7話
アラームは聞こえなかった。
それだけ疲れていたのか、緊張の糸は張り詰めた分だけ切れた時の反動が大きいのか。あるいは身体が本能的に回復を優先したのか。
原因を突き止めたところで起きてしまった現実は変わらない。
「優至? 優至! もう八時になるわよ!」
そんな母さんの声に叩き起こされた。
八時? アラームは、と考えながらも身体は動く。腹はまだ痛んだけど、随分と軽い。本能的な恐怖を感じさせるほどではなかった。
となれば最早、考えている余裕はない。
飛び起きた勢いそのままに制服と鞄を掴んで部屋を出る。母さんが驚いた顔。
「朝ご飯は」
「ごめん時間ない」
朝のホームルームは八時三十五分。それに間に合う電車なんて一本しかない。五分置きに電車が来る都会とは違うのだ。
「ちょ、ちょっと待って、優至!」
なんの用だと振り返るまでもない。
駅までの片道所要時間。走れば猶予は生まれるけど七月も折り返し。走ればそれだけ汗をかく。早歩きで計上し、何をどう足掻こうとかかってしまう時間を計算。
急げばご飯を食べる時間はありそう。
振り返らずに叫んだ。
「青柳に会った! それでその仲間に絡まれた! ちゃんとした説明はまた後で!」
昨日は夕飯も食べずに帰ってそのまま寝てしまった。よほど心配をかけただろうと分からないほどの親不孝者でもない。だけど時間は迫る。
いや待て。
シャワーも浴びてない。この夏に。
朝ご飯は諦めるしかない。忘れていたパンツやらシャツやらを取りに部屋へと引き返す。
母さんの、何かを諦めた顔。
まだ何か聞きたい顔と同時に、話す気はないんだろうと察した顔。青柳というより、僕がその名前を出す時がどういう時かを覚えられている。
罪悪感がないとは言わない。
だけど一から十まで白状するには僕の理解が足りていなかった。
ジュウゴ、ケンジ、篠塚。その他の面々も。あれらは結局、何者だったのか。半グレではない。半グレと呼ぶには下っ端すぎる。
その下っ端に拳一発で伸されたのが僕だけど。
自嘲している時間も惜しかった。大急ぎで支度を済ませて家を出る。まだ朝なのに、暑い。汗をかかない限界まで急ぐ。ちょうどホームに電車が入ってきた。普段乗る時間の電車より空いてるけど、制服姿はまだ多い。
適当な席に座り、文庫本を開く代わりに考えを巡らせる。
これで改札に彼らが待ち構えていたらどうしよう。事情を話して車で送ってもらうのが正解だったか。……だが。
そうしなかった理由はなんだと考え、恥ずかしさ半分、申し訳なさ半分だと自覚。申し訳なく思うのは手間を取らせることではなく、心配させることだった。だったら逆効果だ。車の方がまだ時間に余裕があったし、何より道中にも話せる。
どうあれ後の祭りだ。
頭を振って思考を切り替える。学校の最寄り駅がアナウンスされていた。
電車を降りるや、各々のグループを作りながら改札へと向かう制服姿の群れに身を潜ませる。気が気じゃなかった。
でも、杞憂だった。
ジュウゴもケンジも篠塚も、勿論それ以外の面子もそこにはない。
僕の緊張を嘲笑うかのように、何事もなく学校に着いてしまった。
半グレどころか、そこらのチンピラでもあそこまで面子を潰されたら報復くらい来ると思うけど。反対に堅気には手を出さない類いの連中だったのか。まぁ、そんなわけもあるまい。
大方、そこまでの余裕がないのだろう。
母体か、頼りにしていた組織、個人。そこが蒸発ないし逮捕された。昨日の件は目撃者も多かったはずだ。ガサ入れとやらに直接関わるような立場でなくとも、大人しくするしかない。そのくらいの立ち位置。
本当に警戒すべきは、ほとぼりが冷めた頃だろう。
だからといって今日明日、呑気に街歩きしていいともならないけど。
しかし学校にいる間は安全だ。中谷にそれ見たことかと言われそうで憂鬱ではあるものの、子供の特権として迷惑かけつつ守ってもらおう。
そんなわけで僕は呑気だった。
呑気とはつまり、考えるべきことを考えていなかったことを意味する。
三階まで続く階段は空きっ腹に響いた。なんで高校なのに学食がないんだろう。購買はあるらしいけど必要がなかったせいで何を売っているのかも知らない。
納得できる回答をしなかった親不孝者にもちゃんと弁当を用意してくれた母さんには頭が下がる。いっそ早弁なるものをしようか。
呑気に考えながらD組の教室のドアを開けた。
途端、たじろぐ。
