2話
僕の顔に口を近付け、はぁと煙草の煙を吐いた青柳。
その時は面食らったし、家に帰る頃になってもなんて非常識なことをするんだと腹を立てていたけど、あれから二年が経った今は違うことを思う。
青柳にしては、かなり珍しい……というより、後にも先にもない行動だった。
自分が何か嫌がらせを受けたり、陰口を叩かれたりした時に、反撃として嫌がらせや暴言を向けることはある。法令違反の悪事を叱られた時でさえ、なんで自分がそんなことを言われなければならないと言わんばかりの目で睨み返すのが青柳だ。
いや、そもそも中学生が堂々と喫煙している時点で下手をすれば全国ニュースだ。……そこまでではないか? だとしても学校側が改心させられないならと徹底的に事実を封じ込めようとした気持ちは分かる。
だからナカチューの同級生に言っても大半は笑い飛ばすだろう。
青柳は……大前提として不良だし、でも根は良い奴なんだ、なんて何かの事件を起こした時に言われるような性格でもないけど、決して誰彼構わず攻撃して回るような悪人ではない。
具体的に何とは言えない、ただ彼女にとっては重要な一線があるように思える。
それを弁えている、というのが二年間を同じ教室で過ごして得た結論だ。
裏を返せば、あの教室で僕に煙草の煙を吹きかけた青柳は、その何かを弁えていなかった。その場をどうにか取り繕うためには、自分ルールを律儀に守っている余裕がなかった。
「優至?」
横合いからの声にふっと顔を上げる。
「どうした、歯ぁ痛いのか?」
「だから着色汚れだって。コーヒーか何かの色が歯に付いてただけだって」
「んなことより」
自分から振っておいてそんなこととは。
しかし掘り下げられて困る話なのも事実だ。虫歯じゃない、着色汚れ。このたった二言で、わざわざ遅刻してまで朝一で歯医者に行った顛末は説明できてしまう。これ以上にどう話を広げればいいのか。
そんなわけで何か話したそうな竹上に耳を傾けて返すのは僕としても都合が良かった。
竹上淳。
かなり危惧していた高校ぼっち問題を望外の早さで解決してくれた恩人、もとい友人である。背は僕より高く一七〇センチちょうど。ただ小太りで、制服の上からでも腹の形が分かる同級生なんて中学時代にいなかった僕からすると新鮮な相手だ。
ミーハーというのか、流行りのアイドルや女優の話を振ってくるのは少し困る。
僕はどちらかといえばアイドルよりゲーム、ドラマよりアニメだった。
「お前、今朝遅刻して来たよな」
もう一つ付け加えるなら、順序を組み立ててから話してほしい。
悪い奴じゃないし、日々助けられてもいるけど、いきなり『ナントカちゃん可愛かったよな』から始まり、なんのことかと首を傾げて五分くらい経った頃にドラマの話だったと判明する展開には飽き飽きだ。
「そりゃ歯医者だったし」
「電車?」
何がだ。
いや分かるけど、分かるけどもなぁ……。
「電車だよ。で?」
そもそも日常会話に効率を求めるのが間違っているのかもしれない。
実際、青柳やその仲間との会話に生産性なんてなかった。言い換えれば、会話していること自体が無駄で非効率だった。
「じゃあさ、駅に俺らと同じ高校の奴いた?」
「おん?」
唐突だった。
なんの前触れもなく脳裏に描いた姿と竹上の言葉が重なり、自分の発した変な声を聞く。
「ホームルームで言ってたんだよ、なんか半グレみたいなのと絡んでる生徒がいるって」
「半グレ?」
「知らねえの? 半分グレてる的な」
知らないのはお前だろ、竹上淳。
古き良き極道が仁義と規律を尊びショバ代と引き換えに縄張りを守っていたとするなら、半グレとは仁義も哲学もなく取れるだけショバ代を取って後は知らん顔のヤクザくずれ。
