エピローグ1
「好きだよ、叶」
初めて後悔した。
あの瞬間。
ただ一言、そう答えられたらどんなによかったことだろう。
「私も好きだよ、……優至」
それなのに笑ってしまう。
やっぱり僕は僕のまま、簡単になんて変われないのだ。
名残惜しくも、身体を離す。青柳……じゃない。叶はほんの僅かに抵抗して、次の瞬間、その抵抗を恥じるかのように勢いよく後ずさった。
「ところで」
「黙れ馬鹿」
「僕の名前、いつ覚えたの?」
なんか発音、変わってるなぁと。
細かいことに、引っ掛かってはいたのである。
「答えろよ馬鹿」
「……違うんですよ」
「別に敬語やめなくても怒らないけど」
叶が視線を逸らした。
悪戯がバレた子供のよう。
「卒業文集、お母さんが捨ててなかったから」
「やっぱ最近かー」
「悪いかよ」
「悪いと思う」
「怒らねえって言ったじゃん」
確かに言った。
だから怒るつもりは、元々ないけど。
「その代わり」
「少し待て」
「えー」
「さっき待ってやっただろ」
それを言われると弱い。
だったら少し待ってやろうと思った矢先、離れていた距離が一瞬で縮まる。
それで思わず――
「おい」
「違うんですよ」
「何が違うって?」
あろうことか、防御の構えを取っていたのだ。
叶は暴力を振るうタイプの不良ではないが、しかし不良なのだ。ナカチュー出身者にそれは刻み込まれていて、急に現れれば一歩引くし、急に近付いてくれば反射的に身を守ろうとするのも宜なるかな。
ただ幸い、叶に傷付いたような様子はない。
「じゃあお互い様ということで……」
「いやお前の特大の分がまだ残ってるだろ」
特大の分。
そこには不機嫌そうに鼻が鳴らされた。
「ごめんって」
「軽い」
「ごめんなさい?」
「違うって分かってて言うな余計ムカつく」
いや、だけれども。
謝ってダメなら他にどうしろと……。
早々に諦めて降参のジェスチャーでもしようかと思ったのに、その顔を見れば分かってしまう。妙に赤い。
「柄じゃなくない?」
「うるせえ」
もう一回抱き締めろとか、そんなところなのだろう。
何をどう考えても『うるせえ』で催促される類いのものではない気がするけど。
しかし、まぁ、僕たちは一応、曲がりなりにも、経緯はさておき、そういう間柄にはなったはずで。そういう意味では、そういう柄なのかもしれないと。
必死に言い訳を重ねて羞恥心を振り払い、どうにか再び、叶に手を広げてみせた時だった。
「ちょーっ! 早く! 急げって!」
大声が響いてくる。
僕も叶も、ビクリと肩を震わせ動きが止まった。
その大声を皮切りにドアの向こう、廊下がにわかに活気付く。開会式が終わったのだ。言葉を聞き取れるほど大声もあれば、聞き取れない程度の話し声もある。そうした声たちが喧騒を作り、薄暗く埃っぽい空き教室にも文化祭の始まりを告げていった。
「……一旦。一旦座ろうか」
「おう。一旦な、一旦」
まるで喧嘩の中断である。それも互いに何かが食い違っていると気付き、振り上げた拳をどう下げるか悩み始めたかのような。
ともあれ宣言通り椅子に腰を下ろし、途端に熱くなってきた頬を触る。
濡れていた。
そりゃあれだけ泣いたもの。
「あー。ティッシュとハンカチ、鞄の中だー」
普段は零さない独り言を、何故か大きな声で言ってみるしかない空気。
叶も叶で、渡りに船とばかりに声を投げ返してくる。
「お前でも忘れ物すんだな」
「忘れ物っていうか、最近ようやく持ち歩くようになったっていうか」
「へぇ。女の涙でも拭くために?」
「それ面白くないから。あと買い食いした時に手を拭く用」
「情緒がない」
「僕には無縁の情緒だね」
「今はあるだろ」
なるほど言われてみれば。
なんせ隣に、同じくらい涙を流した女がいる。
「つうかメイク崩れたかも」
「え、青柳でもメイクすんの?」
「待て。違うからな。少しだから。ナチュラルだから」
「別に気にしないけど」
美人だから好きになったわけでもあるまい。
……あれ、僕は青柳のどこを好きになったんだろう。
今考えたら頭が沸騰しそうだから後にしよう。まぁ一緒にいて心地良いし。話していて楽しいし。いや後にすると決めたんだ。
そういえばナチュラルメイクって別に軽めのメイクじゃないっていう話じゃなかったっけ?