異様な空気。一斉に突き刺さる視線。なんだ、何があった。誰を待っていたんだと思ったら、大間違いだった。
「……ミッキー!」
叫び声を上げ、佐々木が駆け寄ってくる。
思い出した。
あぁ、そういえば、そうだった。どうして青柳のことばかり考えていたんだろう。ジュウゴだのケンジだの篠塚だの。その前に彼女たちがいた。
「あぁ、えっと……。おはよう?」
こんな風に女子に距離を詰められたことはなかった。しかもクラスの中心みたいな可愛い女子。だからどう返すのが正解か咄嗟に分からなかったのである。
しかし挨拶を返してきたのは佐々木じゃなかった。
「おはようって。無事だったのか」
「無事?」
安堵と呆れを綯い交ぜにした声の主、津久井に目を向ける。表情もほとんど声と同じだった。幾分か安堵が大きい。
「昨日の帰り。駅で。高校生がヤクザみたいなのに殴られてぶっ倒れたって聞いたから」
「あっ、あの人だよねっ!? あのすごく大きい……」
「いやいや、いやいやいや」
急に情報が押し寄せてきた。
ヤクザみたいな? 大きい人? それは確かに篠塚のことだろう。だからか。クラスメイトがヤクザに殴られたとなれば驚天動地の大事件。そりゃこんな空気にもなる。
「違うよ。あれはヤクザなんかじゃない」
「重要なのそこじゃないだろ……」
圷が呆れ声で呟く。
だけど何より重要なのはそこだ。ここで変な誤解が独り歩きするのが一番まずい。
「本当にヤクザだったら今頃、僕はもっと危険な状態にある。ただのチンピラだったから逃げてくれてそれで済んだ。ていうかヤクザがその辺の高校生ぶん殴るわけがない」
「ぶん殴られたのは変わらないのかよ……」
「倒れてはいない。ただ痛すぎて起き上がれなかっただけで」
「何が違うんだ」
「内臓とか脳に異常はない。多分!」
津久井が安堵さえも消し去った、純度百パーセントの呆れを向けてくる。
それから遠慮のないため息。
「だとしても、せめて返信くらいは寄越せ。電話までしたんだぞ」
電話?
津久井と番号を交換した覚えはない。アプリの方ですらもう随分とやり取りなんて……。
いや違う。そっちじゃない。
慌ててスラックスのポケットを触るが、ない。血の気が引く。
笑って誤魔化そうと視線を前に戻せば、察したらしい津久井が零した。
「おい、まさか」
「昨日のスラックスに入れたままだ」
何故か津久井の視線が一気に冷たくなる。あれ察してくれたんじゃなかったのか。
「心配させるなよ……」
しかし、腹の底から滲み出るような声に今度は、今度こそ僕が思い知る番だった。
佐々木が駆け寄ってきた理由も今なら分かる。そりゃそうか。高校生が殴られて倒れた。その直前まで佐々木と圷は見ている。連絡しても返信がない。きっと電話番号もあちこち回って聞き出したのだろう。なのに出ない。
心配させて当然だ。
「すまん。……や、申し訳ない」
津久井に。そして佐々木と圷にも頭を下げる。
ただ、同時に。
僕からも言わなければいけないことがあった。
「だけど津久井、昨日はタイムラプス撮ってたんじゃないのか」
「え?」
急にどうした、とでも言いたげな表情。
「昨日の放課後……ていうか準備作業の後。三人で撮りに行ったんじゃないのか?」
「それはそう、だけど……」
「あっ、えっとね」
困惑の津久井。
それを察して何事か説明してくれるらしい佐々木。
だが直後に津久井が気付いて、遮るように口を開いた。
「中止したよ。機材とかスマホの性能が足りてなかったんだ。今それが関係あるのか」
「そこは関係ないけど、なんで女子だけで帰した。駅まで送れよ」
「……そこ?」
と呟いたのは圷だ。
津久井はといえば、とっくに自覚していたらしい表情。少し悪いことをした。でも八つ当たりとは思わない。当然の抗議だ。
「悪い。分かってる。設定いじったら撮れないかって粘ってたんだ。でも遅くなるから二人には先に……分かってるよ、言いたいことは」
「頼むから。せめて文化祭終わるまでは。帰り遅くなるうちは」
「あぁ」
時系列は分からない。
ただ自惚れを差し引いても、昨日のうちに情報は共有されていただろう。高校生が殴られたという話を聞いた後に、佐々木と圷がニアミスしていたと知ったなら津久井の受けた衝撃はどれほどのものか。
「ミッキー! あの、悪いのは私で――」
「そうだよ」
今更何を言っているんだ。
佐々木が目を見開いて僕を見てくる。いや自分で悪いって言わなかった? どこにそんな驚く要素が?
