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煙吐く少女  作者: 飯島鈴
6/16

6話

 妙な空気に気が付いたのは、駅舎の階段を上っている時だった。

 そそくさと逃げるような足取りで下りていく人たちとすれ違い、事故でもあったかと考えを巡らせたのだ。

 しかし、事故だとすれば電車は止まっているはず。運行中と思って出入りする人は当然いるだろうけど、こんなに人の流れはないだろう。それか逆に人でごった返しているか。

 事件……も考えにくい。警察車両も、切迫感もない。

 喧嘩騒ぎでもあったのか。

 それが一番、妥当なところだろう。

 だから階段を上りきり、改札の方へと向かう道中、見知った顔を見つけても驚きはなかった。

「……あ? ミキじゃねえか」

「どもっす」

 ジュウゴさんだった。

 確か生徒指導室に呼び出されたのが金曜日だったから、前に会ったのは木曜日だ。一週間近く前にちょっと話しただけの相手をよく覚えている。

 考える僕の前でジュウゴさんが小さく首を振った。

「いや、いいや」

 いや?

 いいや?

 なんの話か分からないけど、いいならいいか。横を通り過ぎようと会釈しかけ、目に浮かぶ焦燥を見た。思わず足が止まりかける。

「ちょっと来い」

「え?」

 足は、今度は止まった。

 だというのにジュウゴさんが歩き出してしまう。仕方なく後を追うしかなかった。

 よかったんじゃないのか? こいつでいいや、の意味だったのだろうか。誰でもこなせる役回り……受け子だの掛け子だのは御免だ。

 ただ余裕のないところを見るに、変に角を立てる方がまずい。本当に犯罪に加担させられそうになったら即通報すれば済む話だ。幸い、ここは駅の中。人通りもある。

 外に出てミニバンにでも案内されたら苦渋の決断を迫られるところだったが、向かう先は待合室だった。

 ただ、先週とは様子が違う。

 前も和やかな空気ではなかったけど、今はどこか殺気立っていた。ピリピリどころじゃない。人数も多くて、十人を超える。彼らが占拠しているというよりは押し込められている風にも見えた。

 やはりいた青柳がベンチに座ったまま僕を見上げ、なんで来たとでも言いたげに口元を彷徨わせる。

 口にできなかったのは何故か。異様な雰囲気に起因するのだろう。

「お前、なんだ、あー……」

「ミキだ」

 代わりに僕を見て疑問符を浮かべた背の高い人に対し、代わりにジュウゴさんが紹介してくれる。向こうも思い出したような顔。取り敢えず会釈。

「何を考えてる」

「いいだろ」

「そりゃ……悪いとは言わねえけど」

 なんの話だ?

 背の高い人が改めて僕を見据えた。嘲笑や侮蔑とは違う。真っ直ぐの眼差し。

「お前やっぱ馬鹿なのか?」

「いきなりですね」

「どうして来たんだ」

 青柳と同じことを言う。いや、言ってはいないか、青柳は。

 思わず目を向けてしまったから、誤魔化すために隣に失礼した。今日は避けない。避けるだけのスペースがなかったけだが。ただ少し詰めてもらう結果にはなった。左腕に体温を感じる。

「分かんないすけど、なんか呼ばれたんで」

 ベンチに落ち着いてから答えを返す。背の高い人は怪訝そう。

「呼ばれたら来んのかよ」

「面と向かって来いって言われて無視はしないですね。学校からはしろって言われてますけど」

「は? ……無視を?」

「そりゃあ、まぁ」

 自覚くらいあるでしょう、と視線を返してしまった。

 少し、余裕がない。

 当てられている。あちこち駆け回って誰彼構わず話しかけたせいもあるだろう。距離感が狂いかけていた。良くない兆候。気を引き締め直す。

「じゃあなんでしねえんだよ」

「え?」

「無視。しろって言われてんだろ?」

 今日は随分と話しかけてくる。向こうも余裕がないのか。

「しろって言われてするもんでもないでしょう。……ここに被害者でも転がってたら別ですけどね。そうだったらダッシュで逃げて通報してます。でも、いないんで」

「そうかよ」

 背の高い人が笑った。

 意外だった。少しは顔を顰められると思ったが。

「健治だ」

「……?」

 唐突すぎてなんのことか分からずにいたら、舌打ち。

「名前だ。俺の」

「え、あっ、あぁ。どもっす。三木です」

「知ってるよ」

「こいつが馬鹿なのも覚えとけよ」

 隣で青柳がため息をつく。深い深いため息だった。

 何かがおかしい。

 歯車が食い違っている。いや、僕が知らない何かが。先週はなかった何かが食い込んでいる。

 でも、なんだ?

