11話
「私が五歳の時にぽっくり逝ってるんで。親父。今の私に親父とかいないんで」
平然と。
しかしこんな時に限って、必要な情報を的確に入れ込んだ言葉。
十年かそこら前に他界した父親が高校の担任からの電話に出た? おいおい、ちょっと思ってもみなかった方向に話が転がり出したじゃないか。
「ちょ、ちょっと、待った。だけど確かに原先生はお母さんの電話番号に――」
「なんで母親の電話番号に電話して父親が出るんすか?」
「その時一緒にいた。ちょうど手が離せないとかで、代わりに出たって」
「それ父親じゃないっすね」
「じゃあ、誰が……」
小久保先生と全く同じ疑問を、その瞬間、僕も抱いた。
ただ、一瞬のことである。
違和感がすぐに僕の首根っこを押さえ、引きずり倒したような錯覚。
こんなホラー現象を聞かされながら青柳は動揺一つしていない。それどころか下手くそな冗談まで言い出す始末。まさか霊感があってホラーに慣れている? だとすれば今までの輪を乱してきた行動にも説明が……まぁ、つかない。
答えはもっと単純なのだ。
思い出す。
青柳といえばでナカチュー出身者が連想するもの。煙草だ。
「内縁の夫?」
「違う。熟女好きの変態」
「なるほど。すごく安心した」
「そうかい。そりゃどうも」
僕たちのやり取りを小久保先生は唖然と見ていた。
少し整理しよう。
多分、一から十まで説明を求めても青柳は口をへの字に曲げるだけだ。
「要するに青柳母は夫と死別して十年、新しい恋を始めた」
じとっと睨まれた。今にも射殺してきそうな眼差し。けど否定しないということは正解なのだろう。
青柳の母親は中学の時に一度見ている。
若かりし頃はさぞ持て囃されたであろうと容易に想像できる、けれど、若かりし頃はと自然に但し書きを付けてしまったような人物。
「二十そこそこの若い奴。だから最初は私狙いかと思って警戒してたんだけど、ただの変態だった。マジで気持ち悪い。あんな疲れたババア褒めちぎってキャーキャー言わせて喜んでんの本気で虫唾が走る」
「……うん」
「おい分かるか?」
「僕の想像の限界を超えているであろうことだけは痛感した」
「分かってくれるか……」
あの青柳が、理解不能という答えに対し、喜びと安堵を示す?
それはもう常軌を逸した、この世のものではないかのような変態に違いない。
「一周回ってホラーが戻ってきたね」
「なに言ってんだ?」
「こっちの話」
「知ってるわ」
ともあれ、ともあれだ。
恐らくこの話にホラーはあれど事件性はない。
小久保先生が戦慄した、関係のない第三者の言葉を信じて生徒の個人的な情報を漏らしてしまったという特大の不祥事は、ある意味で回避されたのだ。それでもなお原先生と、同席していた小久保先生は下手したら厳重注意では済まないが。
「まぁ、つまり、です。結果としては青柳の父親という立場になりたい変態Xが、だからもう自分は父親なんだということにして青柳母に対する電話に応対した。それだけの話です」
重要なのはそこではない。
あるいは熟女好きの皮を被った変態が青柳に手を出そうとするなら大問題だが、今は一旦脇にやる。死別して十年。新しい恋を始めるのも、子供からしたら複雑な心境なれど、一人の人間として責められることではない。
それよりも、だ。
「青柳が進級できないっていうのは、その……出席日数ですか?」
「あぁ、その通りだ。もう足りていない」
小久保先生はそこで言葉を切る。
少し思案するような顔を見せ、それから再開した。
「本人が登校してこなくて、連絡もつかない以上、親御さんに連絡するしかなかった。娘と話し合いますと丁寧に返されたから、それで先送りにするしかなかった。申し訳ない」
「その謝罪は先送りにしたことについてですか? それとも私を娘と呼んだアレの言葉をそのまま私に伝えたことですか?」
