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煙吐く少女  作者: 飯島鈴
16/16

エピローグ2

 文化祭には開会とは別に開場がある。

 開会から少しの間を置いて校門が開放され、一般客(といっても大半が家族や卒業生だけど)が来場する。これが要するに開場だ。

 こうなると人通りも一気に増え、制服に身を包んだ生徒といえど我が物顔はできない。

 僕たちは六人という大所帯。

 単純に歩きづらいし、そもそも僕と叶は津久井たちとは若干の距離がある。いや叶に至ってはちゃんと顔を合わせたのも初めてだ。良くも悪くも、ずっと一緒に回らなければいけないような仲ではない。

「んじゃ行くわ」

 と、叶が不意に言ったところで、唐突であることに対する驚きはあっても、不義理を感じたり反対に何か嫌な思いをさせたのではと不安がったりすることもない。

 僕がそちらに同行しても、そこに違和感など抱かれなかった。

 どちらかといえば叶の方が意外そうな反応を見せ、それと同時に困ったような顔をしたくらいだ。

「付き合ったからって一緒にいなきゃいけないわけでもないだろ」

 そう素っ気なく言うのが叶なら、僕も僕だ。

「言わなきゃいけないほど勘が鈍いわけでもないでしょ」

 それでしばらく、二人で過ごした。

 どこを見て回るでもない暇潰しである。

 ただ人通りが増え、しかも多くが私服姿の来場客だったこともあって。特別教室棟二階の空き教室には戻らなかった。机に乗って行き来しては見咎められるし、子供なんかが入っていいところだと勘違いすればトラブルの元になる。

 遠路遥々三階、一年F組の教室まで足を運んだ。

 先客がいるかと思ったけど、意外にも誰もいなかった。まぁ教室のほとんどが机と椅子に埋め尽くされ、その椅子も机の上に逆さで置かれているとなると座る場所にも事欠く有様だ。人目を避けるような生徒ですら寄り付かなかったのも頷ける。

 ちなみに僕と叶は一番手前にあったB組の椅子を勝手に借りて座り込んだ。

 昼にはどこか食べに行こうかと考えていたけど、その必要もなかった。ワッフルが、……というかワッフルに乗せられていたホイップクリームが胃にずっと残っていたのだ。

 そのうち見回りに来た一年C組の担任には苦言を零されたけど、叶が

「煙草は吸ってないっすよ。嗅ぎますか」

 と両手を広げてみせたら苦い顔をして去っていった。このご時世、男性教師が女子生徒の身体に顔を近付けるのはリスクが大きすぎる。

 かといって僕たちも快適に過ごしていたかといえば、そんなことはない。

 単純に窮屈だし、特別教室棟の空き教室に比べれば喧騒も近く、時には何かあるのかと覗きに来る人もいる。

 そんなわけで気を抜くに抜けない時間を過ごしていたものだから、ふと震えたスマホを手に取らない理由もなかった。

「なん?」

 叶があまりに短い声で訊ねてくる。

 僕はその要領を得ないメッセージを繰り返し読みながら、どうにか噛み砕いた。

「暇なら来てくれって。金田が」

「用件は」

「んーよく分かんないけど、何かの助っ人かな。サッカー部と野球部と、多分他の部活も共同でミニ縁日やってるっていうから」

「パス」

「ただ場所が妙なんだよね。正面玄関だって」

「何が妙なん?」

「ミニ縁日の会場は部室棟の方だって聞いてる」

「へぇ」

 恐ろしく興味がなさそうな声だった。

 というか実際、興味など微塵もないのだろう。行くなら行けば、とでも言いたげな眼差し。何か忘れてるんじゃないですかね、青柳さん。

 そういう僕はといえば、気が付くと視線を彷徨わせていた。

 迷いを振り切るように曖昧な声を発する。叶の怪訝な顔に意を決した。

「一緒に来てくれない?」

「なんで」

「正直、金田の頼みを聞くくらいなら叶とここにいる方がいいし」

 それなのに頼みに応じようとして、しかも叶に付き合えというのは我儘だ。

 大前提、その自覚はある。

 ただ、それだけでもないのが本音だった。

「けど今朝のは、こういう付き合いをちゃんとしろって怒ったんじゃないの?」

 今朝の、では言葉が足りなかっただろうか。

 何かあったか、と胡乱げに言いかけた頃になって、叶が何かを思い出した。

「怒ったって、あれのことか? 佐々木からの」

「それ」

「そういう意味じゃねえんだけど……」

 そういう意味以外にどういう意味があったというのか。

 来年になれば学年からして別々。叶と付き合っていれば余計に浮くわけで、そうならないようにクラスメイトや同級生と上手くやれと言っているのかと思ったが。

 実際、津久井たちと一緒にいた時の叶は随分と我慢していた。

 それでも金田は怯えていたし、圷は時々頭痛を堪えるような顔を覗かせていたが、あれでかなり我慢して穏やかな口調や態度を意識していたと思う。

「違ったんだ」

「お前は何か大きな勘違いをしている」

「そうか。じゃあ勘違いしないために聞くんだけど」

 叶の目を見る。

 自然、叶も見返してきた。

「別に恋人ごっこがしたいわけじゃなくて、純粋に叶と一緒にいたいと思うんだけど、僕は。……叶は違う? そんな一緒にいても飽きるわって感じなら、僕は全然――」

「んなこと言ってないだろ」

 なら、どんなことを言っているのか。

 答えは焦らない。

 少し前の僕のように、どこか視線を彷徨わせていたから。

「言っとくけど、お前のダチにまで気ぃ遣う気はねえからな」

 その割に津久井たちには優しかったけど。

 まぁ、言わぬが花か。

「ダチって言い方、すごく不良っぽいね」

「うっせえ」

 冗談めかして言い合い、F組の教室を後にする。

 借りていた椅子を元に戻し、金田にメッセージを返すのも忘れずに。



 言うまでもないことだが、来場客は校門から入ってきて正面玄関を必ず通る。

 必然として、正面玄関は人でごった返していた。

 こんなところに呼び付けてどうする気なのか。どうでもいい用件なら文句の一つも言おうかと脳裏に転がしてしまうほどには、金田を見つけるのに難儀した。

 というか、だ。

「なんで外にいんだよ……」

 正面玄関は正面玄関でも、下駄箱がある屋内ではなく日差しがすぐそこまで迫っている屋外だった。まさかと思って出てこなければ業を煮やした叶が帰ってしまうところだったではないか。