 口に出したらいけないことくらいは馬鹿でも分かる。つまり僕にも分かる。

「ちょっと出てくる」

「おう」

 ジュウゴさんがまた出ていった。

 顔を上げたついでに待合室を見回す。先週に見た顔も当然あった。制服姿じゃない、同い年かもしれない男女も。前に見なかった制服姿もある。どこの学校だろう。あまり見覚えがない。

 記憶力には、自信があった。

 人の名前や顔や声、そういうのは覚えられる。

 驕るつもりはないけど、覚えていないということは、普段あまり見ない制服ということだ。当たり前のように思えて、意味を持つ。通学のための電車で会わないとなれば単純に方向が違うか、距離が違いすぎて同じ時間の電車には乗らないか。

 遠方からわざわざ来ている?

 いや、だけど、僕がこうして座っているのは前回に続いて二回目。前回がたまたま少なく、面子も偏っていただけの可能性はある。

 ……その考えはいとも容易く打ち砕かれた。

 隣で青柳が動いて、左腕に当たってくる。嫌がらせではない。ただ青柳は右利き。ポケットに何か入れるのも右側になるだろうし、そうなれば取り出す時にすぐ右隣に座る僕の左腕に当たってしまう。

 だから特に反応はしないつもりだったけど、ポケットから出てきた手が握るものを見て淡い決意が水の泡になった。

 煙草だ。

 ここで吸う気か?

 じろりと横顔を見てしまい、その動きで青柳も気付く。すぐそこに不機嫌そうな顔。鼻が鳴らされる。煙草がまた仕舞われた。無意識だったらしい。

 無意識で、煙草に手を伸ばす?

 いよいよ緊急事態である。

 何かはあった。

 何があったかだ。

 時間の流れが歪んで感じる。発着のアナウンスから実際に電車の音が聞こえてくるまで何十分とかかったかのように錯覚することもあれば、ほんの五分の間に無数の人々が行き交って電車が出入りしたような気にもさせられた。

 現在時刻などスマホを出して時計を確かめれば一発だが、それは多分、できない。

 十人以上いる待合室で、スマホを手にしている者が誰一人としていなかった。そこでようやく脳裏に警鐘。

 僕がスマホを躊躇ったのは、どこかに連絡している……それこそ警察に通報していると勘繰られたらまずいと思ったから。

 しかし、彼らは身内だ。

 身内がスマホをいじるだけで良からぬ連絡と勘繰る?

 実際に疑う人がいなかったとしても、疑われるかもしれないと思っている人はいるだろう。でなければ今のご時世、誰もスマホを触らないなんて考えにくい。危機感が共有されているのだ。

 そう、身内同士だというのに。

 なんで来た、と言いたげだった青柳の驚きが今なら分かる。来るべきではなかった。逃げるべきだった。

 よし、それなら逃げよう。

 腰を上げた。

 ケンジさんが驚いて見上げる。何事かと言いかける彼に、ちょっとトイレに、と準備していた言葉を投げようとした時。

「誰だこいつ」

 遅かった。

 明らかに未成年――中高生のものではない声が横から聞こえた。

 ぎちぎちと、我ながら不自然すぎる動きで見やってしまう。やはり未成年ではない。生徒指導の中谷より背が高く、厳しい顔立ち。表情も険しい。腕がやけに太い。青柳の胴回り……は言い過ぎだろうが、そのくらいに錯覚するほどだ。