冷や汗をかきそうになりながら目を泳がせる小久保先生。少し可哀想だ。
「すみません。多分、青柳流の嫌がらせです。よほど娘呼ばわりが嫌だったようで」
「あれの娘とか反吐が出る」
「よく昨日も一昨日もその前も家に帰った。僕は青柳を心の底から褒めたい」
「うぜえけど許す」
寛大である。
青柳をここまで寛大にさせる変態とは一体、などと純粋に考えるほど僕も青柳を知らないわけではない。
そもそも青柳が家に帰っているという事実が何より雄弁に語る。家の中で裸で過ごしたり、未来の娘の目を気にせず未来の夫婦同士で仲良くしたりしていたなら、青柳は今ここにいないかもしれない。
ある程度の良識は弁えていることは電話の話からも想像できる。
良識ある大人を装うためにも良識は必要だ。海外のSNSユーザーがAIで生成した日本語が違和感ばかりなの同じ。勿論、技術と知識で乗り越えられない壁ではないけど。
ただどちらかといえば、もう若くない自分の母親の、若い男に恋する姿を見ていられないという青柳自身の心情を考える方が可能性は高い。その元凶たる新恋人はさぞ受け入れ難い異物だろう。
「話を戻すけど、うちの高校は四年生はない。進級できなければ留年、来年も一年生になる。それと出席日数の他にも学外からの通報もあって、今回の件はダメ押しになるかもしれない。まずもって停学。話を聞く限り一発退学はないと思うけど、喫煙はかなり重く見る」
見られる、ではなく、見る。
つまりは学校側を代表しての、ある種の宣告。
「んなの、別に――」
「持って帰らせてください。今回は別件です。今ここで踏み込んだ話をするのは、それこそ僕の同席とか何かと問題があるでしょう」
「無論。実際、昨日の今日だ。学校としても事情を把握しきれていない。あくまで今回は、そういう話があると伝えるに留めるだけになる」
「ありがとうございます」
「なんでお前が頭下げんだよ」
「君は知らなくていい」
「私のことだ」
不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも、追及はしてこない。
今日の青柳は本当に優しい。
とはいえ、昨日のことがある。致命的な一線は避けられたと分かっていたけど、事態は想像より遥かに踏み込んでいた。よく僕なんかの話に付き合って学校散策をしてくれたと頭が下がる思いだ。
「ただ、三木優至」
気を抜いていた。
不意にフルネームを呼ばれ、驚いてまじまじ見てしまう。小久保先生は、厳しい表情。
「そういう意味でいえば、君の方が重い処罰になるかもしれない」
「……?」
「最悪で、停学だ。退学はない。だけど未成年、特に本校生徒の喫煙の現場に居合わせ、それを止めないどころか注意もしなかった事実は重い。勿論、その場での君自身の安全を考慮した上で。改めて、ご両親と一緒に話をさせてもらうことになる」
「なるほど」
「なるほどってなんだよ」
思わず呟いた声に横からツッコまれる。
けど、他になんと言えただろう。
青柳より重い処罰というから何事かと思ったら、どうせ進級できないし退学もどこ吹く風の青柳はともかく、ここまで通知表の上では優等生だった僕には停学も検討されるほどの問題行動は相対的に重く響くという話だ。
ただまぁ、それだけの話である。
腹ではなく顔面を殴られていたら手加減されていても脳震盪やその他リスクがあった。青柳の方は想像もしたくない。
それに比べたら、停学なんて。
「親としっかり話し合おうと思います。自分で言うのも恥ずかしい話ですが、理解のある親だとは思っていますので」
「担任として、一応聞いておく。理解とは?」
「我が子に対する理解です」