「悪い悪い。先輩がなぁ」

「すまねえな一年……って、上履きのままかよ」

「念のため確認するだけのつもりだったんで」

 言いながら声がした方を見やる。

 先輩らしき人物の姿なんて見えていなかったが、それもそのはず。金田と、そして午前中に一緒だった津久井と佐々木、圷も一緒だった。その四人に隠れるように、男子生徒が一人、座り込んでいる。

 その足元には小さなビニールプール。中にはお茶からコーラ、およそ飲みたいとは思わない変なパッケージのジュースまで様々詰まっている。

「用件はそれ、……ですか?」

「おう。売れ行きがめちゃくちゃ悪い」

「後輩から金取んのかよ」

 ほとんど反射的に呟いていた叶に一斉に視線が集まった。

 咄嗟に金田が口を開く。

「すんません、こういう奴なんすよ」

「あーいやいや、気にせんで。実際まぁ知らん後輩呼び付けることじゃないわな」

 割としっかりめの金髪にした先輩は、チャラそうな見た目に反して話が分かる。

 どうせ金田が先走ってメッセージを寄越したのだろう。

「でも意外ですね、こんな熱いのに」

 時刻はそろそろ三時に近い。

 ピークは過ぎたはずだが、そんなことお構いなしの暑さだ。酷暑だ。いや猛暑日を超える暑さかどうかは知らないけど。

 とにかく今まさにビニールプールで冷やしているジュース販売など書き入れ時だろう。

「それなんだよなー。俺らもさー、絶対売れると思ったんよ」

「けどここ、入口だろ? 今まさに来ましたって人は買わないらしい」

 説明を引き取った津久井が肩を竦める。

 言われてみれば、だ。

 ほとんどの来場者は車だろうし、少し離れた駐車場から来るにしても喉が乾くほどの距離ではない。そもそも校舎のあちこちで飲食店が開業中。家族や先輩後輩に呼ばれて来たなら最優先に行くはずで、そうなると余計にジュースなんて買わないか。

 答えが明かされてからの推理は容易い。

「だったら移動……あーいえ、ビニールプールですか」

「そう。水入れる前は持ち運び便利だったんだけどな。一度入れちゃうと持ち運びなんて無理」

「捨てたらいいんじゃないすか?」

「できたらやってる。でもタケちゃんに無理言って水道使わせてもらったんよー」

 タケちゃんって誰だよ。サッカー部かどこかの顧問か?

「……ん? あれ、先輩ってサッカー部すか?」

「え? そうそ、三年。なして?」

「あぁいえ、ミニ縁日って話を聞いてたんで」

「あーそれね。あっちも売れ行き悪いんだわ。場所が悪い。そもそも子供が少ない。んで捌けないから出張販売」

「それは……御愁傷様です」

 この説明、金田たちにもしたのだろう。

 改めて見やれば全員、手にはペットボトルなり缶なり持っている。

 圷と佐々木が手にしたペットボトルには中身が残っているけど、金田はジュースの缶を躊躇いなく傾けていた。もう空なのだろう。反対に津久井の缶は中身が見えないものの、零れないように丁寧に持っているのが見て取れた。

「じゃあまぁ折角来たんで、一本買わせてもらいます」

「マジ感謝」

「叶は?」

「何あんの?」

「えーっとねー」

 絶対に僕にしか聞いていないのだが、そんなこと知る由もない先輩がビニールプールをがしゃがしゃと回し始める。

「ていうか僕も手入れていいすか」

「お、いいよいいよ」

 何故か楽しげな二つ返事。

 有り難い話だとしゃがみ込んで手を入れた瞬間、やけに楽しげだった理由を知る。

「ぬっる」

「氷なんてないから一瞬よ」

「あ、やっぱ私いらねえわ」

「それはずるい」

「ここまで付き合ってやっただけ感謝しろ。つか暑ぃ」

「ほんとね。熱中症だけはならないように」

「先輩は大丈夫なんすか」

「もう勝手に飲んでる」

 それは本当にずるい。

 思い返せば、金田たち四人も立ったままだ。これが冷たかったら佐々木くらいは手を突っ込んでいそうなものである。

 そして先輩が座っているからか、スカートの女子組は少し離れて立たざるを得ない。

 色々重なり合って、なんだか奇妙な構図になっていた。僕も座り込んでいるのは居心地が悪い。

 仕方なく先輩に倣ってがしゃがしゃしながら漁り、ちょうどいいものを見つける。

 レモンティー。

 ホットでもアイスでも、中途半端にぬるくてもまぁ不味くはない優秀なやつ。

「これ幾らですか」

「百円でいいよ」

 二八〇ミリリットルで百円。『でいいよ』と言われるには若干首を傾げる値段設定だ。まぁコンビニや自販機で買うかと聞かれたら買わないだけで、何もかもが値上がりの今の時代には良心価格なのかもしれない。

 それに今回は最初から買わないという選択肢がなかった。

 言われるがまま支払おうとポケットに手を伸ばしかけ、我に返る。

「ごめん叶、ポケットから財布……の前にハンカチ取って」

「馬鹿かよ」

「すまねえ、ぐうの音も出ねえ」

「ほんと……」

 呆れながらもスカートを折りながら膝を曲げ、僕のスラックスのポケットに手を伸ばしてくれる叶。

 ニヤニヤと笑う男の顔が視界の端に見えた。

「なんすか」

「付き合ってんの?」

「……まぁ」

「意外」

 でしょうね。

「おいこいつに奢らせようぜ」

「青柳さーん、一応先輩なんすよー」

 午前中で少しは慣れた金田が涙混じりに言う。九割方は冗談だが、残りの一割は本当に心の中で泣いていそう。

「悪い悪い」

「勘弁してくださいよ、こいつ不良なんすから」

「あ?」

「いやそこは怒るとこじゃないでしょ」

 どう考えても事実なんだから。

 あまり言いすぎると引っ張り出してもらえたハンカチがそのまま地面に投げ捨てられそうなので、恭しく頭を下げて受け取らせていただく。そそくさと手を拭いて、それじゃあ次は財布を、と言いかけた矢先にもう自分で取れることに気が付いた。恥をかかずに済んだ。