「怖い人をじろじろ見ちゃいけないって教わらなかった?」
「……ごめん」
「まぁあれは僕が悪かったんだと思うけど。ああいう時は知らん顔して通り過ぎるの。本当にヤバそうな時は離れてから通報でもいいけど、とにかく怖い人の近くで足を止めない」
「あれなんか私だけ子供扱いされてる?」
「高校生なんてみんな子供だよ」
「確かに?」
そして圷は。……圷には特に言うことがない。
昨日も佐々木を引っ張って逃げようとしてくれたし。その後は足が竦んだのか立ち止まっていたけど、殴られた高校生の正体を津久井が知らなかったところを見るに、僕が殴られる頃には佐々木を連れていってくれたのだろう。
だから一瞥したきり、何も言わなかった。
向こうは何か言おうとしたけど、言えずに終わる。
僕の真後ろから声がしたのだ。
「おーい、通れないぞー。入口で立ち止まるなー」
担任だった。
完璧なタイミングでチャイムが鳴る。高校は中学や小学校より長く在籍すると聞くし、この辺りの時間感覚は刷り込まれているのだろう。
「あっ、先生」
何か言おうとした佐々木を、担任が手を振って遮る。
「もう分かった。話は入ってきてる。……三木」
「はい」
「正式には後でになるけど、放課後は時間空けとくように」
「はい」
生徒指導室確定だな。
中谷の顔が脳裏に浮かぶ。嫌だ。どうしてこうなった。
……まぁ。
こんな風に教室で騒げているのだから、昨日の僕が殴られた意味もあったというものだ。
気付けば木曜日。
文化祭は明後日だ。
なんなら明日の放課後には前夜祭が始まる。自由参加だから興味がなければ先に帰れるけど、そういう話じゃない。つまり今日はクリスマスイブの前日みたいな、もう熱狂寸前の空気がある。
空中分解同然だった一年D組もここまで来たら一致団結。
足を引っ張って台無しにするくらいなら、不承不承でも手伝って最低限は形にしようという気にもなってくる。
お陰で本来の時間割でいう一時間目は平和に終わり、二時間目の辺りに入りつつあった。
入りつつ、あったのに。
「そういやミッキーってナカチューだっけ?」
ミッキーじゃないが?
佐々木以外で唯一僕をそう呼ぶのは金田だ。どうやら佐々木に気があるようで、健気に乗ってやっているのだろう。彼がクラス展示の準備を放棄してまで従事したお陰か、サッカー部はほとんど準備が終わったらしい。
それで何故か僕と二人、中心グループの雑用係みたいになっている。
何故かも何も、僕は昨日から雑用係だけど。ちなみに竹上はどこかに姿を消した。僕がこっちにいるせいで居心地が悪いのかもしれない。
「かく……カクノダテって知り合い?」
ミッキーじゃないが、とか考えていたせいで返事をしそびれていたが、そんなことお構いなしに金田は続ける。
「知り合いも何も、昨日たらい回しにされたうちの一人だよ」
「たらい? 大変だったな」
お前の次が角館だったんだが?
お前が文実でもない角館にプリント渡したせいで面倒なことになったんだが?