現実逃避の話題を投げようとしたら、それより早く冷えに冷えた声が投げ込まれる。
「つかお前今、青柳って言った?」
「言ってない」
「いや言っただろ忘れたとは言わせねえぞ」
「お前お前って呼んでくる君の台詞でもないと思う」
別に気にしないけど。
「……ゆっ、優至?」
「メイクの前にキャラが崩れてんだよなぁ」
「お前マジで調子乗んなよ?」
「ハッ」
「おいマジで。マジで……」
不意に叶の声が萎む。
何か言おうとし、惑うのが雰囲気で感じられた。
待てば続きが紡がれるのだろうか。前の僕なら待った気がする。前の僕たちなら、待つのが正解だった気がする。
「あのさ、叶」
「……ん」
「もう一回。ていうか改めて。言っていい?」
「おう」
ぶっきらぼうな返事。
僕の知る青柳とはキャラが違う。だけどそれが、青柳叶なのだろう。
きっとこれから、そういう彼女を好きになっていく。今よりもっと。今までよりずっと。
「あ」
「お前マジで」
「いや違う。今のは違う。ちゃんと言葉にした方がいいと思っただけで」
「ならさらっと言えよ。このやり取りが、……このやり取りがさぁ」
呆れ声。
僕も釣られて笑ってしまう。
足は軽かった。椅子から立ち上がって、さっき叶がそうしてくれたように、今度は僕が彼女の前へ。
「好きだよ。こういうやり取り。照れた顔も、照れ隠しの声も、なんでもない何もかも。言い出したらキリがない」
「……ん」
「叶のことが、好きです。僕と付き合ってください」
手を、差し出す。
叶もまた手を伸ばし、微かに迷ってから、握手を返した。
「わ、私でよければ?」
我慢の限界だった。
「なんこれ」
「言うなよ」
「プロポーズみたいになってんじゃん」
「それはお前のせいだろ!」
「でも叶」
「なんだよ!」
「好きだよ。多分、これからもっと、好きになる」
恥ずかしさをかなぐり捨てて、叶の瞳をじっと見つめる。
叶は笑おうとして、しくじった。
笑うなら笑ってくれよ……。
「仕方ねえな。付き合ってやるよ」
「残業付き合う感じのテンションで言うのやめてくれる?」
「残業って。いやでもある意味、残業だろ。なんで好きな女のこと好きだって気持ちすら女に教えてもらわなくちゃならねえんだよ。そんなんだから童貞なんだよ。とっくに気付いて通り過ぎてるとこだろ、それ」
怒涛の苦情。
そこまで言うかと、言葉も出ずに笑ってしまう。
「けどまぁ、付き合ってやるから」
「かたじけねえ」
「その代わり、その……なんだ、私の頼みも聞いてくれるか?」
「なんなりと」
「そのノリやめろ」
「了解」
「待て違うぞ今のは」
分かってるよ。
叶が咳払い。
どうしても冗談めかさなければやっていられない雰囲気を、それでも頑張って引き締め直す。
どんな頼みでも。
たとえ絶対に不可能な頼み事でも、今なら頷き、不可能を可能にする決意を固めてみせよう。それでも多分、不可能は不可能なんだけど。
叶は改めて口を開く前、ポケットに手を入れた。
一緒に吸ってくれと言われたら悩むんだろうな、と苦笑する。
果たして、そんな頼みではなかった。
取り出されたのはスマホ。スマートフォン。我らが高校生の欠かせない相棒。
「……付き合うのはいいんだけどさ」
「うん」
「友だちにも、なってくれませんか」
「う、うん」
「笑うなっ!」
「今のは最早ギャグなのでは?」
「いや、だって、電話ってあれ地味にムズいじゃん! メッセージならなんかこう、ちょっとは軽い気持ちで――」
「童貞かよ」
「お前にだけは言われたくねえよ!」
電話番号を交換したのは一昨日である。
どうして電話番号を交換したのかといえば、メッセージアプリを入れていなかったからで。
なのに今日、その登録を求めてくるとは。
「でもこの二日かそこらでわざわざ入れてくれたんでしょ? 青柳さんにも可愛いところが」
「黙れ。人の勇気を笑うのはクズのすることだ」
「すみません。調子に乗りました」
「お前マジで今日それ二度目だからな。やっていいこといけないこと。茶化していいとこいけないとこ。あるからな?」
「はい。すみません。これから別に送らなくてもいい、どうでもいいメッセ送ります」
「そうしろ」
なんだよ、これ。
