12話
青柳の家はアパートだった。
小さなアパート。一見してボロ屋というわけではないけど、端々から築年数が感じられる。最寄り駅も少し遠い。
二階の一番手前の部屋。
所謂二〇一号室なのだろうかと思ったものの、それらしき数字は見当たらなかった。表札もない。
青柳がインターホンを鳴らす。
ここが青柳の家だと思わせるものは何もなかった。
どこかの部屋から、夕方のワイドショーの音が遠く聞こえてくる。
足音。
もう一度、インターホンが鳴った。その直後だ。
「はい!」
ガチャリと勢いよくドアを開けて出てきたのは、若い男。二十代という話と合致する。ただ前半ではなさそう。
「……あれ、叶ちゃ――」
「これで満足か?」
「どうも」
苛立たしげな青柳。
何も分かっていない若い男。
その男の顔を見た。優しそうな男。イケメンかどうかは分からない。少なくとも津久井とは違う。ただなんというか、落ち着いた顔だった。
「はじめまして、三木といいます。叶さんの同級生です」
「え、あ、はぁ。……あっ、えっと、すぐに多佳子を」
「いえ、お構いなく」
タカコ。
青柳の母親の名前だろうか。
「ご挨拶に伺っただけなので。今後ももしかしたら伺うかもしれません」
「あぁ、いや、それはご丁寧にどうも」
何が起きているのか理解できていない顔。
なんなら僕も理解しきれていない状況である。なんの前触れもなく始まった彼にとっては意味が分からないだろう。
この家の娘がインターホンを鳴らしたかと思えば、一緒に男が立っていて、しかも同級生と名乗った。娘は何も言わず、それどころか不意に目が合うのも嫌なのかそっぽを向いたまま。
部屋の奥から、慌ただしい足音。
ちらと目を向け、咄嗟に逸らす。……逸らす方向を間違えた。青柳と目が合ってしまう。
今にも怨嗟の声を吐き出しそうな表情だった。
こればかりは同情する。
「修君? なんだっ……?」
部屋の奥から現れた人物には、見覚えがあった。
若かりし頃はさぞモテたであろう、青柳の母親だ。
しかし今は、さぞ暑かったのであろう。ノースリーブのワンピース姿で、正直、その、かなり際どい。ひどく良くないことに、サイズは青柳よりありそうだった。
「えっ、あれ、もしかして――」
「違います」
脳裏では警鐘が鳴り響き続けている。
青柳の沸点はとっくに超えているはずだ。よくぞ我慢してくれている。だが、我慢できていても沸点は超えているはずだ。過加熱である。何かの衝撃で一気に吹き荒れるだろう。
「同級生の三木です」
「あ、そうだ、中学の時に」
「あぁ、そうです。一度だけ廊下で」
「それで、もしかして」
「いえ違います。ご挨拶に伺っただけで。今後も伺うことがあるかもしれません」
つまりそういうことなのではないか?
