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煙吐く少女  作者: 飯島鈴
14/16

14話

 昨日と同じ時間、同じ車両、同じ座席。

 同じように小説を開いて、昨日の続きを読んでいた。

 普段からそうするわけじゃない。制服姿の乗客は大抵、同じ席に座る。だから同じところに座るのは避けて、その日の空いている席に座ってきた。

 その日たまたまの雑音には何も思わないけど、雑音が聞こえる席と分かっていて座る気にはなれない。雑音が聞こえない席だと思って座った席で雑音が聞こえてくるのもストレスだ。

 だから毎日、何があっても偶然で済ませられる席を選んできた。

 今日は違う。

 同じ駅。

 小説に目を落としたままの僕の隣に、無遠慮に座ってきた乗客が一人。

「……よう」

 慣れないことはするものではない。

 お互いに。

「おはよう」

「おう」

 相槌に相槌を返すような変なやり取り。それで苦笑した。小説を閉じる。

「正直言うと、来ないかもと思ってた」

「紅茶。奢ってもらわないといけないからな」

 さっきの今で迷いがない。

 用意していた言い訳なのはバレバレだった。

「お互い、随分とらしくないことをしてる気がする」

「今更かよ」

 電車が動き出す。

 今更。

 なんだ、青柳には自覚があったのか。僕にはあまり、というかほとんど自覚はなかった。

 文化祭の熱気がそうさせたのか。

 どうせ他人事のイベントで終わるのだろうと思っていた。始まる前どころか、入学する前から。

 ラノベやアニメで見る文化祭イベントはあまりに現実離れした青春物語で、そんな現実を生きる人もいるのだろうと思いながら、自分には到底関わり合いのないものだと信じて疑わなかった。

 実際、ああいうのは津久井や佐々木の物語。

 だけど気付けば、いつか彼らが思い出した時にでも、そういえば三木なんて奴がいたなと登場人物の末席にくらいは並べられそうな役回りを演じている。

 暴力事件、と担任は評した。

 文化祭準備期間中にそんなものがあれば記憶には残る。

 華やかな青春の思い出を彩るスパイスとしてか、トラウマとまでは言わない小さな傷としてかはさておき。

 ……と、そうか。

「じゃあ大体は青柳のせいか」

「なっ……はぁ!?」

「電車の中ではお静かに」

 というか、何をそんなに驚くことがある。

 津久井たちのグループと話した最初のキッカケは単なる使い走り。職務放棄大臣こと金田が提出を怠ったプリントを届けにA組まで行ったアレだ。

 しかし、本来ならそこで終わるはずだった。

 いやまぁ佐々木が人との距離感が分からないやつだから何かと関わる羽目にはなったけど、事実としてタイムラプス動画の撮影には関わっていない。あくまで雑用係。それで終わるはずだった。

 青柳がいた、あのグループ。

 その言葉が全て真実だとは思わないけど、実際問題、青柳と知り合いでなければジュウゴもわざわざ僕など気にも留めなかっただろう。朝の暇潰しにからかってポイ。

 でもそうはならなかった。

 青柳がいて、何故か未成年喫煙の見張りをさせられそうになって、だからジュウゴも僕のことを覚えて。

 そして、何かには使えるだろうと。

「……なぁ、おい、三木」

 青柳が何やら手探りに口を開く。間が悪い。

 なに、と応じるより早く、次の停車駅を告げるアナウンスが遮った。

 アナウンスが終わる。

 小説を仕舞って、横を見た。目が逸らされる。

「らしくない」

「悪かったよ」

 本当に、らしくない。

 言いかけた何かがなんだったのかも分からないまま、電車が停まる。

 今日は文化祭だ。

 急いだからといって開会が早まるわけでもないのに、高校生たちが足取り軽く電車を降りていく。

 僕にしては珍しく集団の後ろに付いた。そっちの方が都合は良いけど。

 改札へと続く階段。

 青柳が僕を追い抜いて、一足先に改札を抜ける。まるで文化祭に浮かれる高校生のようだった。

 改札の向こう、待合室には誰かの背中。

 この暑い時期に背広を脇に挟んで、スマホを耳に当てている。出勤中の急な電話。そんな様子だ。何日か前まで不良の溜まり場だったとは思えない、日常の光景。

 視線を外す。

 青柳の背中を追い掛け、振り返った眼差しを正面に見た。

「ほら、金出せ」

「不良かよ」

「不良だよ」

 ちなみに僕はアプリを入れていない。

 千円札を入れて無糖の紅茶を一本。少し悩んで、やっぱり二本。その場で一口だけ飲んでキャップを閉めた。

「今日、どうすんだ?」

 歩き始めた矢先、出し抜けに青柳が言った。

「何が?」

「何がってな、おい」

 まさか帰りの待ち合わせ場所でも決めるつもりか? 流石に点呼のためのホームルームはあるけど、前夜祭があった昨日よりも時間にはルーズになるだろう。早く集まったクラスはそれだけ早く解散、というのは自然な話だ。