 財布から百円玉を出し、先輩に手渡す。

 先輩はそれをビニールプールの奥に投げ入れた。ちゃりんと音。僕からは死角になっていただけで、そこに小銭入れか何かを置いていたのだろう。

 もう一度、今度はあまり手が濡れないようにビニールプールに手を突っ込んで、レモンティーの小さいペットボトルを頂戴。財布とハンカチを仕舞って立ち上がる最中、何気なく小銭入れを探してしまう。

 ちらりと見えた。売れていないという割には小銭が入っている。そういえば音もそれなりだった。

 まぁ、気にしたところで意味はない。

 そう視線を外した時のことだった。

「……高梨?」

 ふと呟かれた声に、外したばかりの視線が吸い寄せられる。

 声の主は先輩だった。どこかを……いや、校門の方をじっと見ている。

 タカナシ。人の名前だ。目を向けたところで意味なんてないのに、反射的に視線の先を追ってしまった。

 直後、息を呑む。

「あいつ……」

 叶が呟いている。

 思わず自分の目を疑っていたけど、それで確信した。

 ジュウゴだ。

 制服を着た、どこからどう見てもこの高校の生徒である男子。慣れた足取りに見えるのも、その先入観があってのことだろう。仮に初めて来たとて、校門から正面玄関までの道のりに迷う余地などない。

 真っ直ぐと見据える視線は、だから必然、僕たちを見つける。

 表情が変わった。

 慣れた足取りが僅かに狂い、すぐに元の歩みを取り戻す。それでも確かな証だ。向こうも僕たちだと気付いた。

 何を言えばいいのか。

 幾らでも言うことなんてあったはずだ。

 それなのに口を衝いて出た言葉は、自分でも笑ってしまうものだった。

「なんだ、ジュウゴか」

 たったそれだけをようやく零せた時、ジュウゴはすぐそこまで来ていた。呟いた声も聞こえたらしい。

「なんだとはなんだ。随分だな」

「いや、てっきり小鳥遊びの人かと思ったんだよ」

 いつか現実でお目にかかりたい苗字ナンバーワンと言って過言はなかろう。

「小鳥遊び? あぁ、なんだ、誰かも言ってたな。悪いけど高い梨だよ。果物の梨」

「残念」

 本当に残念だった。

 これでもう、冗談が尽きてしまった。

「ちょっ、え……何? 知り合い?」

「なんすか先輩、知ってるんですか」

「あっ、あーえっと、うちの三年。けど二年の途中から……」

「ん? あれ、大島か、お前。髪染めてるから分からなかった」

「あ、あぁ……」

 金田の先輩、サッカー部の三年生。彼は大島というのか。

 まぁ正直、どうでもいい話だ。せめてジュウゴが僕たちより先に大島某の方に気付いていたら話も違ったのだろうけど、先に僕たちに気付いた。それでも真っ直ぐ向かってきたのだ。

 面と向かい合う。

 高校一年の平均身長を下回る僕では、どうしても目線を上に向けなければいけない相手だ。

 だとしても、と虚勢を張らなければならない時はある。

「文化祭を楽しみにでも来たのか?」

 正面に見据え、笑いかける。

 ジュウゴも笑った。笑い飛ばすように。

「そう見えるか?」

「楽しむ以外、何をしに来たのかと」

「まぁそうだな。お前と叶に用があって来た」

 随分と単刀直入だ。

 いや実際、そんな冗談を交わせる間柄でも状況でもないだろう。

 それでも冗談の一つや二つ、交わさなければいけない気がしたのだ。僕と叶はともかく、他がやけにピリピリしている。佐々木も圷も、篠塚ならまだしもジュウゴの顔までは覚えていないだろうに。

