1話
田舎の電車は通学時間帯を過ぎると途端にガラガラになる。
そもそもが車社会だ。わざわざ電車に乗るのはお年寄りか学生が大半で、その学生が揃って学校にいる時間帯に電車が混むわけもない。
この状況の行き着く先が地方路線の廃線とかいう問題なんだろうけど、幸いなことに身近に聞く話ではなかった。身勝手を承知で、今はこの空き具合を便利に思う。
慣れたカーブを感じて本を閉じる。
そんなはずもないのに画面を見られているような気がして、電車でスマホを触るのは抵抗があった。だから学校に着けば読むタイミングもない文庫本の小説を登下校のためだけに持ち歩いている。
それを閉じたのは、ひとえに読書タイムが終わるからだ。
停車駅を告げるアナウンスが鳴り、何人かがいそいそと降り支度を始める。その最前列に立って電車を降りた。
地下鉄ではないけど、改札は階段を上った先。
通学定期券で改札を抜け、いつも見るのとは全く違う、閑散としたホームに立つ。
といって、違和感がある以外に何か感慨を抱くほどでもない。時間には少し余裕があるけど、少しだ。立ち止まっている理由もなければ、足は自然と慣れた道のりを進んでいく。
高校に入学して、まだ三ヶ月。
この駅を長く使っている気になっていたけど、指折り数える必要もないほどに短かった。
ただ三ヶ月もあれば中学気分は抜ける。本格的に始まった授業が中学との違いをまざまざと突き付けてくるし、放課後の光景や漂う空気も中学のそれとは違っていた。
だから正直に言うと、今は少し緊張している。
入学以来、遅刻するのは初めてだった。寝坊はしていないしサボりでもない。事前にちゃんと連絡を入れて了承も得ている遅刻。
でもそれは事務的な手続きの問題であって、いざ教室で直面するのは書類ではなく同級生、クラスメイト。
僕なんか一々気に留める人はいないだろう。いや何人かはいるかもしれない。高校で知り合って、お互いに積極的に話す方ではなく、だからか空気を感じ取れて話すようになった友達もいる。
けどまぁ、そのくらい。
他は誰も僕を気にしなさそうなことに安堵すると同時、少し寂しくもある。
それが情けなく思えて首を振った。
なんでホームが地上にあって、駅の出入り口も一階にあるのに、改札だけが二階にあるのか。
そういえば気にしたこともなかった。この歩道橋みたいな構造の駅は一般的なんだろうかと余所事に頭を散らしつつ、外へと続く階段を下りる。
今日はちょうどいい天気だった。
そろそろ七月。ろくに雨が降らなかった梅雨がいつの間にか終わっていて、季節は一気に夏へと進んでいる。
しかし今日は心地良い風が吹いていた。
空もどんよりという感じではなく、然りとて陽が燦々と照っているわけでもない。ちょうどいい天気。
時間にはまだ余裕がある。授業と授業の間の十分休みに滑り込む計算。
走らなければ汗をかくこともないだろう。
そんなことを考えながら学校に足を向けかけた時だった。
「おっ? 後輩じゃん」
背後で、なんの前触れもなく声が持ち上がった。若い、嫌な感じの、男の声。後輩という言葉、何より声のタイミングからして誤解の余地はあまりない。
あまり、だ。
もしかしたら誤解かもしれない。
「おーい無視すんなよ! こんな時間に登校って何、寝坊したん? サボり?」
本音を言えばダッシュで逃げたい。
でも勿論、それではあまりに角が立つ。気に障って、追い掛けられて、無視してんじゃねえよと肩を掴まれたら終わり。僕は万年帰宅部だ。足に自信はない。
折衷案として、周りをきょろきょろ見回してみた。
「いやお前だよ」
僕らしい。残念だ。
振り返りたくはなかったけど、振り返るしかなかった。
駅舎の陰……というほど陰でもないか。僕が下りてきた階段の脇、駐輪場の手前に陣取る一団がいた。何人だろう。あまりじろじろ見ない範囲で数えてみた。五人か、六人。ほとんど男子。
ほとんど、と曖昧な表現になったのは、どちらか分からない人物がいたからではない。
単純に、そこまで見ている余裕がなかったのだ。
「なに? 寝坊?」
知ってどうするというのか。
なんと答えるべきか悩む時間は、驚くべきことに一秒もなかった。