「なるほど。分からないということだけは分かった。後日、三木抜きでご両親と話すことになるだろう。君がいいと言えば、だが」
「構いません。その旨も伝えておきます」
話はこれで終わりとばかりに、小久保先生が腰を上げる。
僕も続けば、あぁ本当に終わりなのか、とでも言いたげな気怠さで青柳も立った。
入口を背に座るはずの僕たちより早く小久保先生がドアノブに手をかけ、ドアを開ける。そして自身は脇に避けた。
「寄り道しないで帰るように」
「ご安心ください。送って帰ります」
「駅までの道は一つだろうが」
冗談を交わしながら生徒指導室を後にする。
振り返ると、青柳が何故かそっぽを向いた。なんだろう。と思っていたら、今度はドアが閉まる。まだ小久保先生は中だ。
「……申し訳ないことをした」
「聞かせるために言ったな?」
「心外だ」
「お前は馬鹿だからな。すぐにそういうことをやろうとする」
随分な信頼である。
まぁ、いいか。
それに実際、生徒指導室の性質上、ドアを閉めたら外の音が中に聞こえるか分からない。
特に悪いことをしていなくても警察車両を見ると背筋が伸びてしまうのと同じで、呼び出されてもいないのに近寄る者もいないようだ。二度も足を踏み入れる機会があったのに、外の音が聞こえるかどうかの判断はできなかった。
だから二人、喧騒の遠い廊下を歩く。
「なぁ、ミキ」
「ん?」
「やっぱ今日、お前んち行っていい?」
はは。
なるほど。
明日は雪が降るな?
青柳と並んで電車に揺られるというのは、なんとも妙な心地だった。
あまり覚えのない、初めての心地。
強いて似た経験を思い出すなら、近所の夏祭りにふらっと出掛けた時のことか。予想を遥かに上回る人混みで、あっちを見てもこっちを見ても浴衣姿。
あの居心地の悪さにどこか似ている。
ただ、嫌な心地ではない。慣れないというか、落ち着かないだけ。
青柳を知らない人が傍から見れば、二人並んで座る高校生の男女でしかない。そもそも会話もなく、偶然隣に居合わせただけの他人にも見えるだろう。
あの夏祭りの日だって、僕以外のTシャツ姿も珍しくなかった。僕だけが居心地悪く感じる理由はどこにもない。
……はず、なんだけど。
駅に着く。電車を降りる。
改札を抜け、簡素な駅舎を出ると、また青柳が横に並んだ。
二人とも沈黙を嫌う質じゃない。むしろ会話のための会話を嫌う方……だと、思っていたんだけど。
ふと気が付くと、何を話せばいいものかと考えている自分がいた。
沈黙の時間が不仲を示すような関係でもない。話すことがなければ話さなくていいのに、変な感じだ。落ち着かない。
というか、だ。
僕の知る青柳なら、僕がこんな風に何かを言おうか、言うまいかとグダグダしていたら茶々の一つも入れてくるだろう。
キモいだのウザいだの。
別に僕はMじゃないし、青柳のそういうコミュニケーションが正しいとは思わない。青柳以外にやられたら不愉快に感じるだろうし、青柳が他の誰かにやっているのを見たら苦言の一つも零すだろう。
ただ、そう。
好ましいとは思わなくとも、もう慣れてしまった。
他の同級生と比べて接点が多かっただけで、そこらの普通の友達同士に比べたら話してきた時間は短く、中身も浅い。
それなのに、どうしてだか妙な感じだ。
上手く言葉にできない。
天変地異の前触れかと言いたくなる、青柳の妙な行動も原因だろう。昨日みたいな何かが起きた時に消去法的に選ばれるならまだしも、特に何もなかった今日うちに来るなんて言い出すとは。
僕が見てきた、僕の知っている青柳と違う。
それが原因なんだと決め付け、答えの出ない問題を掃いて捨てた。
何を隠そう、我が家に着いてしまったのだ。
「ここ?」
大切な時に沈黙し、特に話題にも困らなくなってから口を開く青柳。とはいえ責めるのはお門違いだ。僕とてそこまで身勝手ではない。