いや、実際に見たことはないけど、刑事モノに出てくる年嵩の刑事がヤクザ以下のクズどもだと吐き捨てるシーンは何度かあった。違う作者の小説で、だ。
「ヤバいだろ、それ」
「ヤバいんだよ。だから関わらないようにって話で。学校ある時間に制服着た連中がうろついてるって通報もされてるから気を付けろとも」
それは確かに目にした覚えがある光景だ。
ただ、あれが半グレか……? 青柳がああいう連中との仲良しこよしを喜ぶイメージからして湧かないのに、半グレにまで飛躍すると最早よく似た別の話に聞こえてしまう。
そもそも半グレがどうしてわざわざ制服を着て集合するんだ。そういうのは学校単位の不良グループの習性だろう。
「不良みたいな連中はいたけど、半グレってほどじゃなかった。流石に何かとごっちゃになってないか?」
「どっちも同じだろ」
同じではない。
ただまぁ、僕も聞きかじった程度の知識で「君の考えは間違っている!」なんて糾弾するほど正義感に溢れてはいない。
そうか、怖いなぁ、関わらんとこ、みたいな顔で頷いてもそもそと視線を下げる。
今は昼休みだった。
何をしていたかといえば、当然、弁当を食べていたのだ。
だから話が途切れたタイミングで箸と口を動かし始めるのは自然なことで、むしろ礼儀正しく話に耳を傾け続ける方が変に映る。
だけど頭の中で考えるのは、相変わらず駅で見た青柳たちのことだった。
不良と半グレは違う。
聞きかじった知識じゃなくて、僕自身の感覚として何かが引っ掛かっていた。
母さんに作ってもらった弁当をもそもそ食べながら。高校生になっても母親が作った弁当なんてと最初は少し恥ずかしく思い、しかし高校でも買い弁は少数派だと知るやどうでもよくなったそれ。
砂糖は入れない、バターも入れない、卵をシンプルに焼いて形を整えただけの卵焼き。
砂糖を入れておやつみたいな甘さにしても卵焼きは卵焼きで、バターたっぷりのスクランブルエッグかオムライスの上に乗せる時みたいな味付けでも卵焼きは卵焼き。何が卵焼きを卵焼きたらしめているかといえば、その四角く整えられた形状だ。中身が同じでも丸ければオムレツになるのだろう。
ようやく気付いた。
不良と半グレの違い。
不良は多分、本当に似ているのは部活動だ。上下関係があって、時に理不尽な横暴もあるだろうけど、どこまで行っても子供の集まり。そこには大なり小なり仲間意識があって、だから外には苛烈に反応する。
半グレは子供の遊びじゃない。特殊詐欺グループのまとめ役が半グレだったというニュースもあった気がする。居場所のない者たちが自然と集まったわけじゃなくて、金儲けの手足として居場所のない者たちを集めた結果。
青柳があそこにいることに、ずっと違和感があった。
しかし今、違和感は消えつつある。
どちらにせよ、不良と半グレは似ているのだ。善良なる市民とは似ても似つかない。
社会からあぶれた、居場所のない者。
青柳叶。
そうか、居場所がなかったのか、と失礼なことを思ってしまう。
それだけだった。
だから助け出そうなんて思わない。そもそも助けるなんていう発想が烏滸がましく、失礼だ。不良であれ半グレであれ、客観的には良くないもの。常識的にも良くないもの。
でも僕にとって気にすべきは、青柳がどう思っているかで。
自然体に見えた姿を思い返せば、それ以上の何かを考える必要もなかった。
ただ、まぁ。
とても正直に、自分の心の中だけで認めてしまうのなら。
少し仄暗い感情は、確かにあった。
孤高に見えた青柳に今は仲間がいて、その仲間は男ばかりで。しかもあんな、見るからに柄の悪い、頭も悪い、チャラそうな連中で。
なんだか、こう、勝手に描いていた幻想が崩れ去っていくような。
だって青柳、可愛いし。
「はぁ」
「なんだよ、センチメンタル」
「ジャーニーだっけ?」
「は?」
あれ、違う?