またしても笑ってしまい、けれども今度は叶も笑い。
僕もスマホを出して、アプリを開く。どうやら親のアカウントも登録していなかったらしい叶とお互いの画面を見せ合って、あれこれ教えながら友だち登録を完了。
散々ふざけてきたくせに、画面に残るそれに恥ずかしい文章を送る勇気はなくて、無難によろしくとだけメッセージを送る。
「あっ、それ……!」
なんだと思ったら、叶も同じ四文字を送るつもりだったらしい。
いや別に同じでいいじゃん。
思ったけど、画面を見つめて悩み始める叶を眺めている時間は幸せそのもの。これが茶化してはいけないところだろうと自分に言い聞かせて待つことしばし、スマホが震えた。
目を落とす。
「ん?」
「なん?」
「あぁいや」
こんなタイミングで違う相手からのメッセージだった。
既読無視も感じが悪かろうと手短に返信して叶に目を戻すが、画面に向けられていたはずの眼差しがじっと僕に、しかも冷たくなって注がれている。
「一々隠すな」
「隠すっていうか、言うまでもないことで」
「なら言ってもいいことだろ?」
それは確かにそうなんだけど。
ただ本当に、言ったところで話が広がるでもないメッセージである。
「みんなで回るから僕も来ないかって。佐々木から」
「へぇ。何時?」
「何時?」
「だから、何時に行くんだ?」
「いや行かないけど」
何一つ嘘はついていないし、履歴にも隠すようなことは残っていない。
入学間もない頃によろしくを送り合った後は、すぐに一昨日の安否確認にまで飛んでいる。それも返信する前に学校で片付いてしまったから既読を付けてそれきりだ。
その画面を叶に見せる。
佐々木からのメッセージに、僕は一言『ごめん』と返しただけだった。
「ちょい貸せ」
「何を」
「スマホ以外に何がある」
スマホを貸して何になる?
言うより早く奪われた。
「変なメッセージ送らないでね」
「送らねえよ」
言いながら叶が何事か打ち込む。ちなみに叶は両手派だ。
ぺたぺたぺたと格闘している叶を眺めることしばし。
「ん」
と突き返されたスマホの画面に目を落とし、絶句した。
『場所どこ。連れてく。青柳』
絶対に打っていた文字数と文章量が合わないんだけど、そんなことはどうでもいい。
「変なの送るなって……」
「変じゃないだろ」
「いやあの、佐々木って分かる? あの日の駅にいた、あの女子だよ。社交辞令にこんな返信されても困るだけで……」
叶の目が、じっと僕を見ていた。
笑ってはいない。怒っても、呆れてもいない。
ただ少し、僕の自惚れでなければ、それは寂しげだった。
「だからお前は、馬鹿なんだよ」
合流場所は第二体育館の下だった。
そこはピロティになっていて、春頃には心地良い場所だったけど、今の時期に長居するところではない。
それで急いで顔を洗ってきたのに、意外と人がいる。
しかも開会式終わりで人通りがあるわけでもなく、立ち止まって話している人が多い。その手にはかなりの確率でソフトクリーム。
目を走らせれば、第二体育館へと続く階段の下で移動販売をしている三年生の姿があった。
ちょうど開会式が行われた第一体育館からの帰り道でもある。冷房が効いた体育館から出てきて、外の熱気に晒される通路を抜けた先に、冷たく甘いアイスクリーム。なるほど商売が上手い。
ところで、あの移動販売セットを持った三年生は開会式に出席していたのだろうか。
開会式が終わってから準備するのでは最大の商機を逃す気がする。
三年生、やはり強かだ。
「あっ、おーい! ミッキー!」
耳馴染みのある声。
はたと目を向け、見慣れた面子を見つける。
津久井に佐々木、圷と金田。
「あれ、下川は?」
「って、青柳さんは?」
僕と津久井が口を開いたのはほとんど同時だった。
とはいえ立ち話するには距離がある。ちょこちょこと小走りする仕草で歩いていくと、それを出迎えるかのように金田が苛立たしげに零した。
苛立たしげに。
「彼女と回るんだと」
「えっマジか」
「中学の頃から付き合ってたらしいね」
津久井も津久井で、言外に知らなかったと言っている。
そうだったのか。なんか別行動が多いとは思っていたけど、あの下川が。……あの下川が?