「あれ、ていうかミキじゃん」
一団の中から聞き覚えのある声が飛んできた。
若い、どこか軽薄そうな、女子の声。
思わず目を走らせる。見知った顔が確かにあった。
「知り合い?」
「同中同中」
僕と同じ制服(いや勿論、男女の違いはある)を着ているが、あまり学校に来ていないのだろうと直感させる発言だった。
同じ中学の出身であることを意味する『同中』という言葉。
いつだったか、どこかの誰かがぽつり「同中って、なんかエロいよな」と呟いたがためにそれまでなんとも思っていなかった誰もがなんとなく言いづらくなって、ふと気が付く頃には口にしてはいけない言葉かのようになっていた。
だから今では出身中学を略す形で言われることが多い。
ちなみに僕たちの出身中学は漢字で略すと『中中』になってしまうから、メッセージの時も『ナカチュー』と書く。……これもなんかエロくない? いややめよう、僕は何も気付かなかった。
「でーミキ、こんな時間に何してんの」
「や、それは僕の台詞」
向けられた言葉にこれ幸いと飛び付いてから我に返った。
うわぁ。五、六人の不良グループが誰だテメェなに気安い口利いてんだ的な目で僕を睨んでいる。……気のせいか。三人くらいは何も興味ないらしくスマホをいじり始めていた。
「え、暑いし日陰に」
急に何を言い出すんだ?
本当に理解できなくて首を傾げかけ、その頃になって思い至った。僕の質問に答えたらしい。
いや答えになってないが?
アホなことを言い出した、あの見知った女子生徒は青柳叶。アオヤギではなくアオナギで、カナウではなくカナエ。何かとややこしい名前だ。
中学時代の同級生で、二年と三年の時は同じクラスだった。
元々かなり分かりやすい不良だったけど、そうか、高校に入って仲間ができたか。
中学では僕目線だと孤高、客観的事実を述べるなら孤立していたけど。仲間ができたことを喜びたい気持ちの一方で、失望感に似たものもあった。勝手なものだ。今日の今日まで忘れていたのに。
「で、ミキは?」
「つうかミキ君……て、誰? 元カレ?」
「んなわけねえだろ。つうか同中って言ったじゃん。ただの馬鹿な奴」
「えっ」
僕の紹介、出身校の次は馬鹿な奴なの?
「自覚はあっただろ」
「平均的高校生のつもりだったんだけど」
「平均的高校生がこんな時間にほっつき歩いてるかよ」
「歯医者行ってたんだよ、歯医者! 今日はたまたま!」
なんで三ヶ月か四か月ぶりに会った同級生にそこまで辛辣な評価を下されなければいけない。
確かに、まぁ、時々トラブルは起こす。
でも意図的じゃないし、大体は誤解だと分かってもらえて事なきを得てきた。それよりも『こんな時間』にほっつき歩きもせず駅舎の陰でたむろしている方がよほど変だろう。
「歯医者? なんで?」
ごめん不思議がられる要素が全くないどころか、僕の方こそなんでこんなところにたむろしてるのか聞きたいんだけど。
何人かは構わず地べたに座り込んでいて、青柳とあと二人の男は壁や柱に寄り掛かるように立っていた。バトル漫画の悪の幹部が初登場するシーンみたい。
「おい無視すんなよ」
「あ、すみません。……すみません?」
「なんで二回言ったん、あいつ」
「そういう奴なんだよ。馬鹿だろ」
「馬鹿っつうか、……まぁいいや」
なんとなく先輩だと思ったから敬語で接しようとして、いや青柳がタメ口なんだから同級生なのかと咄嗟に考えてしまっただけだ。ちなみに、無視すんなと言ってきたのは先ほど僕を後輩と呼び付けた人物だ。少なくとも二年生でなければ、同じ制服の人物を後輩とは思わない。
つまりは、先輩なのだ。
「で、なんでしたっけ」
なんの話だったかすっかり忘れてしまったので、一応顔を立てて先輩の方に聞いてみる。
「いや知らねえよ」
「えー無視すんなって……いやなんでもないっす」
「キモいっしょ?」
「キモい」
ひどい。
「正直そんな興味もないんだけど、そんなっていうか全くないんだけど、歯医者の話だったろ」
不良のくせに相変わらず律儀なやつだ。
「そう、そうだった!」
「うっせえよ」
「あ、じゃあ僕はこれで」
「いや話終わってねえじゃん」
今どう考えても終わったよね?