「ミキっす。面白い奴ですよ」

 その後ろからジュウゴさんの声。

 そういえば、いつの間に待合室のドアは開けられていたんだろう。そんなことにも気付かなかった。もしかしたら僕が立ったのとほとんど同時だったのかもしれない。

「三木です」

 どもっす、などと気安い挨拶をしていい相手でないことは明々白々。

 頭を下げると、意外にも「おう」と声が返された。降ってきた、と感じる角度だったが。

「ミキ、この人は篠塚さん」

「うす」

 他になんと答えていいのかも分からず、もう一度頭を下げた。

 それから思案。

 入れ違いでトイレという名の逃走経路に走るべきだったのだろうが、できなかった。理由は言うまでもない。怖かった。怖すぎた。不用意なことは言えなかった。

「あ、すみません。どうぞ」

「あ? おう」

 ちょうど立っていたのを幸いと、席を譲る。

 青柳には悪い気がしたが、そうする他なかった。ただ青柳も伊達じゃない。

「ジュウゴも。いい加減座ったら?」

「え……? あ、あぁ、悪いな」

 篠塚さんが座るより早く腰を上げ、一緒に来たもう一人に自分の席を譲る。僕は半身で改札の方が見える形、青柳はドア一枚分の間を空けて向こうに立った。

 一方、そそくさと座ったジュウゴさんの横に、どしっと篠塚さんが腰を落とす。

 直後だった。

「TEAMにガサが入った」

 チーム?

 ガサ?

 いや、いやいやいや、ヤバいだろう、それは。なんのチームか知らないけど、ただ二文字『ガサ』とだけ語られるそれが他の単語の意味など瑣末事に追いやってしまう。

「ガサ。……ガサっすか」

 ジュウゴさんが繰り返している。

 ガサの意味は、分かっているご様子。分かった上でその反応か。おいおい。

「リュウと連絡が付かねえ」

 竜?

 劉?

 カッコつけたあだ名っぽくも聞こえるし、中国とかそっち系の名前にも聞こえる。あとはリュウヤとかキリュウとか、日本人のよくある名前でも短縮して呼べばそうなるか。

 要するに、何一つ絞り込めない。

「パクられたんすか」

「さてな。飛んだのかもしんねえ」

「飛んだんなら、まだマシっすね」

 ジュウゴさんの聞いて、ケンジさんが受け取っている。

 パクるだの飛ぶだの怖い用語が次から次へと。今度は何が出てくる? マル暴とか出てこないよな。

「なに笑ってやがる」

 篠塚さんが僕を見ていた。いつの間に。

「いえ」

「言え」

 同じ音なのに意味も意図もまるで違いすぎた。

 青柳が何か言いかけたのが視界の端に見え、慌てて口を開く。

「今日来たとこなんで。ヤバいとこに来ちゃったなと」

 絶句したお陰で青柳は何も言わなかった。

「ふざけてる場合じゃねえんだ」

「うす」

「すみません。こういう奴なんです。馬鹿なんすけど、悪い奴じゃないっす」

「馬鹿は悪くねえってか。自分に甘えな」

「すみません」

 篠塚さんにすればジュウゴさんも馬鹿の一人か。

 まぁ、いい。どうだっていい。どうやって逃げるかだ。あまり話を聞きすぎるのもよくない。

「まぁいい」

 奇しくも同じ言葉を篠塚さんが吐いた。

 続く思いも、あるいは同じだったかもしれない。どうやって逃げるか。それを考えてくれていたら僕としても抜け道がありそうで助かる。

 問題は、彼らの逃げ道が合法であるはずがないという点か。

 加担させられたらアウトだ。今もう既にグレーゾーンもグレーゾーンに立たされているのだが。本当になんで来たんだ、僕。というかジュウゴよ、何が『いや、いいや』だったんだ。何一つよくないぞ畜生。

「リュウが飛んだのは、いい。まだ、どうにかなる。けどTEAMの方はどうにもなんねえ」

 またチームだ。

 チーム。

 ガサ入れ。確か家宅捜索だったか? それが入ったということは何かしらの団体、組織だったのだろう。チームとは、そも集団のことだ。何かしらの集団を指す隠語、あるいは仲間内で使っていた俗称。