「いや意外でもないか」
「まぁ意外性はない」
「だとしても裏切り者だ!」
金田のテンションが高い。
でもいいじゃん、そこに佐々木いるんだし。一緒に回る流れみたいだし。
その佐々木は僕を見返し、それからきょろきょろと辺りを見回す。そしておずおずと口を開いた。
「……で、その、青柳さんは?」
「あ、ごめん。あお……あー、叶は来ない」
連れていくとメッセージを送った張本人が来ないとはどういうことか。
怒るようなことでなくとも疑問に思うのは当然であり、圷が言葉を引き取るように言ってきた。
「なんで?」
「あー、いや、その、メイクが崩れたので」
「……なんで?」
金田の目が怖い。
助けを求めて津久井を見るが、向こうは人違いだろうとばかりに別の誰かを探している。別の誰かなどいない。気付いて、咳払い。
「まぁ事情がありそうだし詮索はやめておこう」
「助かる」
「けど三木、開会式はどうしたんだよ。強制参加なんだけど。一応」
圷さん、今詮索はやめるって話になったじゃないですか。
何もかもを悟ってしまった金田が睨んでくる。睨むどころじゃない。詰め寄ってくる。
「みぃーきぃー!」
「いや違うんだよ! そういうんじゃなくて!」
「そういうんじゃないの?」
佐々木さん? なんであなたまで追撃してくるんですか?
「……いやまぁ、なんといいますか、そういうのですけども」
「俺はミッキーにまで負けるのか。俺はミッキーにまで負けるのか……!」
「最大限の同情を返したいけど僕に失礼すぎるよ?」
「まぁ驚きの展開ではあるよね」
「誰より僕が一番驚いてる。いややめようこの話」
「だな。本人いないとこでする話でもない」
流石に僕の恋愛事情に興味などあるまい。
圷が半ば強制的に話を終わらせ、これ見よがしに辺りを見回す。
「ここ暑いし、そろそろ行かない?」
「それもそうだな」
津久井が頷いて、一行は冷房に吸い寄せられるように屋内へと歩いた。開放厳禁のドアをくぐるなり誰からともなく口を開き、自然と歩みも遅くなる。
どこを回るかも事前に決めていたわけではないようで、話題の中心はそれだった。
そして今ちょうど一階にいるし、一階から回ろうという話になる。一階の半分は三年生の教室で、もう半分は特別教室棟の方で部活動がメインになって出店や出展をしていた。
クラスと部活動以外の誰がどうやって場所を確保できたんだと思っていたら、なんでも我が校には同好会があるらしい。初めて知った。
軽音部とは別のバンド同好会なるものがプラスチック楽器の展示と体験会をやるとのことで、佐々木がこれに興味を示している。となれば金田も俄然乗り気だ。そもそも行き先も決めずに歩いていたのだから却下する理由もない。
ただ佐々木曰く体験会は午後開催とのこと。同好会メンバーも二、三年生ならクラスの方の当番がある。その都合だろう。
「ミッキーは? なんかねえの?」
出し抜けに声を投げてきたのは金田だった。
どうやら希望を口にしていなかったせいで気を遣われたみたいだけど、肩を竦めて返すしかない。
「ないかなぁ。強いて言えばワッフルかな? 三年のC組だったかな」
「めっちゃ調べてんじゃん」
「いや準備してるとこ通り掛かっただけだよ。それで覚えてた」
「あー、青柳サンは? 誘わんかったの?」
どう呼べばいいのか困るような、そんな調子で圷が言ってくる。
言われるがまま記憶を辿るが、あれは果たして誘ったにカウントしていいのだろうか。
「一応声はかけたよ。普通にスルーされたけど」
「いやなんで。付き合ってんじゃないの?」
「あぁ違う。その前。話の流れで話題に上げただけだったから」
言った途端、空気が変わった。
気のせいか足取りまで遅く……いや、現実に圷が足を止めて僕を見てくる。思わず僕も足を止めてしまった。まじまじと顔を見てしまう。
どこか怒ったような、呆れ顔。
「それは後でちゃんと誘い直せ」
「そういうもんですか」
「そういうもん」
僕と圷、恋愛経験など比ぶべくもない。