「文化祭。誰とどこ回るんだって聞いてんの」

 足が止まった。

 ちょっと状況が理解できなくて、何故か手元に目を落とす。紅茶。だから一口飲んだ。

「なんだよ」

「妙なことを聞く」

「聞いたら悪いかよ」

「ていうか、聞く意味ある?」

 どこで何してんだよ、ならまだ分かる。

 それにしても青柳の口から発せられるには妙な話だけど、言わんとするところは分かる言葉だ。

 しかし、誰とどこを回るのか?

「涼しくて静かなとこで暇潰す以外にある?」

 なるほど。

 言ってから気付いた。

「いや、ごめん、正直に言う。忘れてた。サボりスポットはまだ見つけてない」

 思った以上にてんやわんやで、教室を抜け出す暇がなかったのだ。

 青柳がじっと僕を見ている。

 何か言いたげ。

 ……いや、本当のところを言えば僕が青柳のためのサボりスポットを探す必要もないとは思うんだけど、今まで学校に来ていなかった不良が出席確認も疎かになるであろう文化祭の日まで来てくれたのだ。せめてサボれる場所とか、教師陣に見つかりにくい中抜け経路とか、そういうのを探すくらいはした方が――

「一応、あったけど」

 ……?

 不意の言葉。

 何を言われているのかまるで分からず、だからそのまま声に出ていた。

「何が?」

「サボりスポット」

 目が丸くなる。

 見えるはずのない自分の目を、ありありと思い描けた。

 まだ話は終わっていないのに青柳がさっさと歩き出してしまう。その背中を追って、横に並んでなお、何を言えばいいのか分からなかった。

 昨日、あの後。

 僕がD組の準備に追われている間、まさか探していたとでもいうのか。一人で。校内を歩き回って。

 感謝する? それともお詫び? 探すって言ったのに探さなくてごめんとか?

 いや、そんな間柄でもないだろう?

 だから何も言えなかった。

 何も言えないまま、気付けば校門。

 今日この日のために飾り付けられた校門が、玄関前広場が、華やかに僕たちを出迎えている。

 言葉はついぞ、見つからなかった。

 すたすたと歩き続ける青柳に、だから結局、分かりきった不正解を投げてしまう。

「A組の教室、行けばいい?」

 青柳は立ち止まらない。

 振り返ることもなく、一瞥さえも返してはこなかった。

 ただ、代わりに。

 まるで独り言つかのように、小さく言った。

「別に。来なくてもいいけど」

 分からない。

 これはなんの会話で、何が正解だったんだ?



 朝のホームルームが終わるなり、僕は教室を後にしていた。

 気もそぞろ、とはこのことを言うのだろう。

 文化祭の開会式はこの後、第一体育館で行われる。強制参加だけど、集会の時のように学年ごとクラスごとに整列するわけじゃない。時期が時期だから調子が悪いなら外で休んでていいと、普段ならわざわざ付け加えられない補足付き。

 要するに強制参加とは名ばかりの自由参加だ。大手を振って帰れた前夜祭ほどではないけど、教師陣も一々目を光らせてはいまい。

 青柳は当然、出席などしないだろう。

 だから急いでいた、と言えば恐らく嘘になる。

 他でもない青柳が言ったのだ。

――来なくてもいいけど。

 発したのが青柳でなければ、あるいは拒絶の言葉だったのかもしれない。でも青柳が僕に向けた言葉だ。

 来なくてもいい。裏を返せば、来てもいい。

 来てもいいと言いながら、自分はさっさとどこかへ行く。そういうことは青柳はしない。

 二十分も三十分も待たせれば流石に待っているはずもないだろうが、ホームルームが終わってすぐなら急ぐ必要もなかった。というか急いだところで一分も変わらない。

 頭では分かっているのに、急いでいる。

 その理由を探すのに、学校の廊下は短すぎた。

 A組の教室に着く。

 逸る気持ちのままにドアを開けかけ、違和感に気付いた。静かすぎる。まだホームルームの途中か?