「そう。小さい家でしょ」
僕が生まれ育ったのは小さな一軒家。
親子三人の所謂核家族が暮らす、田舎の片隅の家だ。二階建てだけど一階は半分車庫になっている。そもそも土地代が高い都会ならいざ知らず、この辺りでは随分コンパクトだ。
「お前、うちじゃ暮らせねえな」
青柳が呟く。
暮らす予定はないけど、そういう意味じゃないことは明白だ。もっと狭い家か、そもそもアパート暮らしか。贅沢言うな、と小言を頂戴したわけだ。
「悪いね、悪意はなかったんだ」
「もう少し悪びれろよ。私もなんも思ってねえけど」
「まぁ、それじゃあどうぞくつろいでってください」
「いいよ、すぐ帰る」
それは尚更、妙な話だ。
答えはすぐに明かされるのだろう。
鍵のかかっていないドアを開け、一歩中へ。直後、重大な失念を思い至った。
「ちょっと、優至! あなた今日も、また……」
何故か玄関で待ち構えていた母さんの声が尻すぼみに消える。
この家に暮らす子供は一人しかいない。
まだ父さんが帰ってくる時間でもないから、帰ってくるなら僕一人。そう信じて疑わず、他の可能性なんて考える必要もなかったがゆえに、予想外のもう一人が見えて失敗を悟る。
そして沈黙してしまった後で、それが青柳だと気付いたのだろう。
母さんの目が僕を見て、青柳を見て、また僕を見て、僕たちではない何かを探すように遠くを見た。
平凡な、なんの特徴もない人。
それは僕が生まれてからずっと見ているせいだ。あまりに長く、当たり前に見続けたせいで、特徴を特徴として捉えられなくなっている。他人から見たら母さんには母さんの特徴があるのだろう。
だとしても、僕にとってはそうじゃない。
平凡な母親の、平凡に驚く顔だった。
それより僕を驚かせたことがある。
「……すんません。ちょっと、お邪魔します」
すんません?
砕けた言葉遣いではあれど、まさか青柳が開口一番、そんな社交辞令を口にするなど。
思わず驚きの眼差しを注いでしまって、ぎろりと力強く睨み返された。
「んだよ。さっきも敬語だったろ」
「……? いや、ごめん。なんでもない。青柳も大人になったね」
「親の前じゃなきゃ一回全力で殴ってるからな?」
しまった。
今のはアレか。親が嬉しくなって褒めちぎったら子供の方が恥ずかしくなってしまって却ってやらなくなってしまうとかいう。
「まぁ何はともあれ、だ。少し時間いいかな、母さん。僕の用件は知らないんだけど」
「昨日のことだ馬鹿」
「それは分かってるけども。とにかく」
「あっ。あぁ、えっと、散らかってるけど……」
「や、別に、ほんとすぐ終わるんで」
「それは僕にも立ち話に付き合えと?」
「お前なんなん? この家じゃそんな偉いん?」
「一人っ子なので」
わざとらしく胸を張ってみせ、そそくさと靴を脱ぐ。然しもの青柳も靴を脱げば足を踏んではきまい。
母さんもようやく脳みそを再起動させたようで、慌てて台所の方へと消えていく。
我が家の一階は狭い。風呂トイレの他には所謂ダイニングキッチンがあるだけ。いや、テレビもあるしリビングダイニングキッチンなのか? 長すぎて普段そんな風に呼ぶことはまずない。
台所、リビング。それだけだ。
来客用のスリッパなどという洒落たものもなく、靴を脱いでそのまま廊下を歩く。
しばし遅れてリビングに入ると、母さんが急須と茶葉を準備していた。ケトルのスイッチは既にオン。
リビングには食卓用のテーブルが一つ。椅子は四つ。僕と父と母しかいないのに四つも椅子がある理由は、そういえば気にしたこともなかった。まぁテーブルはなんの変哲もない長方形だし、三つだとなんだか収まりが悪い。来客用でもあるのかな。
鞄を邪魔にならない壁の方に置いて、普段は荷物置きになっている椅子を持ってきて青柳を促す。