まん丸の目は幼ささえも感じさせた。しかし高校一年生、今年で十六歳の娘がいる年齢だ。最低でも三十後半。大体は四十代。
唯一見たのは一年以上前のことだけど、本当に一年かと思わざるを得ない。
それでも、なんというか。
表情には幾分の柔らかさがあった。前に見た時の、危うさや際どさは感じない。いや格好はギリギリアウトレベルの際どさだけど。
僕が熟女好きじゃなくてよかった。そして、熟女好きではないと改めて確信した。
目を向ける。
そうか、このシュウ君とやらは熟女好きなのか。
「ほら、もういいだろ。……どけよ」
青柳が沈黙を破った。
前半は僕に、後半は部屋の中の二人に向けたのだろう。二人とも慣れているのか、急ぎながらも慌てる素振りはなく道を空けた。
まぁ、ここまでか。
これ以上、話すこともないだろうし。
「それでは僕もこれで」
「あぁいや、待って。えっと」
シュウ君とやらが慌てて一歩を踏み出した。見れば裸足だ。狭い玄関とはいえ、荷物の受け取りでもサンダルくらい履くだろう。よほど急いでいたらしい。
「すみません」
言葉を探したけど、見つからなかった。
代わりに目を見やる。
向こうは何か言いかけ、やめた。信用していい人物か否か。間違えたら後で青柳が怖い。然りとて青柳の機嫌を窺って目の前の人物の逆鱗に触れるのも馬鹿げている。
とはいえ、青柳には悪いけど。
すぐ後ろで状況を見守る青柳母の表情を見やれば、信用せざるを得ないのも事実だった。
「いきなり押し掛けておいて、しかも初対面の方にこんなことを言うのはとても気が引けるんですけど」
「え? あぁ、えっと……?」
「まだあなたと口を利く気はありません。申し訳ないです」
自分の耳を疑うかのような表情。
そりゃそうだ。
今まさに言葉を交わしていた人物から、口を利く気はないと言われたのだから。
つまりは、彼に向けた言葉ではない。
代わりに汲み取ってくれた彼女が奥で笑い声を上げた。
「ハッ! ざまあみろだな」
そういうことです、と視線で詫びる。
シュウ君とやらは困惑しつつ、何かを察した顔で応えた。
青柳母にも頭を下げ、踵を返す。
ドアが閉まる音は、随分と後になってから微かに聞こえた。
僕の家から青柳の家まで、片道二十分か三十分。
中学時代に通学路が重ならなかったことから、中学を挟んで反対側か、それに近い別方向だというのは分かっていた。
分かった上で、迎えに来ると言ったのだ。
およそ単なる同級生に向ける言葉ではない。それも分かっていた。
全て勝利の上で、迎えに来ると言ったのだ。
青柳がウザいと言えばそれまでで、言われるかもしれないとも承知の上で。
後悔はない。
反省もしない。
間違っていたとは思わない。
だが。
しかし、だ。
「なんあれ」
帰り道、我知らず呟いた声に愕然とする。
僕はあまり独り言を零す方じゃない。そりゃあ壁の端に足の小指をぶつけたら大声を上げるけど、それくらいだ。
尋常じゃなく強いボスになんとかギリギリ勝てた時も小さくガッツポーズするくらい。協力型のオンラインゲームで利敵行為しかしない味方とマッチングしてもため息一つで片付けられる。
だから、意外だった。
中々どうして、自分に驚かされることもあるらしい。
「なんだ、あれ」
改めて呟いてしまう。
いや、確かに、自分の家に見知らぬ誰かが暮らすというのは相当なストレスだろう。年上の異性となれば尚更だ。更に青柳はまだ高校生の女子。挙げ句、実の母親が年下の男に女の顔をしてみせれば吐き気の一つや二つも催すだろう。
勿論、見えやすい見かけで判断する愚かしさも知っている。
一見して善良な人物。一見して良好な関係。ただ一目で物事を見通し真贋を見極められる人間などいない。短絡的に答えを導こうとするのは馬鹿げている。
馬鹿だ、馬鹿だと青柳には言われ続けたが、実際そうだろう。
僕は馬鹿だ。
一目見ただけ、ほんの数言交わしただけの人物を信用しそうになっている。
違うな。信用したがっているのだ。青柳自身が受け入れたがっていないだけで、あの家は青柳にとって安全な、安心していい場所なのだと。
それはどうして?