 それで昨日の放課後と同じように、ドアのガラス窓から覗き見る。

 違った。

 誰もいない。

 いつの間にか見慣れていた、あの後ろ姿を除いて。

 ドアを開ける。青柳は身動ぎ一つしなかった。

「A組、随分と早くホームルーム終わらせたんだね」

「遅えよ。本当に来ないのかと思った」

 来なくていいと言ったのは自分だろうに。

 振り向きもしない青柳の席に近付いて、隣の席に失礼する。

「なんで座んだよ」

「他のクラスは今ようやくホームルーム終わったとこ。出てっても人混みに捕まるだけだし、なんなら抜け出すタイミングもなくなるよ」

 そこまで言って、はたと我に返る。

 何事も決め付けるのはいけないことだ。強制参加の開会式、不良だからとサボるとは限らない。

「それとも開会式出る?」

「出るわけねえだろ」

「じゃあ暇潰しくらいさせてよ」

 青柳は答えなかった。代わりに頬杖を突く。

 誰のものかも知らない机にちゃんと座るのは気が引けて、僕は横向きに腰掛けたまま。そうして真似するように頬杖を突けば、どうしても青柳の横顔を覗き込むような姿勢になってしまう。

 妙な気がした。

 なんだか落ち着かなくて顔を上げ、教室をぐるりと見回す。

 クラス展示という割に景色はあまり変わらない。壁やロッカーに掛かっているのは課外授業で作った周辺地図だろうか。ただ数が多い。班ごとの人数がクラスごとにそう変わることもないだろうから、文化祭のために新しいテーマの地図を作ったようだ。

 D組にもあった飲食店をまとめた地図。高校生が遊べる娯楽施設をまとめた地図。デートにオススメ、なんてポップな字体で書かれているのが可愛らしい。

「楽しそうだな」

 昨日も聞いたな、その台詞。

「青柳は楽しくない?」

 聞くまでもないことだった。

 頬杖を突いたまま、無言を答えとされてしまう。

 沈黙はどれだけ続いたのだろう。

 不意にノイズが聞こえ、何かと思ったらスピーカーからのアナウンス。あと五分で開会式が始まるから急げという、生徒会か放送委員の女子生徒の声。

 何を言うのか決めずに口を開いたら、欠伸が漏れた。

 ふあぁ、と大欠伸。

「お疲れか?」

「暇すぎて寝そうだった」

「このままここで寝られたら楽なんだけどな」

「流石に父兄さんは来るんじゃないかな。それを抜きにしても一度くらい戻ってくる」

「んなこと分かってるよ」

 だったら言うな、と無駄口を叩く代わりに席を立つ。青柳もすぐに続いた。

 いや続くな。先に行け。

「で、どこに行けばいいの?」

「二階。向こうの」

 向こう、とは。

 どこを示すでもなく言われたけど『こちら』でないなら渡り廊下を渡った反対側だろう。副教科やら何やらの教室が並ぶ方……、特別教室棟だ。

 一昨日少し足を伸ばしたとはいえ、そもそも一年生には用のない教室もあるから把握なんてしきれていない。

「よく見つけてきたね」

 廊下に出ながら言えば、青柳は何故かバツが悪そうに歩幅を広げる。僕を追い抜いて、そのまま先に歩いていってくれるのは有り難いけど。

「昨日。……ほら、お前らがやってたから」

 何を?

 人に聞く前に調べなさい、がスマホを標準装備した現代人の鉄則。

 調べて見つかる答えではないけど、代わりに記憶を検索したら答えが出てくる。

 一年教室におけるF組のような、他教室で邪魔になったものを押し込む教室が一階と二階、そして向こうの校舎にもあったのだろう。

 教室が丸々一つ余ってしまっていることからも分かる通り、生徒数は減少傾向。文化祭の規模も必然的に小さくなるか。

 自分で言い出した時は何も考えてなかったけど、空き教室の一つや二つ、探せば案外見つかるらしい。

「別に一年の空き教室でもいいんだろうけどな」

「同じ発想で来る人はいるだろうね。それと見回り」

「文化祭サボりたい奴なんか不良だけじゃねえだろ」

 だから放っておけよ、と訴える不良という図も面白いけど。

 実際はそういう問題でもあるまい。

「僕みたいのが一人寂しくサボる分にはいいけど、だからって見回らないとどこかの不良が煙草吸いかねないからね。あと酒。何よりイジメ」

「そんなコテコテの奴ほんとにいんのかよ」

「駅の駐輪場でコソコソ煙草吸ってた不良は言うことが違いますね」

「あ?」

 口が滑った、申し訳ない。

 そう肩を竦める用意はしておいたのに、青柳は脅すような声を返してくるだけで振り向きもしない。

 痛い目を見て丸くなったか。

 あまり面白い冗談でもないな。浮かんだ考えを掃いて捨てる。

 その頃には階段を下りて、ほとんど無人となった二年生の教室の横を歩いていた。

 完全な無人でないのは、やはりサボっている生徒がいたからだ。目を付けられたら面倒だったけど、会話やスマホに夢中なのだろう。ドアの窓を一瞬横切るだけの僕たちに気を留める人はいなかった。