なんか懐かしの名曲特集だか何かの時に見たような。まぁ別にどうでもいいか。
「で、どうかしたん?」
「どうかしたってほどじゃないけど」
教室を見回す。
クラスメイトもいれば、他のクラスから来たその友達もいて、勿論ここにいない人もいて。それでふと、零してしまう。
「なんで僕、竹上と二人で飯食ってんだろ」
「失礼だなお前」
「いや、ごめん。他意はなかった」
「タイってなんだよ。タイかよ。つうかタイじゃなくてどっか行きてえ」
どっかならタイでもいいだろ。話に聞く限りじゃ良い国だろ、タイ。
そんなことを心中で転がし、あまりに時間の無駄遣いだとため息を零す。竹上のそれと重なった。
「あー、彼女欲しい……」
竹上が明け透けに呟いた。
なるほど。どっか行きたいというのは、場所はどこでもいいけど、という意味に繋がるのか。
「まぁ夏っぽいことはしたいと思うけどね」
「カッコつけんなよ、お前も男だろ」
「そうだけどね」
そんなことを考えるレベルにも至っていないんだよ、僕は。
「やっぱ男ならさぁ! 夏ならさぁ!」
一人勝手に盛り上がった竹上が声を上げる。
直後、後ろで何かが動いた。
竹上の顔がつんのめって、箸に当たりそうになる。危ないな。半分は自業自得だけど。
「うっさいしキモいんだけど、やめてくんない?」
ちょうど竹上の後ろ、あっちはあっちで机を囲んでいた女子が肘をぶつけてきたのだ。
竹上の泣きそうな顔が僕を見る。
「今のは竹上が悪い」
「お前も同罪だろ! なぁ、優至!」
「うっさいって!」
今度は割としっかりめの肘鉄。
痛そうだ。
でも僕は悪くない。
何をどう考えても自業自得だ。
多くの高校がそうなのか、それともこの高校だけなのか、別に珍しくもなければ多いわけでもないのか。
正直そんなのどうでもいいことだけど、どうやら文化祭は夏休み前に滑り込みで開催されるらしい。
中学の時は二学期だった。
思えばライトノベルに見た修学旅行は大体が秋で、物語が進んだ中盤か終盤に登場するイベントだった。でも中学の修学旅行は春の終わり。受験勉強の追い込み時期と重なる秋に修学旅行なんてやっても楽しめない、という理由を聞かされて納得した覚えがある。
だからまぁ、同じ理由なんだろう。
大きなイベントは物語の中盤や終盤に欲しいけど、現実には一年の早いうちに終わらせたい。
修学旅行なら二年の秋にすれば解決する。でも文化祭は学年によって時期をずらすこともできない。
理由はどうあれ、もう七月。
夏休みが目前に迫っているとなれば、文化祭もまた目前だ。
午後の授業は全て文化祭の準備に置き換えられ、高校生活で初めてとなる一大イベントに教室も盛り上がっていた。
「ねぇ誰かピンクのマジック持ってない~?」
「ピンクっ? ピンクのマジックなんてあるの?」
「や、知らないけど。どっかにはあるんじゃない?」
なんだその会話。
勿論、普段から接点のない人たちが関係のないところで繰り広げる会話に首を突っ込むほどのコミュ力はない。
僕にできることといえば、実は特にこれといった仕事はしてないのに如何にも仕事してます風の空気を出しながら暇を潰すことだけ。
暇潰しのお供は竹上だ。
話題も尽きて口数も減り、真面目腐った顔で何に使うのかも分からない紙の花を折っていく。
入学から四ヶ月足らずで開催される文化祭。
飲食や体験系の出店ができるのは二、三年生と部活だけで、人間関係の構築も儘ならない一年生は最初からクラス展示と決められている。内容はある程度なら自由という話だったけど、その『ある程度』とは学校に関わる範囲だ。
例えばアイドルとかゲームとか、そういう趣味に振り切った展示はできない。