 あぁ、いや、そうか。

 これは僕の失敗だ。他でもない、僕が柄にもなく喧嘩腰になってしまった。それでどういう相手か分かってしまったのだろう。

「少しいいか」

「僕は構わないけど。叶は?」

「好きにしたら?」

 声が、ひどく冷たい。

 その声を聞くまで、気付いていなかった。ジュウゴが来たと分かってから今に至るまで、叶の顔を見ていない。僕より関係が深く、因縁もある。そんなことも忘れていた。

 良くない。本当に。

 冷静にならなければ、と自分に言い聞かせる。

 ジュウゴも静かに視線を巡らせていた。僕と叶、金田と津久井と佐々木と圷、あと大島先輩。七人がどうして今ここに集まっているのかを考えているようだった。

「流石に人前でする話じゃない。外出ていいか」

「よくない」

 言ってから、笑って付け加える。

「あんま言うことじゃないけど、停学の瀬戸際なんだよ。中抜けは困る」

「停学? どうして」

「どこかの不良たちに付き合ったもんで」

「……そうか」

 沈痛な面持ち、というのだろうか。

 責任を感じているかのように、奥歯を噛んだのが見えた。

 それで思わず、笑ってしまう。

「……?」

「いや、悪い、ジュウゴ。あんたって多分、良い奴だろ?」

 何か言いかける、それを笑い飛ばして言葉を続けた。

「何か事件起こした時に、不良仲間がテレビや新聞の取材に答えるやつだよ。あいつは良い奴だった、ああ見えて根は良い奴なんだ、って。そういう良い奴だろ、あんた」

「嫌味か?」

「違う。僕みたいのにタメ口利かれて嫌な顔一つしないのがすごいなって」

 暑い、暑い、やけに暑い。

 気持ち悪い汗を恨むように空を見上げ、これほどまでに暑くしておいて素知らぬ顔の青さに腹を立てる。

 身勝手な話だ。

 視線を下げ、前を向き、そして辺りを見回した。

「で、どこでもいいならあそこはどう? ちょうど駐輪場がある」

 ちょうどってなんだよ、と自嘲が漏れる。

 そんな僕を、誰がどう見たのかは知る由もない。

「いっ……いやちょっと、待てって!」

 そう大声を上げたのはジュウゴでも叶でもなく、圷だった。

 じろりと目を向ければ、一瞬怯んだように口を噤みかけたが、すぐに慌てて言葉を重ねる。

「んなの付き合うことないだろ! ていうかなんだよ、停学って! 三木は何も――」

「圷だっけ? ちょっと黙って」

 ぴしゃり、吐き捨てたのは叶である。

 ため息が漏れそうだった。

「言い方」

「や、だって関係ないじゃん」

「関係なくないから。一応。篠塚に因縁付けられそうになってるし」

 そこまで言って、ようやく圷に目を戻せる。

「圷も。別にそんな騒ぐようなことはない。停学に関しては喫煙の場所に居合わせたのが原因だし、あとジュウゴだって何も仕返ししに来たわけじゃないんだから」

「なんかめっちゃ余裕だけど喧嘩になったら秒で負けるだろ、お前」

 なんで君は余計な茶々だけ入れてくるかな。

 今度は我慢できずにため息をついた。違うな。我慢せずにため息をついた。

「僕は喧嘩で負ける。ジュウゴは社会的に負ける。だから殴らない」

「そんな当たり前の計算もできない奴だったら?」

「それなら――」

 わざわざ話すようなことかな、と振り返って、言葉を失う。

 あぁ、うん。

 これは僕の失敗だった。僕の過ちだった、と言うべきかもしれない。ほとんど同じ意味だけど。

「……もし仕返しか何かしに来るなら、学校じゃなくて駅で待ってると思うんだよね」

 一度殴られ、みっともなく床に這いつくばった。

 そりゃあ誰だって心配もする。根拠も何もなく余裕な顔したところで、虚勢にもならない。

 だけど、だからって逃げ続けるわけにはいかないのだ。

 ジュウゴを見やる。

 実際に頭を下げたわけじゃないけど、どこか詫びるような面持ちだった。

「無理言ってるのは分かってる。でも流石に、こんなとこでできる話でもない」

「だからいいよ、別に。場所を変えよう」

 叶には後で謝るしかない。謝れば済む話とも思わないけど。

 他の面々に関しては……自分で言ったことを翻すようだけど、そもそも関係ない。心配させるのは心苦しくとも、そこまで気を遣っている余裕はなかった。

 だから正直、驚かされた。

「悪い、三木。それと高梨さん、でしたっけ?」

 不意に口を挟んできたのは津久井だ。

 一歩、二歩と踏み出して、僕とジュウゴの中間に立つ。

「俺も同席していいですか。そこで何を聞いても、口外はしません。けど何かあるようなら、止めに入ります」

 そこでちらり、僕の方を見た。違う、叶を見たのだ。

「喧嘩は慣れてないけど、二対一、三対一なら止められる。それでどうだ」

「……はぁ。いいよ、私は。そもそも諦めてんだから。やめろって言って耳貸すようなやつなら今頃こんなことになってねえ」

「悪いね」

「改める気になってから詫びろ」

 改める気にはなれないから、悪いと思っているのだけど。

 ため息は零さない。

 それは叶のものだろう。

「じゃあ、ちょっと行こうか」

 笑って目を向ける。

 ジュウゴは重苦しいほどの足取りで踵を返した。

 僕が続けば、叶も横に並ぶ。津久井は佐々木と圷に一言、二言告げてから小走りしてきた。

 ほんの半日前には、楽しく文化祭を謳歌していたというのに。

 たとえ忘れて笑ったとて、因縁が消えてなくなるわけではなかった。



 学校の駐輪場は駅のそれと比べてずっと小さい。

 全学年合わせれば四百か五百人くらいにはなる生徒数だが、電車通学が大半を占めることを考えるとこれでも十分足りるのか。

 中に入ったところで駅と違って隠れられるスペースもないから、ジュウゴも迷わず裏手へと回った。

 駐輪場の裏には何もない。

 ただ一応、敷地内というだけの場所。

 そこで足を止めたジュウゴが振り返り、何歩か遅れて立ち止まった僕たちに向かい合う。

 叶は僕の隣まで来て、津久井は更に何歩か後ろ。

「前置きはいらないだろ? 単刀直入に言う。ケンジが自首した」

 自首。

 高校の敷地で聞かされるには随分な言葉だ。津久井が息を詰まらせた音が聞こえたほど。

「何かやらかしたの?」

「無免とかその辺りだな」

「聞いた話だね。新しく何かやったわけじゃないんだ」

「篠塚さんと連絡が付かなくなったらしい。それで……」

「無免許運転しました、なんて自首されても警察の方が困りそうだけど」

「だとしても、だ」

 そこまでは予定調和に等しい会話だったのだろう。ジュウゴの言葉に淀みはなかった。

 あくまで、そこまでは。

 続く言葉を口にしようとしたジュウゴが、しかし僅かに言い淀む。一度開いた口を閉じ、また開いて、何秒かしてようやく声が出された。

「いつか警察が来るかもしれない。自分のしたことが何かに繋がってて大きな犯罪に巻き込まれてるかもしれない。そうやって怯え続けるのは、辛かったんだろうさ」

 まるで自分自身もそうであるかのように絞り出された声。

 ただ、それだけなら学校まで来る理由にならない。ジュウゴは制服を着てきた。学校に入ってしまえば目立たないが、それは逆に学生という身分を明かすことになる。教師陣にも顔を覚えている人はいるだろう。