叶と二人でワッフルを食べに行く姿は想像できないけど。まぁ実際に誘って叶が頷くかどうかはともかく、後で話題に上がった時に誘える口実くらいは残しておくのもいいかもしれない。
状況が変わって、関係が変わった。
らしくない、の一言で片付けるわけにはいかなくなった変化に、ちゃんと向き合っていくしかない。
「ていうか、サッカー部も何か出すんじゃなかったっけ?」
僕たちは僕たち、彼らは彼ら。
変な空気を払拭するように話を振れば、金田も何かしらは察してくれたのかテンション高く応えた。が、すぐに頭を振る。
「や、うちは来ても面白くねえと思うわ」
「サッカー部は野球部とかと一緒なんだっけ?」
津久井の言葉に金田がコクコクと頷く。それは知らなかった。
「ミニ縁日やってんだけど、どっちかってーと子供向けだからな。ほんとはグラウンドにテント張ってって話だったらしいのに、暑くて危険だとかで部室棟の前になるし。俺らが行って楽しいもんでもないと思うわ」
縁日か。
僕の家の方では夏祭りは夏祭り、少し離れたところの花火大会は花火大会で、実のところ縁日と呼ばれたイベントはなかった。そもそも縁日って厳密にはなんだっけ。
ともあれ子供向けと言うからには射的やボール掬い的なものだろう。高校生に準備できるものとなると尚更限られそうだ。
「あとは……と、そういえば体育館は? ステージはもう始まってるんだよね」
「漫才コント大会だって」
冷たく即答したのは圷。
まぁうん、高校の文化祭で行われる漫才とコント。見なくていいというか、見ない方がいいだろう。
しかし話が堂々巡りしてきた。
「那絵香は?」
「えっ?」
「あぁえっと、体験会は午後からだったよね。その前にどこか行っていきたいところは?」
だからといって、津久井の話の運び方はいつになく性急だ。
不意に話を振られた佐々木も戸惑っている……いや、慌てている?
「え……あっ、お化け屋敷だって、お化け屋敷!」
そんな高校生がテンションを上げて喜ぶものでもないだろうに。
とはいえ普段なんでも上手くこなしている津久井の妙な調子に何も感じないでいられるほど鈍感でもない。それに反応した佐々木の露骨すぎる誤魔化しにも。
我知らず傾げかけた首を、まるで肩凝りでも思い出したかのように回す。
「ああいうのって本当にあるんだな」
結局、僕の語彙から出てきた言葉はそれだけだった。
三年D組。教室を丸々使ったらしいお化け屋敷で、ドアの前には看板とともに受付役らしい女子生徒が座っている。本当にアニメで見たそのまま。アニメが現実に即しているのではなく、現実の側がアニメに寄せた結果だとは思うけど。
「おっ一年ズ~!」
そして話しながら歩いていけば、向こうとて嫌でも気付くだろう。
「お化け屋敷見てくかい? 今なら空いてるよ~!」
幸か不幸か、ここは縁日の会場ではなく学校の校舎。
廊下は向かいから来る人とすれ違うには不便なくとも、面と向かって話しかけられておいて気付かなかったで押し通すには無理がある。
「それって売り文句にしていいんですか」
何故か返事をしないでいる津久井と佐々木に代わって口を挟む。
「まだ一般開場前だからねー。中の人たちも暇だから遊んでってよ」
「言っちゃダメじゃないすか」
「いいじゃんいいじゃんタダなんだし」
あれ、そういうものなのか。
飲食系は有料だろうし、それに合わせて料金を取るのかと当たり前に思っていたけど、言われてみると受付の机にはレジに相当するものがない。
「いいんじゃない? 行くとこなかったんだし」
圷がダメ押しの言葉を口にすれば、今になって怖いもの苦手なんで、とか言い出しても却って押し切られそうな雰囲気すらある。
別に苦手ではないけど。
そもそも高校生が教室でやるお化け屋敷だ。
教室を丸々使ったといっても、普段過ごしている景色を思い返せばお化け屋敷には狭すぎる。
言うまでもなく通路もかなり狭いようで、まだ行くとも言っていないのに受付の先輩が面白がるように笑いかけてきた。
「はいこれ、懐中電灯。二人ずつ入ってねー。まぁ中で一緒になっちゃってもいいんだけどさ」
それも言ったらダメなのではないか?