まぁいい。
過ぎた話は水に流そう。こちらが流すより先に当人が忘れていたとしても、だ。
「へいミッキー、次はこれ塗って!」
「んなサポートAIみたいに」
「AI? ミッキーAI使ってんの?」
「いや、なんでもない」
横から差し込まれた、今はまだ白と黒しかないポスターに色を塗っていく。先週までは塗るべきところに先に指示代わりの色が置かれていたけど、もうそんな余裕もなくなったのか。あるいは僕を信用いただいたのか。
兎にも角にも金田の雑談に耳を傾けながらポスターに色を塗っていく。
って、違う。
これポスターじゃない。
「ごめん、これなに~?」
誰にともなく投げたら、津久井が顔を上げた。
「え? あぁ、絵の横に掛けるんだよ。次はこういうテーマですって」
「なるほど。じゃあ色は減らした方がいいか」
「あ、そうだな。そうして」
了解、とだけ頷いて一旦ポスターもとい題字の張り紙を遠目に見る。既に黄色を塗りかけてしまった。よく見てから作業に取り掛かるべきだったのだが、一年D組はてんやわんやだ。流れ作業だと確認が疎かになる。
あと佐々木、違うものを持ってくるなら違うものだとちゃんと言え。
「ミッキーって意外と頭良い感じ?」
「意外って失礼だな」
「え、やーすまん」
金田が悪びれもせず笑っている。いいよ。そういうやつの方が話していて楽だ。
「まぁでも、意外とミッキーいてよかったんかもな」
出し抜けに呟く金田。
「あ、意外って良い意味な? 良い意味」
「いいよ。一々気にしないから」
「おー優し」
「で? 何が? 別に僕がやってる作業なんてほんの一部でしょ」
「そうなんだけど」
というか、これはなんの話なんだろう。
金田が斜め上を見ながら笑っていた。斜め上? 目で追っても何もない。違うな。何かを思い出そうとしたのか。
「さっきちょっと行ってきたんだけど、A組は大変なんだと」
「まぁ堤もあちこち駆け回ってる感じだろうしね」
「ツツミ? 誰?」
「A組の文実。知り合いじゃないの?」
「名前なんか覚えてね」
適当だな、そういうところ。
「あぁけど実際、大変だと思う」
「なんでまた。事件でも?」
まさか高校生が駅でぶん殴られてぶっ倒れるような事件が二度も起きてはいまい。
「なんかほとんど学校来てない奴が急に来たんだと」
「……え?」
「俺もちょろっとしか見てねえけど。今まで来てなかったくせにいきなり来てどきもしねえとかで」
ちょっと待て。
何を言っている。なんの話だ。
不躾と承知で、じろじろと金田の顔を見てしまう。金田はどう思ったのか。何も思わなかったに違いない。
「けどその女子も顔に怪我してるとかで、周りも強くは――」
「名前は!」
我知らず叫んでいた。
教室が途端、静まり返る。
「あ、悪い。けど名前。その女子の」
「なんだよ、急に……」
「そいつ、だって――」
「青柳だよ」
後ろから声。
誰かと思えば、高校に入ってからはろくに話したこともなかった女子だ。岩崎。高校に入ってからは、ということは中学からの知り合い。同じナカチュー出身。
「なんか知らないけど、青柳が珍しく登校してるって。朝そんな話を――」
「すまん岩崎」
「はっ?」
「代わりにこれ塗っといて」
返事は待たなかった。待てなかった。
青柳が学校に来ている? いや、それはなんというか、迷惑この上ないだろうが素晴らしい話じゃないか。不登校を決め込んでいた不良が遂に登校とは。
けど、顔に怪我?
昨日の今日で?