 警察や何かから逃げ隠れしたいなら、まず避ける行動。

 少し迷ったが、気を遣う仲でもあるまい。

「そういうあんたは何しに来たんだ? まさか職員室に自首するのか?」

「言ってくれるじゃねえか。……や、けど、それもいいのかもしれないな」

 ジュウゴはからからと声まで上げて笑う。

 笑うだけ笑って、そしてすっと表情を消した。

「まぁでも、今日来たのはケジメんためだよ。変な意味じゃねえぞ。俺の中のケジメだ」

「この炎天下、付き合われる僕たちは堪ったもんじゃない」

「違いない」

 承知の上でも付けたいケジメ。

 それは一体なんだろう。純粋に興味があった。彼が何を言うのか。今、ここで。

 しかし期待は裏切られた。

 何を言うでもなく、ジュウゴは頭を下げたのだ。僕や叶とは背丈の差がある。その僕たちからでも後頭部を見下ろせた。

「すまなかった。俺らが……、俺が巻き込んだ。本当に――」

「頭を上げて、ジュウゴ」

「いや、だけど……」

 言いかけたそれが不意に固まる。

「そうじゃなくて、僕はその謝罪を受け入れる気はないから。叶は?」

「は? 別にどっちでもいいけど、優至がそう言うなら優至に合わせといてやる」

 強がりでも照れ隠しでもなんでもない、本当にただ言葉通りの言葉だろう。

 頭を下げたままでもジュウゴの葛藤は見て取れた。しばしの間があって、ようやく頭を上げる。僕たちを見据えた。

 口を開かれるより先に僕が口火を切る。

「正直に言っていい?」

「あぁ」

「なんで怪我の一つもしてないの? 叶が顔に怪我してて……あぁいや、叶じゃなくても同じなんだけど」

 僕がここまで八つ当たりを我慢しなければいけなくなっているのは、それが叶だったから。

 でも実際には、それが誰だったかなんて関係ない。

「女の子が顔に怪我してて、なんであんたは怪我の一つもしてないの? 結果、蓋を開けたら、何事もなくてよかったですね、じゃないんだよ。ていうか顔に怪我してて何事もないとか言ってる時点でおかしいんだけどさ。分かるだろ。なぁ」

「……あぁ」

「正直言うと、今すぐにでもぶん殴りたい。殴り慣れてなんかないからろくに痛くもないだろうし、多分僕の方が手を痛めて終わるんだろうけど、そんなこと関係なく」

 反射的に伏せかけた目を、それでも僕に向けたまま佇むジュウゴ。

 言えば今すぐにでも奥歯を噛み締めたであろうと、見据え合ったままの目に見て取る。

 けどまぁ、これは八つ当たりだ。

「でもそうなると、僕は自分も殴らなくちゃいけなくなる。叶が怪我した時、僕は多分、ベッドで寝てた。なんもしなかったのはお互い様で、一方的に殴るのはおかしい。かといって自分を全力で殴れるほど頭もイカれちゃいない。フェアじゃない」

 この苛立ちは、自分自身にも向けたものだ。

 佐々木と圷が絡まれそうになった。あれを見て篠塚に詰め寄ったことに後悔はできない。蓋を開けてみれば間違いも間違い、命知らずも甚だしい馬鹿げた選択だったけど、あの瞬間の僕はに他にできることがなかった。

 でも、そのせいで篠塚は叶を連れていったことになる。

 どうあれ同じ展開になっていたとしても、駅で伸びていなければ肝心な時に一緒にいられただろう。

 それで何ができたか?

 何もできなかったに違いない。何かしても無意味だったに違いない。

 そもそも、全ては可能性さえ存在しなかった空想上の仮定に過ぎない。

「だからって、許せるもんでもないんだよ」

 一発殴って、はい終わり。そんな決着はできない。

 じゃあ殴りもせずに謝罪を受け入れられるのか? 無理だ。僕はそこまで出来た人間じゃない。

「……よく、分かった」

 多分、本当に分かってくれたのだろう。

 というより、向こうはちゃんとした不良だ。仲間に慕われ、何かあったら庇ったり擁護したりされるような良い奴。義理人情の切れ端くらいは言われるまでもなく理解しているだろう。

「けど、せめて、話だけは聞いちゃくれないか」

「なんの?」

「俺と健治の話だ」

 ふむ、と空を見上げた。

 声に出したつもりはなかったけど、我知らず出ていた。

「ちょっと水飲んでいい? ていうか熱中症、大丈夫?」

「今さっき殴りたいとか言った相手の心配かよ。……いや、そういやそうだったな。別に許可取るようなもんでもない。好きにしたらどうだ」

「じゃあ」

 あまりに温い、なんなら握り締めていたせいで熱くなったんじゃないかとさえ錯覚するレモンティー。

 二八〇ミリリットルがやけに少なく感じた。一息で半分が終わる。

「叶も飲む?」

「飲み止しかよ」

「ごめん順番間違えた」

「いいけど」

 投げる距離でもない。

 手渡せば、叶は躊躇うことなく口を付けた。……そもそも直接のキスもしているのだから今更か。急に顔が熱くなってきた。多分、全て、直射日光のせいだろう。

「津久井も無理しないようにね」

「……あ? あぁ俺のもまだ残ってる。いただくよ」

 どうやら律儀に飲みもせず見守ってくれていたらしい。出来た人間だ。津久井ならもっと上手くやったのだろう。

 勝手な想像で悪いけど、すごいな、と素直に感心する。嫉妬する気にもなれない。

「悪い。話の腰を折った。ジュウゴとケンジの話だっけ?」

「あぁ、そうだ」

 小さく笑い、そしてジュウゴは話しだす。

 長い話だ。

 二人の人生を大きく変えたであろう話は、炎天下に突っ立って聞くには大長編すぎる。分かっていたからジュウゴも短くまとめてくれた。

 不要な前置きを全て捨て去り、いきなりハイライトから始まる。

「健治が付き合ってた……や、名前は言わない方がいいか。健治の彼女が他の面倒な奴らに目を付けられたことがあった。健治の彼女って理由でな。その時に助けてくれたのが篠塚さんだった。結局それが原因で別れたんだけど、やっぱり恩には感じてたんだよ」

 ケンジは退学したものの、ジュウゴの同級生。彼女さんの方は今も学校に通っているのだろうか。それなら確かに名前は知らない方がいい。

「あいつは実家が農家でな。一生土いじりなんて嫌だってベタなこと言って、農業高校じゃなくてうち来た奴だった。でも上手くいかなくて、変な奴らに絡まれてボコってたら停学食らって。将来のことなんかろくに考えちゃいなかった。気付いたらどうしようもなくなってたんだよ」

 話を短くしてくれるのは助かる。

 けど一話か二話すっ飛ばしたくらいに飛躍されると首を傾げるしかない。

「だから健治、最初は篠塚さんのこと慕ってたんだ。マジで。健治もベタな奴だなぁって俺も笑ってた。それはそれでいいんじゃないかとも思ってた。けど、全然よくなかった。何もよくなかった。考えなさすぎたんだよな、結局」

 笑うしかない、という顔。声。視線。

 目が合い、心底苦しそうに背けられた。

「叶を無理やり連れてって、嫌がられて殴って。それ見てようやく気付いたんだよ、俺らは。……分かるだろ」

「そうだな、遅すぎる」

「意味分かんなかったんだよな、ぶっちゃけ。お前がいきなり篠塚さんに食って掛かった時。何やってんだあいつって。本気で頭どうかしたんじゃねえかって。どうかしてたのは俺らの方だった」