他の人に聞こうと思ったら、スマホをいじってなかった三人目も欠伸している。嘘だぁ。
「で、なんで歯医者行ってたん?」
「この話広げる必要」
「こいつぐちぐちウザくねぇ?」
「虫歯だったんですー! 虫歯あったから予約入れたら今日の朝一が空いてたから行ってきたんですー!」
「え、虫歯? きたな……」
「結局違ったんだよ! ただの着色汚れで! いや、ていうか、この話にそんな興味あるっ!?」
「ねえって言ってんじゃん」
理不尽。
何か気に障るようなことでもしたかと、青柳の顔を見やる。
見慣れた、ひどく冷たい目をしていた。
よく見れば、ほんのり髪の色が変わっている。茶髪という茶髪ではない……あれがアッシュブラウンだろうか。それが差し色として入っている。ただシルエットは見慣れたまま、肩にかかるか、かからないかの長さ。
背も高くなければ低くもない。僕が平均より少し低い一六二センチ。そう、平均より少し低い一六二センチ。その僕とほとんど同じくらいなのが青柳だった。今は距離があるけど、大体そんな感じ。
スタイルは良く、巨……大きい方ではないと思うけど、ワイシャツ越しに胸のラインが見えていた。
「キモ」
「んんっ?」
え、今そんな見てた? そういや成長期だし成長したのかなって見てただけで、そんな胸だけじっと見てたわけじゃ。
「お前マジでそういうとこあるよな」
「ごめんなんか本当にごめん許して」
「あいついつもあんなんなん?」
「いやあれ謝ってるように見えて何も謝ってないから。うるせえ黙れくらいの意味で言ってるから」
「マジで?」
「すみません変な意味はなかったんです偶然なんですそこ暑くないのかなーとか考えてたせいかなー」
「早口キモ」
「はは……」
泣いていい?
そうですとも、えぇ。
うっかり口を滑らせたり、空気を読み違えて変なテンションで話したり、なんかもう純粋に人の気持ちが理解できなかったりで、大々的に糾弾されたことはなくても気付いたら「なんかあいつ、キモいよね」くらいのポジションに居着いていたのが僕だよ。三木優至だよ。優至と名乗れば「なんかユウシって感じじゃないよね」と苗字で呼ばれてきたよ。
というか多分、二年間同じ教室にいた青柳も『ミキ』をあだ名か何かだと思っているんじゃなかろうか。明らかに『三木』じゃない発音の時があるし。
「まぁうん、僕、学校行くから」
「おう行け行け」
呼び止めておいてなんだよ、その追い払うような態度。
あとあなたに言ったわけじゃない。
ちらりと青柳を見たら、あー私かーとでも言いたげに視線を返してくる。そして笑われた。
いや、違うか。
笑いかけられた、が多分正解。
もっと言うと、挨拶代わりの愛想笑い。
元々仲良くはない。僕と青柳の仲が良かったことなど一瞬たりともない。
それでも敢えて言うなら、きっとあの三年間で、青柳叶と最も仲が良かったのは僕だろう。
なにせ青柳は、教師も諦めて何も言わなくなった程度には問題児。同級生ともなると関わるだけ損な不良生徒。
だから僕もわざわざ話しかけるようなことはしなかった。
あの日、あの瞬間、思わず口を滑らせてしまうまで。
思い返せば、最初から僕たちは僕たちだった。騙るでも偽るでもなく、誤魔化すわけでもなく。
そして何より、遠慮もなかった。
確か音楽の授業の時だった。
前の授業で配られた楽譜を教室に忘れ、教師には誰かに貸してもらって一緒に見ろと言われたけど、そんな事実上「僕の不注意であなたの授業の邪魔をするけど許してくれるよね」なんて頼める相手はいなかった。
それで教室の机にあるはずだから取ってきますと言って音楽室を出た。