脳内に浮かんだツッコミを口にしないよう我慢していたら出遅れた。
僕たちは今、五人組。先輩が提示したルールは、二人ずつ。
まぁ僕は構いませんけどね、と言うつもりだったのに、いざ最後尾で三年D組の教室に入る段になると思わずにはいられなかった。
いや、何か違くないか、と。
どうして僕の前に津久井と金田がいるんだろう。勿論、僕が最後尾なのだから前に四人がいるのは何も不思議ではない。
が、どうして二人ずつ入ったはずなのに目の前に男二人がいるんだ?
圷よ、どうして津久井を連れていかなかった。
金田よ、勇気を出して佐々木を誘うべきではなかったのか。
「うあわっ!」
「おわっ!?」
「なんで後ろのミッキーまで驚いてんの?」
「いやだって急に大声出すから……」
津久井が照らす懐中電灯の先では圷が佐々木に引っ付いている。そっちか。そういうパターンか。
と思ったら、今度は真逆から登場した仮装の三年生に驚かされた佐々木が圷に引っ付いた。やっぱり何かが違う気がする。いやこれはこれで正解なのかもしれないけど。
――なんて他人事を決め込んでいたのが間違いだったのだ。
耳元に、ふっと生温かい吐息。
「ねぇ、ミッキー?」
「ひょっ!?」
「おいミッキーうっさいぞ!」
「待って違う! いや待ってください。最後尾狙うのは聞いてませんって」
わざと前の四人を素通ししやがったな。しかも金田が一度ミッキーと呼んだのを聞き付け、わざわざ狙い撃ちしてきたのだ。
侮れない、三年生。
……ところで、これはお化け屋敷なのか?
懐中電灯こそ渡されたものの、なくても足元や伸ばした手の先は見える明るさ。机とカーテンで仕切られた道を通りながら、時々出てくる仮装したキャストに驚かされるだけのアトラクションだ。
先頭を歩いていたら首が落ちる人形とか用意されているんだろうか。いくらなんでもそこまで見える明るさではなかった。
そんなことを頭の片隅で考えながら、メインとしては不意打ちに備えて歩くこと数分。
ガラリとドアの開く音が聞こえ、薄明かりに慣れた目を反射的に閉じる。残りの僅かな道のりを慣性で歩いて廊下に出た。目が光に慣れる。
「良いリアクションだったよ~!」
受付の机に座ったままの先輩が上半身だけ振り返って手を振ってくる。
それにペコペコと頭を下げて廊下を歩き始める頃には、お化け屋敷に入る前のぎこちない空気も消えてなくなっていた
「ミッキーめっちゃ楽しんでたじゃん」
「断じて抗議したい」
「もしかして怖いの苦手なの?」
「怖いっていうかビックリだよね? ホラーはホラーでもパニックホラーだよ」
「まぁそれがお化け屋敷だしな」
「けど私も声出しすぎたー。喉乾いてきたかも」
ふと、ずっと理解していたはずの事実を、また思う。
文化祭が始まったのだ。
このほんの十分、十五分だけでも入学前の僕には想像もできなかった光景。あるいは一週間前、二週間前の僕でさえ信じないだろう。
ウォーミングアップを終えたかのように、どこからともなく熱気が高まっていくのを感じる。
遠く響いてくる喧騒。
ここだけじゃない、学校中がお祭り騒ぎ。
すぐ目の前では金田が面白くない冗談を言って、津久井と佐々木だけでなく圷も笑っていた。僕自身の笑い声も聞く。
いいな、と素直に思えた。
楽しいと。
圷には感謝しなければいけない。三年C組の教室を横目に歩く。
明日は叶を誘おう。話の流れとかじゃなくて、ちゃんと。相変わらず二人でワッフルを食べる姿は想像できないけど、ただ歩くだけで楽しいと思う。まぁでも、手は繋げないだろう。流石に。