 いや、あの場で頭がどうかしていたのは確実に僕だと思うけど。

 ジュウゴが言いたいのはそんなことじゃないことくらい分かっていた。でも何かが引っ掛かっている。引っ掛かっているのは分かるのに上手く言葉にならない。頭が暑さにやられたか。だとしたら早いとこ話を終わらせなければいけない。

 ジュウゴも立ち止まることなく話を続ける。

「同じだった。ムカつく奴に喧嘩じゃ勝てねえからって女の方に手ぇ出して、別の奴にボコられたら捨て台詞吐いて逃げてった。気付いたら俺らも同類になってた」

 そんなコテコテの不良がいるのか、うちの高校。

 それはなんというか、気を付けなければいけない。多分ジュウゴやケンジのように、話せば分かる相手でもないのだろう。それこそ駅で待ち伏せするタイプに聞こえる。

「だから、ケジメに来た」

 だから?

 また途中を聞き飛ばしたかと、余所事に意識を散らしていた自分を戒める。

「俺らはもう終わった。ろくな人生待ってない。警察行って、迷惑がられても全部話す。篠塚のことも、TEAMとかそっちのこととか。ほとんど何も知らされちゃいないけど、少しでも話して全部一緒に終わらせる。だから――」

 終わった。終わらせる。

 悲壮な決意で言ってのけたジュウゴが、僕を見て言葉を詰まらせた。

 今ここに鏡はない。

 だから僕がどんな顔をしているのか確かめる術はないけど、自分のことだ。少しくらいは分かっている。

「ごめん、何言ってんの?」

 心底理解できず、豆鉄砲を食らった鳩のようになっていたことだろう。

「は? いや、何って……」

「や、それ僕の台詞なんだけど。終わったって何が? 人生? 怪我もしなかった、五体満足の十八歳が何言ってんの」

「……お前。ちょっと待て、お前」

「私は何度も教えてやったぞ。こいつは馬鹿だって」

 隣から叶が声を上げる。

 これは僕が馬鹿なのか? そういう話なのか?

 けど、だとすれば納得できた。飛躍したように聞こえた話の意味がようやく理解できる。どうしようもなくなった。あれはそういう意味だったのか。

「いやいや、馬鹿は向こうでしょ」

「そういう意味じゃねえ」

 そうですか。

 けれど笑うしかなかった。

 目を点にしていたジュウゴも、遂に堪えきれず笑い声を零す。

「実家が農家だっけ? 職業差別とかそういうつもりはないけど、学歴なきゃいけない仕事じゃないでしょ。実家帰って手ぇ動かせばいいじゃん。頭下げて、なんなら丸めて、家族なら給料出さなくても怒られないでしょ。終わったとか言う前にやることあるじゃん」

「はは、はははっ! 簡単に言うな、簡単に言ってくれるな! それができるなら――」

「やれって言ってんだよ。簡単もクソもなく」

 十八の男が、駅で煙草吸ってる不良が、何をめそめそ悲劇のヒロインぶっているのか。

 もう終わった? ろくな人生待ってない?

 そうやって簡単に腐ってやる気なくして、それでも腹は減るだろう。食べるには働かなければいけなくて、親に頭を下げないなら別の誰かに頭を下げなくちゃいけなくて。

 次はどこの誰を慕って幻滅して人生諦めるつもりだ?

 親に頭下げる方が何倍も、何十倍も、いいや比べられないくらいには簡単だろうに。

 今の農家がどれほど稼いでいるのか知らないけど、ジュウゴも一緒に頭を下げて手伝わせてもらえばいい。この辺りなら大抵、収穫の時期に季節労働者を雇う。若くて頑丈で、ついでに文句を言わなければ引く手数多だろう。