きっと僕の手が届かない、目も声も届かないところだから。
できもしないことをできると過信するほどの馬鹿にはなれない。
だからこそ、できないことを、できなくても構わないことだと思いたがっている。
自嘲が漏れた。
僕は一体、なんだというのか。
青柳とはただ二年だけ、同じ教室で過ごしただけ。
ふと顔を上げる。視線を横に向ければ、三年間通った中学が見えた。下校時刻はとっくに過ぎているはずだけど、ちょうど部活が終わる時間帯なのか。慣れ親しんだ制服姿が校門から出てくるところだった。
四ヶ月、五ヶ月前にはまだ通っていた学校。
それでも僕のことを知る生徒はいないだろう。部活には入っていなかったし、委員会なんかの活動も積極的ではなかった。事務的に何度か話した後輩が記憶に留めているとは思えない。
ともあれ、ここまで来たら慣れた道のりだ。
右側通行の原則に反して車道の左側を歩きながら、原則を守って歩く男女の集団を横目に見やる。
後輩ながら、僕よりよほど人生経験が豊富に違いない。
厳しい現実から目を背けるようにスマホを触り、名前が一つ増えた電話帳を開く。
青柳はメッセージアプリを入れてなかった。それで電話番号を交換したのだ。いっそ電話して愚痴でも聞かせてやりたくなったけど、そんな仲でもない。調子に乗って、怒鳴られるならまだマシだ。
無言で電話を切られ、以降繋がらなくなり、どこかで顔を合わせても無視される。そんな未来も想像に難くない。
そんな未来を避けなければいけないと思うのは何故だろう。
スマホをポケットに仕舞い込む。ながらスマホを一々咎めてくる人はそうそういないだろうけど、ここらは道幅が狭い。単純に危険だ。日が長い今だから大丈夫だけど、あと二時間かそこらすれば辺りは闇に包まれる。
街灯や、家々やコンビニから届く光はあっても、やはり夜とは暗いものだ。
不意にポケットが震えた。
何事かと慌て、そういえばスマホをそこに入れるのも一日ぶりかと思い出す。
手に取れば、勿論、青柳ではない。母さんだった。電話だ。何時頃に帰るのかという。
「もう中学を過ぎたとこ。このまま帰るよ」
電話を切る。
その時になってようやく気付いた。
昨日も今日も、それで玄関先に立っていたのか。
「……なんだよ」
随分な挨拶である。
ついぞ雪は降らなかった朝。
いつも通りの電車に座り、いつも通り小説に目を落としていた。
途中の駅に停まった時、隣……といっても何人分かは間を空けて座っていた見知らぬ生徒が席を詰めてきたから、ふと顔を上げたのだ。
そして目が合った。
青柳叶。
電車で並んで座るのも妙な感じだったけど、こうして朝の日常の中で見かけるのも新鮮だ。
「おはよう」
「ん」
「座る?」
隣の人は女子生徒だった。同じ制服。詰めてなお一席半くらいの空間がある。
男子の僕が詰めるよりは女子の青柳が座る方がマシだろうと当然の気遣いで勧めたのだが、青柳は第三の選択肢を選んだ。
僕の前に立って、吊り革を掴む。
「マジで本読んでんだな」
「よく覚えてたね」
「喧嘩売ってんのか」
そんなつもりはなかったけど、空席があるとはいえ混雑はしている朝の電車で口喧嘩するほど非常識でもない。沈黙を選ぶのが賢明だろう。
それはそうと、記憶力を評価したつもりはなかった。
僕が自分を読書家だと言ったのは昨日の生徒指導室でのこと。本題からは逸れた会話の中で、だ。生徒指導室で交わした会話にしても、昨日の他の出来事にしても、もっと印象に残ることで溢れていた。
まさか僕のそんな些細な発言まで覚えていてくれたのかと、そういう意味で言ったのである。
……ん?