そんなことを一人、四人の後ろで考えていた。
だからだろうか。
ちょうど階段を下りてきた横顔に、意識は吸い込まれていった。じっと見つめてしまう。
二者択一の廊下を、特に理由もなく曲がったのだろう。
何も予想などしていなかったであろう目が直後、僕を見つけた。目が合う。口が開かれた。
「うわ」
「おい待て」
「うわーマジかー」
青柳叶が、心底げんなりした声を吐いた。
そう何回も顔を合わせたわけでもないはずだけど、前を歩いていた四人も気付いて足を止める。
その四人と後ろの僕に向け、叶が変わらぬ声音で言い捨てた。
「なんでここにいんの?」
「こっちの台詞だけど?」
「やっぱ上行くべきだったか、間違えたな」
やっぱ、とは?
僕たちがいたのは二階だ。上に行けば一年生、下に行けば三年生。知り合いに会う可能性を減らすために下を選んだ結果なのだろう。
「暇そうだね、叶」
お見通しだぞ、と言外に訴える。
叶はバツが悪そうに視線を逸らすも、諦めてため息を零した。
「いや実は忙しいんだ」
「なら付き合おう。どこに行く?」
「お前なんかウザいな」
「ひでぇ」
と、呟いたのは金田である。
じろりと零下の眼差しが翻り、声の主へと突き刺さった。
「あ、す、すんませんした!」
「舎弟じゃん」
続いて呟いたのは圷。
一見して怖そうな圷と、ちゃんと怖い叶。二人の組み合わせは少し怖かったけど、衝突らしい衝突も起きずに話は進んだ。
「あっ、ど、どうかな、青柳さんも一緒に!」
佐々木が助け舟を出してくれたからだ。
いや、そもそも圷との間に不穏な空気が漂ったわけでもないが。
「いいよ、邪魔だろ」
「じゃ、邪魔なんかじゃ――」
「いいじゃん、お言葉に甘えたら。僕もちょうど用があったんだよ」
「用?」
今度は津久井が振り返ってくる。入れ替わり立ち替わり忙しい人たちだ。
「折角だしワッフル食べに行かない? すぐそこなんだよ」
「ちょっ、三木……!」
「あー、なんか言ってたな。そんな好きなん?」
「いや別に」
なんなんだよお前は、とでも言いたげに圷が見てくる。
いや違うんだ、と釈明するより話を進めてしまう方が早かろう。
「私そんな甘いの好きじゃないんだけど」
「大丈夫、僕もだ」
「ならなんで」
「ワッフルって食べたことないんだよ」
「えぇっ!?」
何故か異様に驚いている佐々木はさておき、どうなんだと叶を見やる。
叶はしばらく僕たちを見やった後、今度こそ諦観を滲ませた。
「で、本音は?」
「後で誘い直せって言われたんだけど、君と二人でワッフル食べる光景は想像できないかな」
「ハッ! そりゃ同感だな」
というよりも、だ。
もしも二人で食べるとするなら、それは文化祭の店ではなく、どこかの落ち着いた喫茶店か何かになるだろう。ファミレスやチェーン店で向かい合う姿もあまり想像できない。
なにせ二人きりでいるところを誰かに見られるのは、どうにもまだ気恥ずかしさに勝てそうになかった。いっそ個室でなら、気恥ずかしさも忘れられるのかもしれないけど。
「つうわけで、邪魔していいか?」
そう言った叶は、ちらりと僕を見て苦笑い。同じことを思ったに違いない。
「ぜっ、全然いいよ! 邪魔じゃないよ!」
急に声を張り上げた佐々木に、叶が小さく笑っている。
返された声は、いつになく優しげなものだった。
「それじゃ、そうさせてもらうよ」