それから台所に向かって手を洗い、今度は冷蔵庫へ足を向けた。
「青柳。氷はいる?」
「氷?」
「なんでこの暑い中帰ってきたのに熱いお茶を飲むと思うのかな」
「…………」
ケトルの職務遂行を待っていた母さんが固まる。
家の中はクーラーが効いていても、身体はまだ熱を持ったままだ。
「お前、家でもそんなんなの?」
「母さんの名誉のために言っておくと、今日は青柳が来たのが原因だよ。ナカチュー生の親にとって青柳とは厄介事の代名詞。家に招くなんて驚天動地」
「楽しそうだな」
「実を言うと僕もちょっと冷静じゃない」
「お前がいつでも来いって言ったんじゃねえのかよ」
「それは心の準備が万全だって意味じゃない」
ともあれ冷蔵庫から麦茶を出して、自分用のグラスと誰用とも決まっていないグラスにそれぞれ注ぐ。氷は入れなかった。暑いといっても、とっくに夕方だ。炎天下を歩き続けたわけじゃない。冷やした麦茶に更に氷を入れては、すぐに帰るという青柳には迷惑だろう。
「粗茶ですが」
わざとらしい冗談に一々乗ってくる青柳ではない。
ん、と小さく返事だけして受け取った。浅く口を付ける。ポーズだけかと思いきや、意外にもちゃんと飲んだ。流石に暑かったらしい。
ケトルのスイッチを切った母さんがそそくさとテーブルを挟んだ反対に座る。いつもの席だ。必然、隣が父さんの席。
僕は習慣からしても、今この状況を考えても、青柳の隣に座る以外の選択肢がない。
「前置きはいいよ」
一言告げ、麦茶に口を付ける。染み渡る。
すぐに青柳が話を始めると思っていたのだけど、そうはならなかった。
沈黙が漂う。
明らかに不自然な、居心地の悪い沈黙だった。
それで青柳も意を決する。
口は、しかし開かれなかった。
代わりに頭を下げている。椅子に座ったままなれど、深々と。明日の朝は早起きしよう。雪かきが必要だ。
「一々ツッコまねえぞ」
律儀だ。
頭を下げたまま横を向いて睨んでくる青柳に、小さく笑って返す。ため息が返された。
前に向き直った青柳の横顔は、いつも通りのそれ。
「色々、あったんすけど……あったんですけど、全部、私が原因です」
ただ声音は違った。
いつになく真面目な響き。
茶化すのも忍びなく感じて、表情を殺すためにグラスを口に押し付けた。
「なんて言えば……。何から言えばいいのか、分かんないんですけど……」
「一からでいいんじゃない?」
「……そうかよ」
そして青柳は話した。
生徒指導室で話したことを、もう少し簡単に、単純に。
勿論、青柳が車で連れていかれた話は省かれた。だからといって、自分の子供が不良に殴られたのだ。衝撃はどれほどのものか。
母さんは全てを黙って聞いた。相槌以外、何も口を挟まずに。
「後でちゃんと話すことになるって先生が言ってました。結構、重くなるかもしれないって。すみません。悪いのは、私です」
その時になって、母さんが口を開いた。
「それは、本当に思っていること?」
「ッ……。はい。申し訳ないと、思ってます」
「優至は?」
「まるで思ってないねぇ」
聞かれれば、返すしかない。
隣で青柳が何か言おうと振り向いてきたのが分かったけど、待ってやるほどのことでもなかった。
「確かに青柳は悪いことをした。未成年の喫煙。悪いことだ。でもそれと僕が首を突っ込んだことは関係ない。僕が自分の責任で、自分の至らなさで首を突っ込んだところに、たまたま問題が転がっていた。それだけのこと」
前を見る。
母さんが……母親がいた。
料理を作って、服を洗濯して、布団を干して……それだけを指して『育ててくれた』と表現するのは違うだろう。そういうことをしなかった父さんが主に家計を支えてくれたのもあるし、そもそも目に見える、形で示せるものだけが子育てでもない。
うん。