「なん?」
「や、ごめん。ちょっと誤解させたみたいだから。よく覚えてたなって言いたくて」
「なんも変わってねえけど?」
それもそうだ。
あれ、じゃあ僕は何に引っ掛かったんだろう。
「つうか、別に本読んでていいから」
「そう? 悪いね」
「思ってもねえくせに」
「今回は少し思ってるよ。目が合わなきゃ座ってたんだろうし」
「別に」
あぁ、そうか。
本を開き、いつもよりずっと遅くページをめくりながら、なんとなく思った。
今朝の青柳は何かおかしい。
体調が悪そうとか、間違ったことをしているとか、そういう意味じゃなくて。ただただ単純に、いつもと少し雰囲気が違った。
本を閉じ、視線を上げる。
「なんだよ……」
「キリが良かったから」
「そうかよ」
会話も終わった。
学校の最寄り駅まではもう少しかかる。
青柳の向こう、座る誰かの更に向こう、見慣れた景色が流れていった。
「……イラストとか、ないんだな」
唐突な声に一瞬、なんのことか分からなかった。
「あぁ。一応ラノベじゃないからね」
「ラノベ?」
「そこからか。まぁ幾分かはお堅い小説ってこと」
「ふーん」
「興味ないな?」
「あると思うか?」
それもそうだ、青柳だし。学校に来ないということは授業にも出ないということで、勉強なんかは苦手そう。
……いや待て。
「よく受かったな」
「本当にな。内申が関係なくて助かった」
関係ないなんてことがあるのか?
まぁ青柳の不祥事を握り潰した以上、何もかもを内申点に反映するわけにはいかなかったのかもしれない。それにしても最低ラインだったはずで、どれほどの点数を叩き出したのか。
「意外そうだな」
「地頭を疑ってるわけじゃないことは言葉にしておくよ」
「あぁ、なんだ。それだけだよ」
それだけ?
「あれで頭は良かったそうだ」
なんのことかと首を傾げるが、青柳も幾らかは僕のことを知ってくれている。
あれで。頭は良かった。そうだ。
思い浮かぶのは一人の人物の顔と、声、そして言葉。
「僕のことを覚えてたね」
「元々客商売やってたんだと」
「へぇ。天職だ」
「……だったのかも、しれないな」
青柳が遠くを見ようとした。
最近は青柳の、今まで知らなかった顔をよく見る。
どうやら僕は地雷を踏んだらしい。流石にどういう地雷だったのかまでは知る由もないけど。考えようとも、思わない。
客商売。記憶力。天職。そういったものを丸めて捨てる。
電車がカーブに差し掛かった。
「そろそろだね」
「何が?」
「駅が」
「あぁ」
細切れみたいな会話だ。それが少し面白くなって笑う。青柳は不思議そう。
そんなに不思議かな、と脳裏で転がす。意外や意外、自分で笑ってしまう答えが出た。
「楽しそうだな」
「楽しい?」
楽、の方が近そうではある。
唐突な言葉。前後を省いた言葉。それで伝わってしまうのは随分と楽だ。伝わると分かっていても、角が立つからと無駄な言葉を付け足すことも多い。
無駄のない、小気味よい会話。
「確かにそうかも」
「そうかよ……っと」
電車が減速。
青柳の目が僕の後ろを見やった。駅名か何かを見ているのだろう。ゆっくり、電車の動きとは反対に動いた。
そして、停車。
急ぐ理由はなかったけど、そもそも青柳は立っていた。必然、座っていた人よりは早く降りる。僕はそれに合わせて少し急いだ。一緒に登校するような仲でもないけど、理由ならある。
階段を上がり、改札を抜け。
盗み見るように横目で見やった先、待合室には誰もいない。朝の駅で、わざわざ時間を潰す人はいないのだろう。
「やっぱり」
不意の声。
驚くことはない、青柳のものだ。
ただ黙っていれば続くと思った声が途切れ、催促するように目を向けることになる。
「ん?」
「やっぱり気にすんだなって」
「あぁ。そりゃあね」
「いつまで気にすんだろうな」