「なぁ、おい。ジュウゴ」

「なんだよ」

「こんな暑い中、無駄話に付き合ったんだ。僕の話も少し聞いてくれるかな」

「あぁ。そりゃあ。聞くしかないな。無駄話なら」

 ジュウゴは良い奴だ。

 僕とは違う。津久井ともまた違った良い奴。

「藁にも縋る思いって言うじゃん? 分かる?」

「そりゃな」

「でも実際、藁になんか縋っちゃダメでしょ? 藁になんか縋って安心してる暇あったら死ぬ気で泳がなくちゃダメなんだよな」

 勿論、比喩だ。

 というより反語に近い。

 藁になんか縋ってはいけないのに、それでも縋ってしまうほどに、縋りたいと思ってしまうほどに追い詰められている。そういう心境、状況。

「まぁでも結局、例え話だ。現実には藁に縋ってでも安心して、ちょっと一息ついて、そうしないと頑張れない時ってあるんだと思う。僕には分かんないけど」

「分かんないのか」

「生憎、馬鹿だからね。あの丸太みたいな腕に殴られてようやく、あぁ本気なら死んでたかもって気付くくらいには。だから一々そんな人生終わったとか絶望しないし」

「言ってくれるな」

「言うよ。あんた、良い奴だから」

 笑ってしまう。

 ジュウゴが何を言われているのか分かっていない顔で、まじまじと僕を見てくるものだから。

「僕には分かんないんだよ、そういうの。だけど分かるんだろ、ジュウゴには」

「……。あぁ」

「一緒にいた人たち、最近は駅にいないんだよね。どこにいるか知ってる?」

 僅かな間を置いて、ジュウゴは首を振る。横に。そうか、残念だ。

「もしどこかで会って、まだ藁でも欲しそうな顔してたら、藁くらいにはなってあげてよ」

「俺がか?」

「別にケンジでもいいけど」

 分かったような口を利いたら悪いけど。

 多分、誰でもいいのだ。

 その時そこにいて、ただ安心できるまで藁のように縋らせてくれるなら。

 でも現実には、そんな都合の良い藁なんか流れてこない。どれだけ泳げばいいのかも分からない海の只中で、何にも縋れず絶望したまま。

 その気持ちを理解することは、僕にはできない。

 まして共感してあげて、同情してあげるなんて烏滸がましい真似は。

「まぁ、無駄話だよ。覚えててくれてもいいし、忘れてもいいし。それくらいの話」

「……薄情なんだな」

「叶はたまたま知り合いだった。中学の時、よく楽しい時間を過ごさせてもらった。……いや、あの頃は楽しいなんて自覚もしてなかったけど」

 たったそれだけ。

 でも、それが大きな違い。

「他の人は、知らない人だから。僕はジュウゴと違って、良い奴じゃないんだよ。知らない人のこと、勝手に心配はしてもお節介までは焼けないかな」

「俺はお節介焼いてたってか?」

「まさか無自覚?」

 そんなわけもないだろう。

 この炎天下、わざわざ無駄話をして、付き合ってもくれたのだから。

「僕の話は以上。叶は何かある? 無駄話」

「ねえ。暑い」

「だそうだけど」

 目を向ける。

 ジュウゴは良い奴だ。こんなじめじめした暑さとは違う、春の空を思わせるような。清々しく、からりとした表情だった。

「悪かったな、長話に付き合わせて」

「その詫びだけはこいつの代わりに受け取ってやる」

 僕より早く叶が応えた。

 それで僕の台詞はなくなり、ただ見やってみせる。ジュウゴも僕を見返したけど、言葉はなかった。

 一歩か、一歩半。

 後退るように歩き出したジュウゴは、やがて振り返って進み出す。

 その背中を、僕たちはただ見送っていた。



 結局のところ、事件の真相は分からなかった。

 チームとはなんだったのか、篠塚とは何者だったのか、リュウとか呼ばれていた何者かはどこの誰で、果たして僕たちの知らぬところで何が動いていたのか。

 何もかもが分からないまま、グラーデーションのように日常へと溶け込んでいく。

 僕は相変わらず駅の待合室に目を走らせてしまうだろうし、ただ付き合ったからという以上に、学校の行き帰りには叶と一緒にいたがるだろう。

 でも多分、これで一旦はお仕舞い。

「さて、と」

 そろそろ帰ろうかと、声にする代わりに振り返った時。

 ふと目が合ってしまったのは、単なる偶然でしかないのだろう。

 ずっと後ろに立ってくれていた津久井が、なんとも言えない顔で僕を見ていた。それを僕も、なんとも言えない顔で見たのだろう。

「あー、悪い。付き合わせるようなことでもなかった。ていうかダサいとこ見せた」

 日常から一歩はみ出してみた僕は、随分な青春野郎だったのではなかろうか。

 自嘲して肩を竦めると、津久井もバツの悪そうな顔をする。

「謝るのは俺の方だよ。すまない。俺が聞くような話じゃなかった」

「いいよ。でなきゃ佐々木とか圷が大変だったろうし、それに――」

 言いかけた途端、糸が切れたように言葉を見失った。

 それに?

 手繰り寄せようにも、その糸の先には何もない。糸それ自体、そこで切れている。そんな感覚。

「いや、違う。むしろ僕はお礼を言うべきで……」

「三木?」

 津久井が不安げに僕を見てくる。

 いや、なんだ、その顔。何をそんな心配して――あぁ、そうか。今は夏だ、炎天下。

「違うよ、違う。熱中症じゃない」

 だとしたら一体なんなんだろう。

 自分の声に、自問する。

 まだ心配そうな津久井に笑ってみせようとして、失敗した。

 ため息に似た、でも何かが違う、息が漏れる。

 糸が切れた。心中に零した表現は、だから意識的にか無意識にか、僕自身の心を表していたのだろう。

 小説やアニメと、現実は違う。本を開いて、一ページ目。そこが小説の始まりで。なら人生の始まりはおぎゃあと産まれた時かといえば、そうじゃない。

 何もかもが繋がっていて、まるで前作が存在する続編かのような。でも、その前作にも明確な始まりなんてない。

 いつの間にか何かが始まっていて、何かが進む横で何かが終わって、あるいは何も終わらないうちに次の何かまで始まって。そうして連綿と、切れ目なく続いていくのが人生だろう。

 だから一旦のお仕舞いを迎えた今回の事件とやらも、本当は僕が知るずっと前に始まっていて、僕が知らないどこかでそっと終わる。

 始まりも終わりも知らないまま、ただ中途半端に登場したのが僕だ。

 台本はない。

 ページを捲って、そこに台詞があるかどうか確かめるなんてできない。

 だけど今、糸が切れた。

 それでようやく、僕の中で事件が終わった。

 他でもない僕自身が、そこにピリオドを置いたのである。

 深く、深く、何かを吐き出したかった。それなのに何を吐き捨てればいいのかも分からなくて、思わず笑いが零れる。

「はは。ようやくか。今更だな」

「三木……?」

「いや。なんでもない。なんてことはない」

 ふぅ、と息を吐く。

 暑い暑い夏の日。吐息に色が付くことはなく、どこかへと消える。

「でも、ようやくだ。ようやく少しだけ、叶の気持ちが分かったよ」

「なん?」

「何か吐き出しくて。でも何を吐き出せばいいのか分からなくて。どこにも吐き出せる場所なんかなくて。そんな時に欲しくなるんだな。何もかも誤魔化して、曖昧な煙にして、吐き出したくなるんだろうなって」