だから文化祭というイベントに盛り上がる空気はあっても、展示そのものに熱意を注ぐ人はほとんどいなかった。
「あ、ピンクのマジックあった!」
そのせいか、中心グループの特に女子が上げる声はやけに大きい。
文化祭準備を名目に自分たちの時間を楽しんでいるご様子。穿った見方をすれば、青春の一時を、と言い換えてもいい。
「えっ、どこどこ?」
「アメゾン!」
「やアメゾンにあってどうすんの」
「明日には届くよ?」
「誰が買うんだ誰が」
「てか明日届いても持ってこれんの週明けじゃね?」
それにしても、なんの話なんだ本当に。
天下のアメゾンの品揃えはやはり豊富であり、ついでに今日が木曜日だという以上の情報がまるで入っていない会話。それが通常授業と置き換えられた文化祭準備の時間に話されるメインテーマとは。
「えっどうする? 注文しちゃう?」
「しないから! ていうかそれ那絵香が払うことになるから!」
「うそ、学校が経費出してくれないのっ?」
「経費なんて概念がそもそもない」
「ってことは私たち、もしかして今タダ働き……!?」
まさか時給が出るとでも思っていたのか。
脳内でツッコんだら、同じことをグループの男子がツッコんでいた。嘲笑というには湿り気のない、楽しげな笑いが教室に響く。
それに机を挟んで座る竹上は不愉快そうに顔を顰めたが、僕としては平和でいいと思う。
誰も喧嘩してないし。
煙草の臭いも漂わない。
だけど急に空気が変わった。事件が起きたわけでは、ない。
「すみませーん、文実ですけどー。文実の人いますかー?」
開けっ放しのドアから顔だけ見せ、叫ぶというには小さい声を投げてくる男子生徒。
目立たない、見覚えもない顔だった。
誰に向けたものでもない、この教室……一年D組全体に向けた声に対応するのは、必然的に中心グループの面々となる。
「ブンジツって何?」
「文化祭実行委員。うちって誰だっけ?」
「分からん。知ってる?」
「ブンジツも分からなかった私に聞きますか」
天然なのか養殖なのか未だに判断が付かないアレが佐々木。佐々木那絵香。
一緒にいる声の大きな女子が確か圷で、考える素振りも見せず分からんと投げ出した男子が下川。
「えっと、ごめん。名前って分かるかな」
早くも自分たちの会話を始めてしまう三人の傍ら、落ち着いた声を来客に向けたのは津久井。津久井恭平。
とっ散らかりかけた話を引き戻し、困り顔の来客に柔らかな笑みまで向けているようだ。
顔は勿論、人当たりまで非の打ち所がない。いつだったか誰かが咄嗟に名前が出なかった時に『あのイケメン』と呼んで、しかもそれで伝わってしまっただけのことはある。ちなみに頭も良ければ運動神経も良い。この世のバグか?
文実の彼は慌てて考える素振りを見せたが、すぐに安堵の表情でスマホを触る。グループか、はたまた個人的なメモか。
「ええと……金田です、金田君」
「金田? そんな人いたっけ?」
「進次郎だよ、進次郎」
「あ、大臣!」
その進次郎じゃないが。
いやまぁ、何かと話題になる人だ。漢字まで同じせいであだ名が大臣になってしまうのも無理はない気もする。親も名付ける時に想像できないものかと思うけど、政治に興味はないから経歴も知らない。僕たちが生まれた頃にはまだ有名でなかった可能性もある。
でも十六年前か……。どうなんだろう。
「優至? どした?」
不意に目の前から声。そこに座る人物など竹上しかいない。
「あぁいや、あー……今って何大臣なんだっけ」
「なんの話?」
「え? や、すまん、なんでもない」
あれだけ大きな声で喋っているのに聞こえていなかったのか?