小さな家、たった三人の家族。感謝はある。勿論。ないわけがない。
だけど。
「問題はある?」
「あります」
「看過できないほどの?」
傲慢なつもりは、ない。
我儘な自覚は、ある。
「あの、すみません。ミキが来ていいって言うんで、来ました。多分こいつ、ちゃんと話さないと思ったんで。説明しないと、いけないと思って。すみません。急に来て」
青柳が殊勝だ。
明日には槍が降る。心の中で冗談を転がす、自分の顔が笑っているのは自覚していた。
「遠慮なく言っちゃうと、青柳の家にはちょっと問題があるらしい。なきゃ今の時代、未成年が煙草なんて持ち歩けない。どこにも行く場所がない時、どこでもいいならうちに来ればいいって言ったんだよ。それはごめん。勝手なことを言った」
「本当に悪いと思ってるの?」
「思ってる。ダメだ、迷惑だと言われたらそれまでだとも」
「……言うと、思ってるの?」
「言われるかどうかじゃない。言われたら、それまでだと」
ため息をついた。
母さんが。
それとほとんど同時、青柳も。
「お前、家でもそんなんなん?」
「まさか。普段はもっと平和な家庭だよ」
「今が平和じゃない自覚があるのかよ……」
あるに決まっている。
今まで育ててもらった、当然のように毎日顔を合わせる、そんな相手にこんな顔をさせているのだ。
でもまぁ、仕方ない。
平和な見かけを守るために黙る必要があるなら、僕はそんなものを守りたいとは思わない。微塵も。
「青柳さん」
「……はい」
唐突な声に、青柳がたじろぐ。
「優至が言ったなら私は気にしません。父親も気にはしないでしょう。狭い家で、居心地も良くないと思いますが、何かあった時は遠慮なく来てください」
「……迷惑じゃ、ないんすか」
「子供が二人だけで夜通し歩き回る方が迷惑です」
青柳の顔が、恐らく無意識にだろうけど、僕の方を見た。
果てしのない、呆れ顔。
目が合えば、我慢できなかったのだろう。
「お前マジかよ」
「理解ある親だと言ったつもりだけど」
「もう少し反省しろ」
「青柳に言われる筋合いはない」
「でも、だからって……、何をどうしたらこうなるんだよ…………」
ため息。
全身の力が抜け落ちました、と意思表示するかのような大きく深いため息だった。
やがて青柳が力を取り戻した時。
母さんが、わざとらしく微笑んだ。
「それで? 今日はこれから……」
「帰ります。お邪魔しました」
「そう。それじゃあ」
「送ってくるよ」
言って、立ち上がる。
立ち上がろうとした青柳が固まり、見上げてきた。
「家も知らないでどうやって迎えに行くの? まさか暗くなってから一人で歩いてくるつもりだったんじゃないよね?」
「なっ……はぁ!? そんな子供じゃ――」
「子供だよ、何度言わせたら分かる。あと今のは子供扱いじゃない。夜道を女子一人で歩かせるわけにいかないでしょ。家にいた方がずっと安全だよ」
「二人でもやめてほしいくらいには危ないんだけどね……」
母さんが呆れ声を零している。
やめてほしいくらいに危ない。そう言いながら止めないのだから、理解ある親でいてくれて助かる。
「ちょっと待ってて。スマホ持って……ちょっと待って、スマホ!」
「洗濯する時に気付きました。充電してあります」
「ありがとう! 恩に着る!」
ということは家族共用の充電器だろう。
理解ある親で助かると心中で繰り返しながらスマホへと走る中、ふと振り返って青柳を盗み見た。テーブルに突っ伏すように座り込んだまま、長い長いため息のようなものを吐き出している。
平凡な家族。
当たり前の親子。
そんなものは多分、存在しない。
ただ生まれてから見続けたせいで、自分ではそう感じるだけなのだろう。
……あるいは。
そんなものがどこかにはあるのだと思い込んでいるだけで。