 今この手元に煙草があったから、口に付けて吸っていいなら、さぞ芸術的な煙を吐き出せたことだろう。

 吸わないけど。

 吸えたとしても。

「やっぱ馬鹿だな、お前は」

 まるで泣いた子供でもあやすみたいに、叶が乱暴に頭を撫でてくる。

 撫でていき、肩に落ちた。

 そして強引に抱き寄せられる。

「お前に煙草は必要ねえよ。そういう時は私に吐き出せ」

「おいおいカッコいいな」

「当たり前だろ。誰の彼女だと思ってやがる」

 説得力皆無の言葉も、こうまで堂々言い放たれれば何かの真理かのように思えてしまう。

 それでまた笑った。

 今度は多分、ちゃんと笑った。

 見やった先で、津久井もまた笑うしかないと言いたげに笑いだす。

「これが自業自得ってやつだね。随分な惚気を見せられた気がする」

 言ってくれるではないか。

 普段は散々、男子たちの嫉妬を買っているというのに。

「そういう津久井はどうなん?」

「え? 何が?」

「いや、文化祭だろ。どうなんかなって」

 普段の僕なら決して口にしない、野暮な話だ。

 忘れてくれ、と手を振ろうと思って、しかし津久井が変な顔をしていることに気付く。視線は僕から少し逸れ、叶を見ているようだった。

「どうすりゃいいんだ、これ」

「諦めるしかねえんだよ、こいつ馬鹿だから」

「おい待て二人で分かり合うな嫉妬するぞ」

「はっ、あはは。それを迷わず口にできるのが三木の怖いところだな」

「馬鹿なんだよ、こいつ」

「二度も言うか」

「じゃあ聞くけど、お前って今、友達何人?」

「あ?」

 あーはいはい、そういうことね。

 しかし入学当初や中学時代ならいざ知らず、今なら胸を張って断言できるのだ。

「友だちだな? 少なくとも叶よりは多いよ。ちょっと待って、今数える」

「ま、そういうとこだって話だ」

 本来なら変な空気になるところを華麗なジョークで受け流す、その処世術を褒めていただきたいものである。

 いやまぁ、何やら致命的な誤解があるらしいと気付かないほどの馬鹿ではないが。馬鹿ではないが。

 どうしようもなく笑うしかなくて、だから笑った。

「暑いな」

 他に言うことなかったのだろうか。

「あぁ、暑い」

「さっさと戻ろうぜ。つうか帰らね? 汗気持ち悪いんだけど」

 その帰る先、一言前の戻る先と真逆の方向じゃないですかね。

 そもそも叶は、隠す気もなく堂々言ってのけたのだろうが。

「いやだから、中抜けでも厳しいってのに――」

 どうでもいい言葉は、だからいとも容易く断ち切られた。

「ミッキー! 恭ちゃーん! あおな、ぎ……さん?」

 駐輪場の裏。

 前触れのない叫び声とともに現れ、忙しなく目をきょろきょろ動かす小さな彼女は、言うまでもない。

「あ、あれ……?」

「もう終わったよ」

 突然背後から叫ばれたというのに、何一つ驚くでもなく自然に振り返ってみせる津久井。そんなところまでイケメンかよ。

 いや違うか。足音が聞こえていたのだろう。

 僕には聞こえなかった。そろそろ本当に休まないとまずい。

「ちょっと那絵香! そんなに急いだって……」

「その前に、先生より先に行くのやめなさい」

 先生。

 そう自称しながら姿を見せた人物もまた、言うまでもない。我らが担任、小久保先生である。

 大して広くもない駐輪場の、更に裏。

 まるでダンゴムシか何かのように、八人もの大所帯が集まってしまう。というか大島先輩までわざわざ来たのか。

 一体どうしたものかと頭を回しながら、その実、あんまり悩んではいなかった。

「大体の話は聞いた。今から職員室だ」

 僕が何を考えようと、ここは学校。相手は教師。

 小久保先生がそう言うのなら、僕たちに選択権はないのだろう。

「マジすか。汗かいたんで帰りたいんすけど」

「それは……まぁ同情はするけど、でもな」

「すみません、先生」

 不意に口を挟んだのは津久井。

 然しもの小久保先生も予想外だったのか、黙ってまじまじ目を向ける。

「三木、ちょっと熱中症っぽいです。話は俺がするんで、今日は帰らせた方がよくないですか」

 なんと、まぁ。

 まさか津久井がその種の手管を使うとは。

 しかも小久保先生も小久保先生で、僕と津久井を交互に見やるやため息を零す。

「分かった。青柳、送っていけ」

「そりゃ喜んで。けど荷物はどうすんすか」

「あー……」

「あ、私行ってくるよ!」

「あっじゃあ私も。ほら大臣」

「えっ? 三人も――」

「いるってことにしとけ」

 さっさと走り出してしまう佐々木を追って圷も駆け足。物理的には引っ張られていないはずの金田も引きずられて走っていった。

 奇妙なまでのトントン拍子。

 一体どうしたものかと立ち尽くしていれば、大島先輩まで優しく笑いかけてくる。

「そうだ、一年。ちょっと来い。スポドリ奢ってやるよ」

「えーいや、それは」

「奢られとけよ。高梨の知り合いなんだろ? 一年の時は同じクラスだったんだ」

 なんの説明にもなっていない気がするけど、まぁ奢ってくれるというのを無理に断るのも失礼だ。

 それで玄関まで戻って、ぬるいスポーツドリンクを一本貰った。

 ぬるいくせに、美味い。一気に飲んでしまった。叶が呆れるような目で見てくる。あれ、分けた方がいい感じだったのか。

 思っていたら、大島先輩が叶と津久井にもそれぞれ渡している。この手の会計はしっかり計算していて、あとで経費やら何やらと照らし合わせると思うんだけど、まぁそこは小久保先生が上手くやってくれるのかもしれない。やってくれなかったら……いや、それでもどうとでもなるか。

 どうでもいいことを考えてぼうっとしていたら佐々木たちが戻ってきた。

 戻ってきてから、鞄だけでよかったよな、と聞かれる。大丈夫だ。他は全てポケットの中。ハンカチを適当に押し込んだせいで変に膨らんでいるけれど。

 何はともあれ、最後までトントン拍子に話が進んだ。

 駅まで叶が一緒に来て、待ち時間に自販機でスポーツドリンクを購入。そして冷房の効いた電車に乗り込む。

「……あれ? 叶は荷物」

「朝持ってたように見えたか?」

 どうだったっけ。

 思い出そうとして、できなかった。

 家まで送るという叶の言葉を、素直に受け止めることにした。

 何度目かの遅すぎる自覚。

 手管も何も、ちゃんと熱中症になりかけていたのだ。

 家に着き、一人で歩けると抗議してもお構いなしに二階の自室まで連れていかれ、ちゃんと寝て食えとの小言を頂戴。

 まるで病人扱いである。そんなに心配なら――。

 しかし口を衝いて出かけた言葉をどうにか飲み込んだ後で、自分が思っている以上に弱っていることを知った。

――泊まっていけばいいのに。

 そこからの記憶は曖昧だった。

 ただ唯一、確かに覚えていることがある。

 眠りに落ちる時だったのか、目が覚めた頃だったのか、そんなことさえも曖昧な中で、何気なく考えたこと。

 明日には治るかなぁ、と。

 文化祭。

 叶と二人では、まだ回れてないから。

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