 半グレ、という言葉が脳裏をよぎった。

 本当に繋がっていたのか。たかだか不良グループごときが。

 違うな、反対だ。

 たかだが不良グループごときを、半グレは使おうとしていた。そのための連絡員がリュウ? 篠塚さんはまとめ役か、もう一つ間に挟まった連絡員か。どうだっていい。問題はそこじゃない。

「ガサってマジなんすか」

「マジだ。もう入った後だ。TEAMの連中、ろくに始末もしねえで逃げやがった」

 だからリュウは飛んだ。リュウだけじゃない。他のメンバーも飛んだのだろう。

 言い方からして、篠塚さんはチームのメンバーではない。連絡員という感じでもないな。やはり不良グループの方のまとめ役。

 ただ、それにしては待合室の空気がおかしい。

 大変なことになった、この先どうなる。そういう空気感は確かにあるのだが、裏を返すと、その程度でしかない。篠塚さんの苛立ちが共有されていない。

 仲間ではない、のか?

 だとしたら、逃げ道はある。

「けど、どうにか――」

「なんねえもんはなんねえだろうが!」

 ジュウゴだけが焦燥を共有している。

 いや、ケンジもだ。ジュウゴほど目に見えてはいないが、どこか忸怩たるものを抱いていそう。わざわざ僕なんかに名乗ってみせたのも、らしくないセンチメンタル。

 ジャーニーだっけ?

 そう笑ったのが遠い昔のよう。

 不意に篠塚さんが顔を上げた。僕を見る。いや、睨む。なに笑ってんだと言いたげ。

 腰を浮かせた。

 失敗したな。気を付けていたんだが、気を抜いていた。矛盾である。

「あ?」

 僕に迫っていた顔が、ふと脇に逸れた。

 安堵。

 思わず視線の先を追ってしまう。

 そして、あぁ、と喉の奥で何かが鳴った。

 佐々木だった。

 目が合う。

 あっ、と声を上げたのが口の形で分かった。隣には圷。おい津久井はどこだよ。一緒にタイムラプス撮りに行ってたんじゃないのか。

 圷が佐々木の手を引こうとするが、佐々木がまだ何か言っていた。馬鹿だろ。演技ならやめろよ。天然だったら、もっとやめてくれ。

 篠塚さんはもう僕なんて見ていない。

 青柳が何かを察した顔をしているけど、何もできない。

「なに見てやがんだテメェ――ッ!」

 ずっと堪えていた爆弾。

 その導火線に火が付いた。ピンを抜いた手榴弾が飛ぶがごとく、篠塚さんがほとんど蹴破る勢いで待合室を出る。ジュウゴが慌てて立ち上がったが、立ち尽くす。

 見やった先、佐々木も立ち尽くしていた。いい加減にしろよ。津久井はどこだ。圷まで足を止めている。引きずってでも連れていけよ。くそ。下川とか金田はどこで油を売っている。

 くそ、くそ、くそ。

 なんだってこんなことになった。

 僕が悪いのか。

 僕が悪いのだ。

 無視しておけばよかった。……本当に、そう思っているのか?

 馬鹿らしい。

 ジュウゴに話しかけられた時、その選択肢は一パーセントもなかった。ありもしない可能性を夢見て後悔できるほど、僕は自惚れていない。

 佐々木が僕を見ている。

 逃げろと言いたかったけど、言えなかった。

 あれは他人だ。

 ただの他人。

 そうなんだよ、おい。

「篠塚さんッ!」

 待合室を飛び出し、叫んでいた。

 腹が震える。それが喉にまで伝わって、叫び声はなんとも情けなかった。

 あぁ、そうだ、情けねえ。

「あ――?」

「それは、そういうのは、違うんじゃねえすか!」

「あ? おい、お前」

「情けねえっすよ、そういうの! チームだかなんだか知らないすけど。なんかあって、苛立って」

「おいテメェ何言ってんだ」

「そんでその辺の女に八つ当たりとか、情けねえっすよ! ダサくねえすか!」

「誰にモノ言ってんだテメェ!」

 丸太のような腕が胸ぐらを掴む。

 踵が浮いた。息が苦しい。周りの音が消える。

 血管の浮かぶ額がすぐそこに見えた。怒号が鼓膜を叩き付ける。唾が顔に飛んだ。汚えじゃねえか、おい。

「テメェ何様のつもりだよ!」

「余所者っすよ! 誰が誰かもよく分かってねえ部外者ですよ! だからッ」

 間近に迫る顔に唾を飛ばしながら叫んだ。不可抗力だ。喧嘩慣れしてるなら分かってくれよ。僕は喧嘩とか慣れてないけど。わざと唾を飛ばしたわけじゃない。ただ叫んだだけだ。