あるかもしれないし、ないかもしれない。そのくらい適当に扱った記憶しかなかった。なかったらなかったで、適当なプリントを持って帰って練習しているフリでもしよう。
中学二年生にしては割と悲痛な覚悟を決めていたのだ。
音楽の授業中で誰もいないはずの教室に着き、しかしドアを開けた先に人影を見つけてしまった瞬間――
「おぅえっ!?」
と、謎の奇声を発してしまったのは僕の責任ではない。
然しもの青柳もビクリと肩を跳ねさせ、なんだよ、と口にする余裕もないままに振り返った。
その口には、煙草が咥えられていた。
「……なんだよ」
ようやく、そう口が開かれる。
なんだよと言われましても。僕は咄嗟に言葉を探したけど、探すも何も一つしかなかった。
「え、いや、なんで教室にいるの」
「いちゃ悪いかよ。私も二年B組なんだけど?」
「二年B組は今音楽の授業中だよ……」
間の抜けた会話である。
だが青柳もそこで何が起きたか理解したらしい。気不味そうに煙草を吹かす。白い煙が、似合うはずのない教室に漂う。臭いも。
青柳が煙草を吸っているというのは公然の秘密だ。
誰もが知っているのに、煙草はやめろと注意されれば、親が吸ってるから臭いが制服に付いてんすよ、と白を切るのが青柳だった。あまりに埒が明かなすぎて、変に問題にすれば誰も嬉しくない厄介事になると暗黙の了解が形成されるのに時間はかからない。
だから教室に煙草の臭いがしても、誰も口に出さないまま「あぁ青柳さんちの親が煙草を吸ったから青柳さんの制服から臭いがしてるんだね。今は本人がいないけどその臭いが残ってるんだね」と誰かに向けた言い訳を共有できる。
しかしその瞬間、教室には僕と青柳しかいなかった。
気不味そうな青柳の、その気不味そうな顔を見てしまったから、僕まで変に気不味くなってくる。
といっても、気の利いた洒落なんて持ち合わせてはいない。
「あー、えっと、楽譜を机に忘れちゃったんだよ」
「誰も聞いてねえよ」
そういえばそうだった。
頭を捻る。
その前に楽譜だ。
机の引き出しを探したが、なかった。なかったのである。楽譜は何かのプリントと間違えて家に持ち帰ったか、最悪、捨ててしまったか。
なるほど困ったことになったぞ、と声に出さない代わりに脳内ではっきり呟いたのを覚えている。
引き出しから顔を上げ、どうしたものかと息をつく。
自然の摂理として吐いた分だけ息を吸ったら、煙草の臭いがした。あまり好きではないけど嫌いでもない。最早慣れてしまった臭いだ。
「いや楽譜は」
不意の声に驚いたのは僕だ。
「えっ?」
「え、楽譜取りに来たんだろ」
「なかった」
「なんで」
「捨てたのかも」
「なんで」
「プリントと間違えて?」
「違えよ。あるって知ってて取りに来たんじゃねえのかよ」
「あったらいいなって思って取りに来たんだよ」
「…………」
青柳が絶句していた。
しかし困った、と小さく呟く声を自分で聞く。
「あ、青柳は持ってない?」
「なんで私が盗むんだよ」
「えっ?」
「あ?」
致命的な食い違いがあった。
お互いに言葉が足りなすぎることを、その時に自覚したのだ。
「そうじゃなくて青柳の、自分の楽譜。持ってたら貸してほしいなぁって。どうせ音楽の授業出ないんでしょ?」
「まぁそうだな」
「なら……!」
「で聞くけど、音楽の授業に出ない私がなんで楽譜なんて持ってると思ったわけ?」
目から鱗が落ちた瞬間である。
「馬鹿だろ、お前」
「ハッ、言われるまでもない」
「今のカッコつけるとこじゃないだろ」
「カッコつけたつもりじゃないけど」
「そうかよ」
そうだよ。
僕がため息をつく。
青柳が煙草を吹かした。