「……ん?」

「どうかしたか?」

「あぁいや、なんでもない」

「それは何かある時の台詞じゃないのか?」

「何か引っ掛かった。でも何が引っ掛かったか分からない」

「私の知らないところで事件でも追い掛けてたのか」

「探偵役は荷が重いね」

 僕はそういう柄じゃない。

 柄とか以前に、それだけの能力もない。

 細かいことを気にする癖はあっても、気になったことを突き詰めて考える癖まではないのだ。だから疑問は投げ捨てた。

 青柳は教室で一人、いったい何をしていたのだろう。スマホは持っていて、決済アプリを入れるくらいには現代人なのに。

「……ん?」

 と、今度は青柳が首を傾げる番だった。

 しかし僕まで「どうかした?」と繰り返す必要はない。一目瞭然だからだ。

 二年生の教室の横を通り抜け、中庭を見下ろせる渡り廊下も渡った先。冷静に考えると、どうしてこんな道順で歩いてきたのか分からない。そう話し込んでいたわけでもないのに、よほど気が散っていたのか。

 ただまぁ位置的には正しいはずだ。

 特別教室棟二階の端っこ。

 何教室とも書かれていない、白紙の札が付いた教室の前には、入口と廊下を塞ぐように並べられた机。教室で使うものとは少し違う。

 そこに黄色と黒、警告色のテープでバッテン印が作られている。テープには『KEEPOUT』の文字がずらり。どこで買ってきたのやら。品揃え豊富なあそこだろうか。

「こんなん昨日はなかったんだけど」

「えー。どうすんの」

「その声で困ってるつもりか?」

 呆れ声の青柳が、次の瞬間、机に足を掛けた。そして軽やかに跳び乗るものだから、今度は心底困って、

「えー……」

 と繰り返してしまった。

「なんだよ。お前もそのつもりだったろ?」

「君、スカートなの忘れてない?」

「馬鹿かよ童貞。女子はスカートの下に……」

 今は夏だよ。

 この暑い時期、どうしたらスカートの下に短パンを穿くんだ。

「気にしなくていいよ。見えてはいない」

「忘れろ」

「だから見えてないって、本当に」

「嘘つくな」

 今日の青柳は変なところで頑固だ。

「嘘だと思うなら一度下りて、もう一回やってみたら?」

 古の不良女子は足首まで隠す長いスカートのイメージだ。

 青柳はスマホを使いこなす現代の不良だけど、そこらの二、三年生よりスカートが長かった。逆さの椅子が置かれたわけでも、ましてや二段重ねにされているわけでもなければ、机に乗ったくらいで内側が見えてしまうことはない。

 とはいえ、だ。

「……見えてないなら一々気にすんなよ」

 気にするなと言われても。

 青柳も女の子だ。もう少しくらい気を付けてもらいたいもので……

「つうか、お前もさっさと来いよ。こんなとこで見つかっても面倒だ」

「ん? あぁいや、そうだね。それもそうだ」

 頷けば、なんと青柳が手を差し伸べてくるではないか。

 こんな時だけ素晴らしい気遣いだ。

「いや僕そこまで運動できなくないけど?」

「ハッ。どうだかな」

「いやいや流石に帰宅部だからってね」

 言いながらも、これで躓こうものなら笑い話にもならない。

 机の天板に手を突いて、ちゃんと力を入れながら勢いを付けて右足を上げる。それから左足。確実に机を踏んで、向こう側に飛び降りた。

「だっせ」

「青柳の思うカッコよさは男子小学生のまま止まってるんじゃない?」

「私に男子小学生だった頃はないが?」

 期待通りのツッコミをありがとう。

 それで僕の挑戦心の欠片もない机越えは流し去り、さて、とすぐそこのドアに手を掛ける。

 机が邪魔をしていたのは表側からだけで、裏側に回ってしまえば一人が通り抜けるくらいのスペースはあった。

 が、しかし。

「あれ開かないんだけど」

 鍵が掛かっている。施錠されているのである。

 どうして二度も繰り返したのか。

 自問自答しながら見上げれば、これ見よがしにスカートを押さえた青柳が机から下りてくる。

「そっちは鍵掛かってんだよ」

「なんで」

「二年が掛けてた」

「じゃあ向こうは?」

「二年が掛け忘れてた」

 青柳はいつから探偵になったんだ?