 唾を嫌ったのかどうか知らないけど、篠塚が僕を突き飛ばす。

 三歩、四歩とたたらを踏む。

 その距離を篠塚が一歩で詰めた。

「身内が言わねえなら部外者が言うしかないんですよ! そういう情けないことしててどうすんですか!」

 もう見向きもしない。

 あそこに立っていた女がどんな顔をしていたか、何人で自分を見ていたか。覚えてもいないだろう。馬鹿はお前だろ、篠塚。

 馬鹿が拳を握る。

 馬鹿は馬鹿でも、あぁ、あれは馬鹿力だ。

 しょうもないことを言って笑おうとした。引きつった笑いしか出てこなかった。

 丸太が腹に突き刺さる。

 一瞬、意識が飛んだ。息ができない。喉が空気を貪ろうとする。激痛。視界が白く飛ぶ。目がチカチカした。前にLEDの光が見える。なんで?

 ……なんで意識、あるんだろうな。

 手を抜いたのか。

 篠塚。

 そこまで馬鹿じゃなかったか。

 お陰で、痛い。痛い痛い痛い――。喚き散らす自分の声を聞いた気がした。誰かが叫んでいる。救急車。一一〇番。それ警察。ジュウゴの叫び声。慌ただしく逃げていく足音。

 その一番後ろに、青柳を見た。

 何か言いたげな目。

 痛い。

 視界が飛んだ。大量の四角。なんだこれ。タイル? 床の模様。

 右か左か、前か後ろかも分からないどこかを見た。青柳はいなかった。佐々木も圷もいなかった。

「ははは」

 久しぶりに息ができた気がした。

 誰かが肩を支え、抱き起こそうとしてくれる。誰だろう。知らない顔だった。その肩を借りる。

 腹に穴が空いている気がした。痛すぎる。これで手加減された? じゃあ本気ならどうなってんだ。最悪、死んでんじゃないか?

 考えが甘かった。

 流石に、死んでまで守る気は……いや、どうだろう。

 ゲームの奥義スキルみたいに。

 僕が死ぬことをトリガーに誰か一人を救えるとしたら、僕は多分、悩むと思う。迷うと思う。そこまでの義理はないとか、言う前に。

 足がようやく地面を踏んだ。

 しばらく前から踏んで、自分の足で立っていた気がするけど、ようやく立ったという自覚が追い付いてきた。

「……大丈夫ですか」

 誰かが言った。

 あれで大丈夫に見えるなら病院に行った方がいい。

「大丈夫です。自分で歩けます」

「今、救急車を――」

「大丈夫です。変な正義感で殴られて搬送されたとか、恥ずかしくて親に言えないじゃないすか」

 空元気だった。

 すぐに限界が来てむせ込む。腹が痛い。肺が痛い。心臓が痛い。それだけだ。

 スマホも鞄も何もかも、僕が持って帰るべきものは僕が持ったまま。

「じゃあ、すんません。ありが、……ざいます」

 通学定期で改札を通り抜ける。

 誰も止めなかった。

 駅員、あんたくらいは止めてもよかったんじゃないか。止めてくれなくて感謝だけども。

 あぁ、本当に痛い。

 明日からどうなるんだろ。

 幸いなことに、不安が募るより早く痛みが思考を邪魔してくれた。痛い。本当に痛い。いつまで痛いんだろう。

 痛い、痛い。

 思っていたら、家だった。

 玄関に上がるや、スマホを手にした母さんが大声を上げる。うるさいよ。腹に響く。

「寝る。後で」

 言えたのはそれだけだった。

 ベッドに沈んで、意識を手放す。

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