だって昨日、ジュウゴたちと一緒に……。
「三木?」
教室を飛び出る寸前、背後からの声。足を止めるつもりはなかったけど、反射的に顔だけ振り返る。
「あぁいや、気にすんな。後の作業のこと」
どこまでイケメンなんだよ、津久井。昨日の件をチャラにする気はないけど。
すまん、と言ったか言わなかったか、自分でもよく分からない。
長くなんてないはずの廊下が、この時だけはやけに長かった。
A組の教室のドアは閉まっていた。
でも話し声は聞こえる。ホームルームの感じではなさそう。感じ取ったからにはノックなんてしていられなかった。
いきなり、無遠慮に、ガラガラッとドアを開け放つ。
いた。
探すまでもなく見つかるくらいには、その不機嫌そうな背中が高校の教室では浮いていた。
「えっ、なに?」
誰かが呟く。誰でもよかった。どうでもよかった。
「青柳!」
自分で思っていたよりずっと声が出てしまった。
聞こえなかったはずがない。だが青柳は振り返らなかった。鬱陶しそうに頬杖を突く手を入れ替えただけ。
「おい青柳、お前どうして……」
どうして?
一体、何を言うつもりなのか。何を言いにA組の教室にまで来たのか。
頬杖を突く背中を見て、分からなくなってしまった。
教室で見るとよく分かる。中学の時とは少し違う色の髪。アッシュブラウンの混じったそれが不意に揺れた。
振り返ったのだと、言葉を失っていた頭がなんとか理解する。
目が合った。
「お前? 誰に口利いてんだよ」
はは、と笑いが零れた。僕の口から。
強がるではない、不機嫌そうな声。口の端が切れたのか、赤く滲んだような傷が見える。でもそれだけだった。
「どうして学校来てんだよ、お前」
「だから誰に口利いてんだって言ってんだよ」
会話になってない。
それがなんだか、心にすとんと落ちていく。止まれなかった足が、僕を彼女の机の横まで運ぶ。その天板に手を突いた。膝が笑いそうだった。夜と朝とご飯を抜いたせいで貧血にでもなったのか。
崩れ落ちるように、そのまま机に体重を預けた。半分座ったような、変な姿勢。
「分かるだろ。青柳が顔に怪我して学校来てるって聞いて、何を思ったか」
バツの悪そうな顔。
あぁ、本当に……。涙が出そう。青柳のこと、友達だとすら思ったことはなかったのに。
「悪かったよ」
「本当によかった」
「キモいんだよ」
「もうあんな連中と付き合うのはやめろよ……」
「誰に口利いてんだって」
青柳が視線を逸らす。鼻を鳴らす。
「今更、頭下げたって向こうが許さねえよ」
「よかったよ」
「よくねえよ。まだ痛え」
「はは。痛いで済んでよかった。篠塚?」
「あぁ」
「じゃあ手加減されたね。僕もだよ、多分」
「手加減?」
「多分ね。痛いで済んでる」
あんな丸太のような腕に殴られて、痛いで済んだのだから上々だ。
青柳も自分の口元に手を伸ばしている。女の顔を殴ったのか、あのチンピラ崩れは。それで手加減? よく分からない。
「何がしたかったんだろうな」
同じ思いで青柳が呟く。
「さて。大人同士ならともかく、高校生だと親が病院連れ込むからじゃない?」
「そんな殊勝な親じゃねえよ」
だろうね。
口には出さず、小さく笑った。
「結構、怒らせたつもりだったんだけど」
「わざと?」
またも鼻を鳴らす。じろりと横目で僕を睨みながら。
「お前がやったことだろ。つうか、あの女はどうしたよ。知り合いだったんじゃねえの?」
「女? あぁ、うん、無事だったよ」
「そうじゃなくて」
「それ以外に何が?」
「わざわざ庇ってやったんじゃないのか?」
「あんなダサいのを庇ったとか言われてもねぇ。僕は僕の尻を拭いただけだよ」
「キモ」
「おい」
一頻り笑って、顔を上げる。
腕の力で身体を押し上げ、なんとか足にも力を入れた。立てる。足はもう震えていない。
見下ろす格好になった青柳が、どこか居心地悪そうに視線を逸らした。
「それじゃあ行くよ」
「一々言うことじゃねえだろ」
「や、君もだよ」
「あ?」
振り返り、見上げてくる目。なんのことか分かっていないような眼差し。
いや、お前がお前って呼ぶなって言ったんじゃないのか。