「忘れるまで、だろうね」
チームとかいう名前で呼ばれる集団の逮捕や検挙というニュースは聞かない。篠塚をはじめ、関連した名前も聞かなかった。
逮捕されれば安全と言えるけど、釈放がいつになるのかなんて話をほとんど接点のない僕たちが知るのは難しい。
覚えている限り、ふとした瞬間、ホッとするのだろう。
ホッとして初めて、自分は不安に思っていたのだと気付かされる。そんな日々がしばらくは続く。
「他の奴らは……」
呟かれた声。
相槌を打とうか迷っていたら、すぐに続いた。
「どうしてんだろうな」
「心配だね」
「……優しいな」
「誰が誰かなんて知らないけど。制服じゃない二人がいた。あれは兄妹か何か?」
「多分な。行く当てなんかないだろうに」
僕には到底、手に負えない問題。
今ここで鉢合わせたとて、何かあったらうちに来いなんて言えない。顔を覚えている。手首の包帯も。でも、それだけなのだ。聞いたはずの声さえ、本当に彼らのものだったのかは分からない。
駅を出て、そこにも誰もいなければ、一緒にいる理由もなかった。
それなのに僕と青柳は、学校までの短い道のりを並んで歩く。
周りにも同じ制服を着た生徒たちが溢れていた。色分けされた上履きがなければ、学年を見分けることもできない。ただ今日ばかりは関係ないだろう。
もう金曜日だ。
今日の放課後には前夜祭が開催される。
年に一度の文化祭が始まる日だ。
浮かれた熱気に、酔ってしまいそうだった。ひどく不愉快な、アンバランスな矛盾を突き付けられているかのよう。
別に、そんな大層な話ではないのだ。
今この瞬間も飢餓に苦しむ子供がいるだろう。撃ち込まれたミサイルや無人機で命を落とす人もいるかもしれない。
そんなのこと忘れて、僕たちは日常を生きている。
そうでなければ生きていけない。
いつか駅を歩く度にガラス窓の向こうを盗み見た日々を忘れる日が来る。
そうでなければ、困るから。
まだ朝だというのに、七月の熱気がうるさい。
「……三木?」
青柳の声。
妙な感じだった。
そうだ、そう。ずっと何かがズレている。
青柳が僕を見ていた。不安そう。どうしてそんな顔をするのかと、妙な気持ちに駆られた。
何かが噛み合っていない。
心配そうな青柳の顔を、正面に見据えた。
単純な答えだ。
横に並んで歩いていた青柳の顔が見える? おかしな話だ。でも答えは単純。僕が足を止め、だから前に出た青柳が振り返っている。
そこはもう校門だった。
だけどまだ校門だった。
足を止めるには早い。妙な光景だろう。心配も、あるいはするかもしれない。
「いや、ごめん、考え事してた」
「……気を付けろよ」
「多分、気を抜いてたんだ。……そうだね、気を抜いてた」
青柳との会話は楽で、手間がない。
それに甘えていたのだろう。
でも、いつまでも青柳といるわけじゃない。教室は別々で、来年からは学年もズレる。
たった一週間。
三度か四度、顔を合わせただけ。
それなのに随分と長い時間を過ごしたような気がしていた。
妙な気分にもなるわけだ。
追い抜いていく生徒たちの何人かが、迷惑そうに僕たちを見ていた。当然だ。校門で突っ立っていて邪魔じゃないわけがない。
「悪いね。行こう」
「……」
青柳は答えなかった。
代わりに怪訝な目で僕を見、視線を外す。
歩き出そうとした、直後だった。
「ん? あれ、優至じゃん」
声がした。斜め前。駐輪場の方から近付いてくるのは、見知った顔だ。
その顔を見るのは随分と久しぶりな気がした。
竹上淳。
高校に入ってできた友達……だと思っていたけど、今はどうかな。分からない。それに正直、興味もなかった。
どの道、目立たず騒がず人畜無害な高校生という地位も失われている。
興味がないのは青柳も同じようで、僕と竹上を置いてさっさと校舎に向かおうとした。
向かおうとした、ということは。