聞こえる聞こえないではなく、気に留めていなかったが正解だろう。竹上は不思議そうに首を傾げたが、追及もしなければ別の話題を持ち出すこともなかった。
こちらの机が沈黙すると、耳は必然、大きな声に惹き付けられる。
「多分部活行ったよね。大臣って何部?」
「サステナ部?」
「そんな部あったんだ」
「……ごめん忘れて」
「サッカー部だよ、サッカー部」
すぐに脱線する話に津久井が呆れ声を返している。
「それで、そっち行っちゃったと思うんだけど、どうしよ。呼ぶ?」
「あーいえ、急ぐものじゃないんで、帰ってきたらA組……一年A組の文実まで届けるよう言ってください」
「ほい、了解」
「お願いします」
同い年だろうに、終始敬語だった名も知らぬ彼。最後まで律儀で、ぺこりと頭を下げて去っていった。
そしてイベントというほどのことではなかったが、一段落したところで津久井たちのグループも静かになる。僕も何に使うのか分からない花作りに集中した。
だから何分経ったかは分からない。
没頭できる作業でもないし、長くても五分かそこらだろうけど。
「うわっ」
不意に悲鳴……ではないか。驚きと不機嫌を混ぜ込んだような大声が教室に響いた。またしても津久井グループ。佐々木の感じではなかったし、圷か。
目を向ければ、正解。
「金田の奴、代わりに持ってけとか言ってんだけど」
「何を?」
流石、佐々木だ。君の記憶力は五分と持たないのか。
「さっきのプリント、文実の。なんか机にあるからお願いとか言ってきたんだけど」
「机? 大臣の? どこだっけ」
「や持ってかないから。自分で持ってかせろよ」
「まぁまぁ、部活は出店とかできるし、そっちの方が忙しいんじゃない?」
流石、イケメン。本人がいないところでもイケメン流フォローをしている。
「でもあいつクラスの全然やってないじゃん。文実でしょ?」
「そういう奴だぜ~」
「太郎うっさい」
「太郎じゃねえよ」
「じゃあ次郎?」
「それ大臣」
小気味よいテンポである。
そんな茶番をやっている間にもイケメンはそつなくイケメンで、大臣こと金田進次郎の机に向かい、勝手に座っていたらしい女子グループに笑顔で話しかけている。少しの間どいてもらって引き出しを漁り、見事に目当てのものを見つけたようだ。
「じゃあ行ってくるよ」
「恭平が行くことないじゃん!」
「なら私が行こうっ!」
「那絵香が行ったら迷子になるでしょ」
「ならないよっ!?」
「いやいや、いいから。A組行って帰ってくるだけだし」
「だからって恭平が行くことじゃないし!」
喧嘩するほど仲が良いとは言うけど、あれは喧嘩そのものが仲良しこよしだ。
ちらりと正面を盗み見れば、竹上が苦虫を噛み潰したような顔になっている。どうもあのグループが苦手らしい。まぁ実際、うるさいはうるさいし。この教室は自分たちの居場所ですって態度を嫌う人もいるだろう。
でもそれを言ったら、僕も勝手にここは自分の教室だと思っている。大声で話すかはともかく、少なくとも他の教室に行った時よりは我が物顔だ。
「ていうか恭平は早く下書きして! 恭平が書かないと進まないんだから!」
確かポスターか何かを担当していたはずだが、まさかイケメンは絵まで描けるのか? それとも字が上手いとか? どちらにせよ伊達にイケメンではないということか。
「なんか面白そうだな、優至」
「イケメンって本当にイケメンなんだな」
「なんて?」
「や、ほら、あいつ。津久井。できないととかないのかな」
「あるだろ」
鼻を鳴らされた。
あぁ、なんだ、そういうことか。すごいな。僕にはあのイケメンに嫉妬するほどの気力はない。
生きている世界が違うのだ。
チーター相手にプレイスキルで勝とうだなんて思わないのと同じ。すごい人は勝とうとするどころか本当に勝ってしまう。意味が分からない。やはり生きている世界が違う。