そういえば。
「なんで青柳って煙草吸ってんの?」
「あ?」
腹の底から滲み出るような怒声だった。
失敗を悟るのは、いつも失敗してしまってからだ。当然だろう。失敗する前に悟れるなら、それは失敗ではない。
「あーごめん、違うんだよ」
「何が違うって?」
「いやぁ煙草って身体に悪いじゃん?」
「……ァ?」
「ははっ」
また失言しましたごめんなさい、と目で詫びても許してもらえるはずもなく。
「違うんですよ」
「うぜぇんだけど」
「いやぁ本当に違くて」
「違う違うって、何が違うんだよ、だから」
明らかに苛立った声。
それまでも怒ってはいたが、そんなのお前には関係ないだろと追い払うようなものだった。
その瞬間の青柳の声は、苛立ちだ。ただどこかに行ってくれればそれでいいと思っていた蚊に、もう許さんと明確な殺意を抱いた時のような変化が感じ取れた。
「言えよ。何が違うって?」
「あーいや、本当にごめん。どうも僕は口が軽……違うな、言わなくてもいいことを言う癖があって」
「だから言えって言ってんだろ? 私は今、言うなって言ったのか? あ?」
ドスの利いた声だった。
青柳は整った顔立ちをしている。この時は知らなかったけど、後に一度だけ、三者面談か何かで学校に来た母親を目にしたことがあった。若い頃はアイドル顔負けの美貌だったに違いないと思わせるパーツと、邪気のない目付きと、そして良くない薬か何かやっていそうなほどにやつれたその他の全て。
何から何まで納得してしまったくらい、青柳叶という少女の背後に見え隠れしていたものに重なったのだ。
青柳は整った顔立ちをしている。
それなのに誰も寄り付かないのは、きっと恐ろしい以上に、青柳に余裕がなかったからだろう。
「なら、正直に言わせてもらうけど」
青柳は黙って僕を睨んでいた。
脳内で言葉を組み立てる数秒の間、一秒どころかコンマ一秒ごとに教室の空気が冷たくなっていくようだった。
「いや、その、噂に聞いただけなんだけど」
「何を」
「煙草ってさ……」
「あぁ」
「口が臭くなるって言うじゃん?」
「あ……あぁ?」
きょとんと目をまん丸に見開いた青柳を見て、その瞬間、彼女が美人だということに僕は気付いたのだった。
「女子……ていうか、女の子? 的には? そういうの気にしないのかなぁって」
僕たちはずっと何かを取り違えていた。
お互いに先入観を抱いていた。
相手に対する以上に、自分がどう見られるかという考えに囚われていたのだ。
青柳が赤くなる顔を誤魔化すように煙草を吹かした。音楽の授業は始まったばかり。まさか終わる頃になって楽譜が必要になるはずもない。
だから青柳は、誰もいなくなった頃を見計らって教室に来て、一人悪ぶるように喫煙に興じていたのである。
それを見咎められるものと、思っていた。当然そうなるものと信じて疑わなかった。
なのに僕は、彼女の言葉を借りるなら、馬鹿だったのだ。
「それ、女に向かって言うことじゃねえだろ」
ようやく平静を取り戻した青柳が些か早口に言う。
「言えって言うから」
「言えって言われたらなんでも言うのかよ、お前は」
まぁ言える程度のことなら?
これ以上の失言はすまいと、言葉の代わりに視線で答えようとした。
その視界に、何故か青柳が大きく映る。
歩み寄り、そして顔を近付けてきたのだと気付く時には、もう目と目がすぐ近くに合っていた。その目線がふと切られる。
僕は女子の顔に近付いた時の男子中学生の習性として、咄嗟に息を止めていた。
視界を、白い煙が覆う。
ゆらめく視界の向こうで、青柳が言った。
「ほら、臭えかよ」
「いや……煙草臭いよ」