「え? なに? 一緒に登校してきたの?」
青柳が足を止める。自分が話題に上がったと気付いて振り返ったけど、顔はあまり見たくなかった。
このノリ、青柳は嫌いだろう。
そして竹上は、青柳を知らないのだ。
「っていうか、えっ? マジ? そういう?」
何がそんなに楽しいんだろう。
心底疑問だったけど、まぁいいか。
「うるさいよ」
一言、呟いた。
それだけで竹上の表情が凍りつく。
「話、聞いてない? 見て分かんない?」
高校生が駅でヤクザに殴られた。そんな噂は一気に広がる。そもそも竹上は同じクラスだ。事情を全く知らないわけがない。
「話? なんの? ていうか今、そんな話じゃ――」
「そんな話だったろ?」
青柳が僕を見ている。
呆れ顔。
察してくれただろうか。どっちでもいいけど。
「一昨日のことだよ。まだ丸二日も経ってないんだ。分かんないの?」
竹上の背は僕より高い。
その肩に手を伸ばし、ぽんと置く。
何事かと遠巻きに見ながら通り過ぎていく生徒たちにも、聞こえるように。
「女子が顔殴られてんだよ! 駅を不良が溜まり場にしてて、同級生が殴られてんだよ! 一緒に来たからそういうことですかって、へらへら笑ってネタにするようなことじゃねえだろ!」
何が起きたのか分からない。そんな顔で、竹上が僕を見ていた。
振り返っていた青柳が、また前を見て歩き出す。興味をなくしたかのように。
それでいい。
未成年の喫煙は法律で禁止されている。
青柳が善良な高校生かといえば、そんなことはないだろう。善良な一般市民かといえば、そうじゃないかもしれない。
だとしても。
あることないこと、面白おかしく噂していい理由になんかならない。
今はまだ、大丈夫だ。
文化祭に浮かれ、駅で何かがあったという話も掻き消されている。危ないから早く帰るようにと言われても、目の前の楽しい瞬間を優先したい。それが高校生だろう。
だけど文化祭が過ぎ去ったら、そこに待っているのは日常だ。
当たり前の日常に、だけど当たり前でなかった青柳は戻ってこなければいけない。
その時に。
噂はきっと思い出される。
だから、ちょうどよかった。
「そんなこと、言われなくても分かるだろ」
被害者は、可哀想な女子生徒。
そういうことにしてしまうのも、案外、悪くないのかもしれない。
学校中が浮かれていた。
一年D組の教室も例外ではない。
浮かれに浮かれた教室は担任が何度か言うまで静かにならなかった。
ホームルームが始まる、その直前に竹上は教室に滑り込んできた。盛り上がっている片隅で起きたことに気付いたクラスメイトが何人いただろう。
それはそうと、今日は展示のために机の大移動が行われる。
教科書類や貴重品の紛失は勿論、何より怪我がないようにとしつこいほどの注意喚起。
ホームルームはそれで終わった。
途端、教室はまた浮かれ始める。今日は特に肉体労働の日だ。何がそんなに楽しいんだろう。
心の中で思いながら、顔には笑顔を貼り付けて。
佐々木だの金田だのに捕まる前に、それとなく竹上の席に足を運んだ。
「さっきは悪かった」
「……え?」
「良くない噂が流れてるから。ダシに使った。ごめん」
何を言われているのか分かっていない顔で、浮かれもせずに椅子に座ったままの竹上が見上げてくる。
その目に、できるだけ優しく笑いかけた。
イメージするのは、津久井恭平。イケメンスマイル。僕は全くこれっぽっちのイケメンではないけれど、あのコミュニケーション能力は見習うべきものがある。
「だけど、やっぱりああいうのはやめてほしいかな」
竹上の目が、逸らされた。
悲しいことである。
高校生活で初めて友達ができたと思ったけど、これでまたぼっちに逆戻りだ。
かといってトイレでなんか弁当は食べたくないし、小説片手に気配を消していくとしよう。