「ね、誰か~! 暇な人~!」
圷が叫ぶ。
更に大きな声。佐々木や太郎……もとい下川に向けたものでないのは明白だった。
「誰か~、いないの~?」
竹上の表情が歪む。
そりゃまぁ、我慢ならないだろうな。心中でため息をつく。
そして、腰を上げた。
「あー、僕行こうか?」
錯覚だ。
錯覚だと分かっている。
だがその瞬間、確かに教室中が僕を見た気がした。錯覚である。全員なんて見てない。精々が七割くらい。
「えっ誰」
「クラスメイトだよ」
「あ、うん、そうだ。えっと……あっ、ミキだっけ」
まぁうんそうだね、明らかに三木ではない発音だったけど間違いではない。
「ていうか、何?」
「えぇ……。暇な人って言われたから僕は暇だよーって」
「え、暇なん? 作業は?」
「こんな花作ってても仕方ないし」
「ん? あれ、今こんなって言った? ミキ君こんなって言った?」
佐々木が何か怒っている。
そんなにこんな紙製の花が好きだったのか。それは悪いことをした。
「でもこんないらなくない?」
「いやいや、いるよ! 私たちは展示しかできないんだよ! 一年みんな展示なんだよ! 飾り付け頑張らないと負けちゃうじゃんっ!」
負けるって誰に。入場料取るわけでもないから売上なんか最初からゼロだし、確定でゼロの成果に対して労力だけ嵩増しする意味はない。大多数のクラスメイトは、サボりの烙印を押されないための必要経費として作業に従事している。
「そっか、ごめん。じゃあ花作るね」
「待ってミキ、花なんていいからA組行ってきて」
「なんて? なんてって言った?」
「あーほら、花はほら、友達のナントカ君が作ってくれるから」
友達のナントカ君が呆然と僕を見上げていた。
僕の名前を覚えていて竹上の名前を覚えていなかった、わけではあるまい。単に思い出すのも面倒臭くなっただけだろう。厳密に言えば、どっちの名前も忘れていたわけだし。
「……悪いな、三木」
「いやいや、メインの……それ、ポスター? とか、そういう大事なのはやってもらってるわけだし」
「おいミキ君良い奴かよ」
太郎お前も三木じゃない発音するのかよ男子同士体育とかは同じだろうが。
「じゃあミッキー頼んだ!」
「そんな著作権的に怖そうなのはやめてください」
なんなら大臣もグレーな気がする。そういえば人名に著作権はあるのかな。
どうでもいいことを考えながら、本来なら金田が持っていくべきプリントを津久井から受け取る。中身に興味はない。上部に小さく文化祭実行委員と書かれていることだけ確かめて教室を後にした。
僕たちはD組、目的地はA組。
長いというほど長くはなく、短いと呼ぶには少し長い廊下を、果たして長いのか短いのかと考えている間に歩き終える。
開いているドアを一応ノックし、A組の教室に一歩踏み込んだ。
「すんま――」
「ふざけんなよマジであいつ!」
おおう、出鼻を挫かれた。
女子だった。声同様、言葉同様、誤解の余地なく怒り心頭の女子が苛立ちをそのまま口からぶち撒けている。
何人かはそちらに目を向け、その一方、ドアの近くにいた何人かは僕の方を見てくれた。
「何これ」
しかし僕の口を衝いて出たのは本題とは別のもの。
「えっ?」
話しかけた……つもりはなかったけど、ちょうど目の前にいて目が合ってしまった、大人しそうな女子が戸惑いに目を丸くする。
その横で吐き捨てるように呟くのも、また女子。
「ずっとサボってる奴いんだよ、うちのクラス。そんで同じ班の奴がキレてる」
「そりゃ御愁傷様」
「ほんとね」
「や、うん。あー、A組の皆さんね」
「あー……まぁうん。で? なんか用だったの?」
「文実の人っている? プリント持ってきたんだけど」
他人に少しは吐き出して溜飲を下げたのだろう。女子はどこか毒の抜けた目で教室を見回し、一点で止めた。