 脳裏に冗談を転がしている隙に種明かし。

「廊下渡ってきたら話してんのが聞こえたんだよ。奥の鍵忘れたって」

「掛けたらいいじゃん」

「バレねえだろって言いながらどっか行った」

「不用心な」

 不良が中で煙草を吸ったらどうする。その吸い殻を置いていかれたら、疑われたり追及されたりするのは鍵の係だろうに。

「まぁこれで鍵掛かってたら三階戻りゃいいだろ」

 青柳が笑いながら奥のドアへ。

 そして、すんなり開けてみせた。

「不用心な……」

「お前だったら絶対やらねえな」

「こんな一手間を惜しんでどうするんだ」

「普通はそんな細かいとこ気にしねえんだよ」

 まったく、困った二年生だ。

 何かあったら二年生に責任を押し付けるとして、僕たちはその空き教室に失礼する。

 空気が少しひんやりしていた。ただ埃っぽい。カーテンは閉め切られたままで、廊下から見えそうな照明も点けないとなると、まだ朝だというのに薄暗い。

 なんの教室だったのか、推察するにはモノが足りなすぎた。

「二年生、クーラーも切り忘れたのか?」

「どうだろう。そういえば教室で温度調節ってしたことないかも」

「じゃあ何? 使ってない教室も全部一気に点けてんの?」

「さぁ」

 なんにせよ涼しい分には有り難い。

 教室の後ろ、つまり奥のドアから入ってきた僕たちのすぐそこには、やはり通常の教室とは少し違う椅子が大量に置かれている。パッと見でも二十はあった。その中から一つを引っ張ってきて、半ば無意識に教室の前を向いて座る。

 これが小中九年間、画一的な教室で刷り込まれてきた習性か。

 青柳も同じように椅子を引っ張ってきて、何故か僕と隣り合う形で座る。

 何故かも何も、冷静に考えたら他の選択肢がなさそうだった。飲食店のテーブル席でもないのに向かい合って座る方が不自然だし、かといって斜めに座る必要もない。顔を見ながら話すのがマナーだとか気にする間柄でもないだろう。

 そう納得すると、早くもやることがなくなった。

 まぁ何をするでもなく、ただ文化祭というイベントが過ぎ去るのを待つことが目的だ。

 一日中ここに引きこもっているかはともかく、五分十分で暇だなんだと音を上げるようなら最初から文化祭を満喫している。

 とはいえ暇に変わりはないわけで。

「外の机、あれなんだったんだろうな」

 前触れも脈絡もなく青柳が口を開いた。

 対する僕も驚くでもなく脳裏にあった考えを返せるのだから、お互いに暇を持て余しているのだろう。

「この教室、モノがないよね」

「だな。椅子はあるけど、それくらいか」

 言い合いながら軽く見回す。

 椅子ばかりが置かれ、然りとて椅子だけで床を埋め尽くすには到底足りない。では他に何があるのかといえば、特に何もなかった。黒板とロッカー、そこに置かれた幾つかの小物類だけ。

 強いて言えば特別教室棟らしくない構造だけど、ここだけが特別と言えるほど他を知らない。

「まぁ使われなくなった机と椅子が押し込まれてたって考えると一応辻褄は合うのかな?」

「辻褄?」

「外の机。昨日はなかったんでしょ?」

 昨日のいつ頃かは知らないけど、ここに出入りしていた二年生が鍵を掛けて、ついでに掛け忘れた。そのタイミングで青柳が鍵を確かめ、今に至るまで鍵を掛け直されていない。

 ということは机を持ってきた誰かは、鍵が掛かっていると思い込んでいて中まで運び込まなかった可能性がある。

「どこかのクラスか部活で大量に机が必要になって、ここから持っていった。椅子がこれだけ残ってるんだから必要だったのは机だけ。後から多すぎたと分かったけど、鍵を掛けた後だったから外に置いていった……とか?」

「それでキープアウトのテープなんか貼るか? 普通に奥に置いてけばいいだろ」

「そうなんだよねぇ」

 面白そうだからとノリで注文して、いざ届いたら使い道がなかった。それがちょうどよく使えそうな感じだったから、折角だしとノリで貼ってみた……という可能性が有り得るのが高校の文化祭ではあるけど。

