちなみに妖怪の方は知らなかったので、後で調べようと思う。そこまでは顔に出さなかったつもりなのに、青柳は何か小馬鹿にしたようにニヤニヤ見てきた。

 目が合い、逸らされる。

「まぁ、今のが全て。連絡先なんかは知らない。だから後のことも知らない」

 急に話が引き戻された。

 青柳はそっぽを……じゃないな、小久保先生の方を向いている。僕も居住まいを正した。

「今の話は、もしかしたら、警察の方にも話してもらうことになるかもしれない」

「分かって……分かってますよ。別に、何度だって話すんで」

「それと今回の件、ご両親は」

「関係ないっす」

「関係ないわけないでしょ」

 横から肘でつつく。

 足を蹴られた。

「遅く帰って怪我してたら流石になんか言ってくるんで。なんでもないって言ったら、そうって」

「……それだけ?」

「そういう親なんで」

「待って。待った。じゃあ、まさか」

 慌てた様子。

 なんだろうと小久保先生の顔を見ていたら、目が合った。失敗を悟る表情。

「なん?」

「僕が聞いたらいけない話らしい」

「別にいいだろ」

「よくはないんだけどね」

「いいって言ってんすよ、私が」

 我儘である。

 しかし小久保先生もどうしたものか。僕と青柳の顔を交互に見やるではないか。

「親御さん……確かお父さんだったかな?」

「は?」

「A組担任の原先生から電話いったはずなんだけど、青柳叶さん、あなたは進級できません」

 何をどう考えても第三者が同席する場で言ってはいけないことなのでは?

 なんで『いいって言ってんすよ』の一言で本当に言って大丈夫だと判断したんですか?

 横を見る。

 青柳も呆れてため息をついていた。

「うちの親父、とっくに他界してんすけど」

 ……?

 …………?

「今、なんて?」

「高い高~いじゃねえぞ。他界な」

「はは。ははは。……で、なんて?」

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