「あそこ、多分あいつ」
軽く指差された先を見やり、先ほどD組で見た顔と一致する男子を発見。
「ありがと」
言いつつも懸念材料が一つ。そちらは曰くキレている女子がいる方向だった。
「ごめーん、文実の人―」
ともあれ呼びかけながら近付いていくが、その最中も女子は何事か苛立たしげに言っている。
聞いていても仕方ないし、意識の外に追いやろうとしていた声に、しかし次の瞬間、足を止めて目まで向けてしまう。
「青柳の連絡先知ってる奴いねえのかよ!」
青柳。
ここで名前を聞くとは。
今朝の制服姿を見る前から、同じ高校に入学したことは知っていた。
というか進路希望がこの学校だと噂が流れた時点で、同じところは嫌だからと進路を一つ上の高校に変えた生徒までいたほどだ。合格発表のその日に悲報と銘打たれた情報が回ってきている。
しかし入学式以来、その姿を高校で目にしたことはなかった。
同じ一年とはいえA組とD組。近いようで遠い。そもそもA組だということも知らなかった。
「堺って確かナカチューだったよな。知らないの?」
「知るわけないだろ。青柳と仲が良かった奴とか……」
堺。
知った名だった。
同じ中学、同じ教室。何度となく聞いた。顔も覚えている。その顔が今、僕を見つけて驚愕に包まれた。
「なんでいんの」
「え、いや、文実の人に用があって」
ぺらぺらとプリントを揺らしてみせる。
あぁ……、と曖昧な声が返されたけど、僕の登場はそんなに信じられないか。まぁ信じられないか。確かにタイミングが良すぎた。
「誰?」
女子が問い詰める声で言った。
「青柳と仲が良かった奴」
「仲は良くない」
「三木が仲良くなくて誰が青柳と仲良いんだよ」
「誰も良くなかったんじゃない?」
堺は心底納得という表情で頷いた。
横で女子が苛立ちを隠さない声を零す。
「で? 連絡先知ってんの?」
「知らないよ。そもそもあいつスマホ持ってんの?」
「そりゃ……持ってんじゃねえの?」
「持ってないわけないでしょ」
「や、一度も見てないし。卒業式の時も誰とも交換してないよね?」
「するわけない。目も合わせたくない」
そこまでか。
そんな目が合っただけで殴り掛かるような狂人ではないのだ。教室で煙草を吸うせいで直接会ってないにもかかわらず制服が煙草臭くなって迷惑だった程度には常識外の人間ではあったが。
「じゃあ何、結局なんも知らないの? あいつ今どこにいんの?」
「なんも知らないけど今日は多分、駅にいると思う」
「駅? はぁ?」
名も知らぬ女子が青柳ついでに僕まで嘲るような目で見てくる。
そういうのやめてほしい。
「なんで駅。そこの? なんで学校来ねえんだよ。つうかなんでお前――」
「今日遅刻したんだよ。その時に会った……ていうか、鉢合わせた? それだけだから他のことは何も知らない」
じゃあ意味ねえじゃん。
そんな心中が透けて見える眼差しだった。僕に文句を言われても困る。向こうもようやく気付いてくれたようで、謝罪の代わりにため息が零された。
時々いる。
何も悪くない第三者に八つ当たりしておきながら、悪いのは自分じゃないからと頭を下げない奴。嫌いだ。まだしも自分が悪いと承知で、だから何、と開き直る方が見ていて清々しい。
だから、なのだろう。
僕は青柳を忌み嫌うことはなかったし、それは誰もが青柳を忌み嫌っていた、あのB組では異端に映った。
「じゃあ、次に会うことがあったら言っといて。迷惑だって」
「言わなくても自覚してると思うけど」
「なら余計言え」
なんで僕に命令するんだ?
別にいいけど。
すぐそこで困った顔をしていた文実の彼にプリントを渡す。
それで本日の三木優至は営業終了。一日分の体力を使い果たしました。
……なんて気分に浸ってしまったのが間違いだったのである。