 まぁ推理モノの探偵役が推理の根拠にノリとか言い出したら興醒めもいいところだ。

「いっそ謎を解き明かすために奔走でもする?」

「しねえ」

「そりゃそうだ」

「したいん?」

「いや全く」

「正直に言えよ」

「むしろ普通に面倒臭い」

「だよなぁ」

 文化祭に盛り上がるでもなければ、ささやかな謎に身を乗り出すでもない。

 ただ薄暗く埃っぽい空き教室にコソコソ隠れているだけで満足している。

 なんとも退屈な高校生で、なんともチンケな不良じゃないか。

 一度話が途切れれば、時間ばかりが過ぎ去っていく。とっくに始まっているはずの開会式はまだやっているのだろうか。そろそろ終わるのだろうか。

 顔を上げ、時計を探せば、苦笑するしかない。

 今は一時だそうだ。

 時間が大切な学校で電波時計を使わない理由が分からない。それか電池切れか。

 スマホを出せば一発で分かるけど、そうまでして時間を知る必要もない。

 というより、スマホを触りたい気分じゃなかった。

 暇だけど、暇を潰したいわけじゃない。なんて言えばいいんだろう。この暇が今は心地良かった。

 何をするでもなく、ただ座っているだけ。

 机がないから頬杖も突けないし、居眠りするには都合が悪い。

 気分が上がる理由なんて何一つないはずなのに……そうか、そこまで思って自覚した。今の僕は、気分が上がっているのか。楽しいというのも違う、なんというか、上機嫌。

 もしかしたら青柳もそうだったのかもしれない。

 徐ろにポケットに手を突っ込んだと思ったら、小さな箱を出してくる。

 煙草か。

 しかし中身を取り出す素振りもなく、くるくると指で回して遊んでいる。……暇なのか? だとしても青柳らしくない、子供っぽい仕草。

 わざとらしく回し続ける箱を目で追っていて、苦笑が漏れた。

「やめたら?」

「……は?」

「煙草。やめたら?」

 なんのために吸うのかも知らないけど。

 親の……きっと母親のものだろう。憂いなど何もない円満な家庭、とは言えない。親に問題があるのか単なる反抗期なのか、そう仲が良さそうにも見えなかった。

 それなのに煙草を貰うか盗むかしているのは、どうなんだろう。

 良い悪いの話じゃなくて、青柳自身はどんな思いでそれを吸っているのだろう。

「お前に関係あるかよ」

 青柳が吐き捨てる。

 なんだか薄っぺらい台詞。

 どこかで聞いたことのある、どこでも聞いたことのある台詞。

 何より感情の乗っていなかった。用意した台詞を、そのまま再生しただけかのよう。

「関係、ないのかな。ないのかもしれない。ていうか、ないな」

「なんだよ、それ」

 なんなんだろうね、本当に。

 僕は何を言っているんだろう。煙草は良くない、健康に悪い、そもそも未成年だ。そんな御託を並べる柄じゃない。そんなことを青柳に言いたかったわけでもない。

 だから、多分、そうだ。

「禁煙は……まぁした方がいいと思うけど、そういうことじゃなくて」

 曖昧な声。

 自分で自分に苦笑する。

 僕は何を言おうとしているんだろう。

「今はいらないんじゃないかなって。なんとなく。そんな気分」

 それは僕の気分でしかない。僕の勝手でしかない。青柳に押し付けるものでもないし、たとえ法律が背中を押そうと関係ない。

 ただ単純に。

 青柳もそう思ってくれたらいいのに、と。

 我儘を言っているだけなのだろう。

「そうかよ」

 僕の我儘に何を思ったのかは定かじゃない。

 顔を見てはいなかった。すぐ隣に座っていて、手元は自然と視界に入っても、顔を見るにはそのためだけに首を回さなければいけない。

 それだけの理由。

 だからその時、青柳がどんな表情を浮かべていたのかは知る由もない。

 くしゃり、と。

 くるくる遊んでいた煙草の箱を、不意に握り込む。

 何もそこまでしなくても。

 呆気に取られる僕をよそに、青柳が急に立ち上がった。

 一歩、二歩と前に出て、そして振り返る。潰れた煙草をポケットに押し込んで、その手を、まるで何かを求めるかのように差し出してきた。

「じゃあ、グミくれよ」

 まるでも何も、だ。

「グミ?」

「煙草の代わり」

 そんなこと言われなくても分かっている。

 だけど、どうしてグミだ。確かに一度、煙草の代わりに差し出したことはある。駅で、ケンジに。でもあれはコンビニに寄った帰りだった。今はコンビニの袋も何も持ってない。

 そんなこと言わなくても分かっているだろうに。

 見上げ、青柳の目を見た。

 分かりきった答えを、それでも求めるかのような。

「持ってないよ」

「持っとけよ」

「無茶言うな」

 笑ってしまう。

 それが正解だったのか、青柳も笑った。

「じゃあ」

 そう言って一歩、前に出る。伸ばした手が触れそうな距離。

 今度はなんだ。

 言おうとしたのに、声にならなかった。

 伸ばした手が、肩に触れる。顔が近い。一歩以上。近付いてくる。

 そして――。

「……っ」

 そして、唇が触れた。触れ合った。

「……?」

 キス。

 チュー。

 口づけ。

 接吻……?

 いや、なんでもいい。言い方なんて。

 唇が離れ、顔が離れた。何が起きたのか、まだよく分からない。それでも本能か、習性か、視界の中の動くものを目で追った。離れゆく青柳の顔。明かりがなくとも夏の日中、微かに赤く染まっているのは見て取れた。

 でも。だけど。

「なん……」

 なんで、と。

 たった三文字すら口にできずに固まってしまう。

 青柳が頬を赤く染め、僕にキスをする?