「なんで」
そっちじゃなかった。
「なんでって、見て分からない?」
「何がだよ。お前と行くとことかどこもないだろ」
「いや僕とじゃなくてもいいけど、とにかく行くよ」
「だからなんで」
「邪魔だから」
「ア?」
おい怖すぎるだろ。
間近に受けた恫喝の眼差しをなんとか意識を遠のかせて受け止める。
けど周りを見れば、一目瞭然。
一年A組の皆さんは嵐に巻き込まれたような顔で、いつ去るんだと遠巻きに眺めている。それでいて目が合ったら逸らされた。青柳と同じ班だという女子生徒も。
「あのさ、青柳。学校来るの何日ぶり?」
「知らねえよ」
「青柳と同じ班になった子、迷惑してたよ」
「関係ねえだろ」
「いや言えって言われたんだよ。言いそびれてたけど」
「そっちじゃなくて。なんで私が学校来ねえせいで迷惑なんか」
「そりゃ同じ班だから。班ごとの作業、君の班だけ一人少ないから迷惑なんだよ」
「……んなの」
「中学の時は先生も分かってたから最初から数になんか入れてなかったけど、高校はまだ一年の一学期だから。当然登校するもんだと思って数えてるから。来なかったら迷惑するでしょ」
珍しく、青柳が黙り込んだ。
目を逸らす。
逸らしたはずの視線がすぐに戻ってきた。都合の悪いものを見つけたらしい。
「で、今。君のせいで教室の動線が面倒なことになってる」
「知るかよ」
「青柳はさ、怖いんだから。周りが遠慮すんだよ。自覚しようよ」
「知らねえよ……」
「ほら、行くよ」
「だから! ……なんで、お前と」
そんなに嫌か。そんなにも嫌か。
まぁいいけど。
喜んでもらえるなんて微塵も思っちゃいない。
だけど。
昨日もそうだ。佐々木のあれもそうだ。喜んでほしいとか、見返りが欲しいとか、そういうんじゃない。
ただ僕は僕のために。
自己満足で、お節介ですらない我儘を押し通しているだけなのだろう。
「居心地、悪いだろ。教室は」
教室なんて空間に大人しく座っていることができないから青柳は青柳なのだ。
なのに、来た。
どうして?
考えたら分かる話だ。彼らは制服を着ていた。でも制服着用が決まり事だったわけじゃない。
考えたら、分かる。多分だけど。
制服を着るのは行き先のためじゃない。家を出る時、制服を着ていなければいけなかったから。
学校に行くフリをして家を出て、でも学校には行けなくて。
そうやって集まったのが彼らだろう。青柳も、そうだったんじゃないのか。
なのに、学校に来た。
彼女にとって駅は、仲間だった人たちは、身を預けていい安全なものではなくなったから。
「居場所とか、そういうのは分からない。僕は人の目とかどうでもいいし」
青柳は何も言わなかった。
頷くことも、答えることも、遮ることもなかった。
「だから、まぁ。サボりくらいは付き合うよ。邪魔だって言われるなら、サボりスポット探しとく」
「……んだよ、サボりスポットって」
「使われてない空き教室とか?」
笑い飛ばすような声に、笑って返す。
そんなものがあるのか知らない。少なくとも屋上は出入り禁止。ただ中庭ならある。今の時期は厳しいだろうけど。
「ほら、行くよ」
「子供じゃねえんだけど」
その話、なんかどこかでしたな。
「高校生なんてみんな子供だよ。子供じゃないって言うなら尚更」
じろり、と音がしそうなほどに睨まれた。
しかし直後に、ため息一つ。
青柳が重い腰を上げた。
「で? どこでサボれんの?」
「知らない。まぁ今はどこも慌ただしいし、どこでもサボれるでしょ」
「見つけてないのかよ」
「それともD組来る? 僕のクラス」
「なんで」
「人手が足りないんだよ」
「行かねえ」
そのまま歩き出すのかと思った青柳の足が、しかしその場で翻って僕の脛を蹴ってくる。
「痛いなおい」
「行くぞ」
「立場逆転してんじゃん」
「来ねえのかよ」
「行きますよ。行けばいいんでしょ」
「別に来なくていいけど」
「はぁ……」
「ため息つきたいのはこっちなんだよ」
だからって人の足を蹴るなよ。
教室を出る。
振り返らない。
誰が、どんな目で、僕たちを見ているのか。
興味もなかった。