 意味も理由も分からなくて、ただただ困惑している僕に。

「お前が悪いんだろ、煮え切らないから」

 青柳は、やはり意味の分からないことを言う。

 煮え切らない?

 いや、意味は分かる。言葉の意味は。

 なのに、何を意味する言葉なのかが分からない。

 そもそも煮え切るってなんだ。沸騰することか? 水分が全て蒸発することか? それとも具材に火が通ることか? そんな馬鹿な。

「煮え切らないって……」

 なんだよ、と言い切ることすらできなくて。

 ただただ呆然と見やった先で、頬を赤く染めた青柳が言うのだ。

「だってお前、私のこと大好きだろ?」

 ……?

 …………?

 今、なんて?

 意味が分かるとか、分からないとか、そういう話ですらなく。

 意味もなく、意図もなく、ただ青柳の目だけを見ていた。

「は……? や、だって、お前」

「僕が……? 青柳のこと……?」

 大好き、だって?

 見えていた目が、その瞳が揺れる。

 さっと血の気が引くように、一瞬で色が変わったのが見て取れた。なんだっけ、それ。呆然と考えていた。

 そんな場合じゃ、なかったのに。

「……ッ」

 声にならなかった声。

 気付くと青柳が身を翻していた。煙草の箱を握り潰した、あの手がまた強く握り込まれている。

 ようやく我に返った。

「待っ……」

 踏み出そうと、立ち上がろうとした足が動かない。まるで力が入らない。

 だけど早く追い掛けないと。

 青柳が駆け出している。何もない、それでも走るには狭すぎる教室。間に合わない、早くしないと。

 なのに足は、動かなかった。

「待って!」

 待つわけない。

 青柳の手がドアに伸びる。

「待って……ッ!」

 叫んでいる場合じゃないのに。

 ドアに掛けた手に力が込められ、けれどドアは開かなかった。

 二度、三度と引っ張るも、ガタガタと音が鳴るだけでドアは開かない。

 そうだ、そうだった。

 忘れていた。

 そちらのドアは二年生が鍵を掛けている。僕たちが入ってきたのは後ろのドア。

 青柳も思い出したのだろう。すぐに後ろへ向かおうとして、その瞬間、見えてしまった。

「待って、青柳」

 泣いていた。

 涙を流して。

 同じ意味だ。なに考えてんだろ。そうじゃない。

「青柳」

「待つわけ――」

「待ってッ! お願いだから……!」

 視界が揺れた。

 膝が見える。上履きが見える。床が見える。がくんと落ちた顔を、無意識に伸びた手が支える。

 足音は、ドアを開ける音は、聞こえなかった。

 少しでも顔を動かせば、そこに青柳の足も見えるだろう。頭でそんなことを考えていた。なのに顔も、それを支える手も動かない。

 ただ頭だけが、空回りする。

 触れた唇の柔らかさを、ようやく知った。温かさも。肩に伝わる微かな震えも。何もかも、今更になって。

「違う」

「何が」

 違うんだ。

 違ったんだ。

 忘れていた。どうしてこんな、

「簡単なこと……」

 気付かなかったんだろう。

 手に何かが触れた。

 なんだろうと思っている間に流れていく。泣いていた。そうと気付いて、ただの本能的な習性で天井を見上げていた。明かりもない、ただの天井。

「そうじゃなかった。そこじゃなかった」

「……何が」

 短い、けれど。

 青柳の声。

 胸に落ちていくそれが、温度のないはずのそれが、いつの間にか冷たくなっていた全身を温めてくれるかのようだった。

「なんで僕と同じ駅で降りてんの」

 笑ってしまった。

 少し遅れて、言葉の意味を悟ったらしい青柳が笑う。乾いた、呆れた、笑い声。

「……今更かよ」

「ずっと考えてたんだよ、帰り道」

「何を」

「駅の前で別れる時、送ってこうかって言おうか迷って、でも言わなかった。その理由」

 馬鹿だ、馬鹿だと言われ続けた。

 僕は馬鹿だった。

 昨日の朝、今日の朝、青柳はどの駅から電車に乗ってきたよ。

「青柳は親とか見られるの嫌がるだろうなって。危ないのは電車に乗るまでで、電車降りた後なんて大した問題じゃないのかなって。ていうか僕がいても守れるわけじゃないしって」

 ずっと考えながら帰ったんだ、大真面目に。

 馬鹿か、こいつ。

「違ったんだよ。言わなかった理由ばっかり考えて、どうしてそんなこと言おうと思ったのかは考えなかった」

 順番が逆なんだよ。

 答えを明かされた後なら、悩む余地なんてどこにもない。

「ただ一緒に帰りたかっただけなんだな。もう少し一緒にいたかっただけで」

 一瞬、ほんの一瞬だけ言葉に詰まる。

 だって。

「恥ずかしくて、言えなかったんだ」

「馬鹿だろ、お前」

「馬鹿なんだよ。教えてくれてありがと」

 笑ってしまう。

 笑うしかなかった。

「僕、青柳のこと好きだったのか」

 青柳も笑っている。

 多分、笑うしかないんだろう。

「気付いてなかったのかよ」

「うん」

「馬鹿みたいじゃん、私。ていうか、馬鹿じゃん」

「そうかな」

「だって、そうだろ」

 そんなことはないと思うけど。

 言おうとして、でも言えなかった。何故か今になってまた涙が溢れてきたから。

「泣くなよ」

「僕に言われても」

「なんだそれ。……けど、じゃあ、面白い話してやるよ」

 それは面白い話をする前にしてはいけない前置きだ。

 冗談で返そうと思っても、そんな余裕もなかった。ワイシャツの袖で涙を拭う。

「一昨日の帰り道。お前んちまで行く途中」

「うん」

「ずっと思ってたんだよ。早く手ぇ握れよって」

 手を握る?

 どうして?

 一昨日といえば生徒指導室に呼び出された後、青柳が急に僕の家に来ると言い出した日だ。結局、僕の家では母さんに頭を下げた。まさか青柳が、と驚くほどに真剣で真面目な謝罪だった。

 それがどうして手を握るなんて話になっていたのか。脈絡がなさすぎて涙が引っ込んでしまった。

「なんでそんなことに」

「だってお前、ずっとそわそわしてたじゃん」

 そわそわ……?

「てっきり手を繋ぎたいのに、繋ぐ勇気もないっていうか、繋いでいいのか悩んでんのかと。だから、さっさと握れよって。別に……私は別に、構わなかったのに」

 顔を見なくても分かる。

 初めて聞く声だったのに、よく分かる。

 青柳は今、すごく、ものすごく照れているようだった。顔を見たい。我慢できずに見たら、睨まれていた。

「なんだったんだよ、あれ」

 すごく、ものすごく可愛らしい顔ではあったけど。

「いや、そのですね」

「言えよ」

「怒らないですか」

「敬語やめたら怒らねえで聞いてやる」

 そこまで言うなら信じよう。

 一昨日の帰り道。僕がそわそわしているように見えた理由。ちゃんと覚えているとも。

「帰り道の隣に青柳がいるのが妙な気がして、嫌っていうわけじゃないけど落ち着かなくて、それで何を話す必要もないのに何か話さなきゃって……」

 言っている途中で、考えていた。

 どこで目を逸らせば許していただけるのだろうか、と。

 許されなかった。

 青柳の手が伸びてきて、僕の頬に触れる。

「めっちゃ好きじゃん」

 違うんです、と弁明しかけた言葉が喉に詰まる。

 違わなかった。

 ただ、それだけの理由。

 青柳の顔が近付いてくる。僕は座ったまま、青柳は立っていて。だから必然、僕は少し見上げるようにならざるを得ず。

 これ、何かが逆なのでは?

 言えなかった。

 邪魔したくなかった。邪魔したからといって、次のチャンスがないわけでもないだろうに。

 唇が重なる。

 我知らず息を止めていた。

 だけど名誉のために断言する。青柳も止めていた。それで長くは続かず、不意に離れた。離れきる前から、お互いの笑い声が重なっている。

「ガキかよ」

「ガキだろ」

「つうか大好きじゃん!」

「なんで二度も言うっ!?」

「だって、だってめっちゃ恥ずかしかったし、それに――」

 言葉の途中、弾かれるように立ち上がっていた。

 最後まで言わせてしまう前に、……一体どうすればいいのか分からなくて、あろうことか今にもまた泣き出しそうな顔になっている青柳に助けを求めてしまう。求めた時には、青柳が飛び込んできていたけど。

「……ごめん。僕が馬鹿だった」

「そうだよ、馬鹿!」

「気付くのが遅かった。遅すぎた」

「遅すぎてはないだろ馬鹿」

「ところで」

「こういう時は黙れ馬鹿」

 馬鹿馬鹿うるさい。

 冗談めかしていなければ、腕を背中に回してくる青柳の、その背中に手を伸ばす勇気が出そうになかった。

 しかも、伸ばして終わりじゃないのだ。

 そっと触れて、それなのに次の瞬間、そっとでは我慢できなくなって。

 だって、思い出してしまった。

 今日の朝。

 教室で待っていた青柳。

 スマホを触るでもなく、本を読むでも居眠りするでもなく、それどころか頬杖さえも突かずに。

 ただ、待ってくれていたのだ。

 僕が行くと言ったから。

「あ、青柳」

「こんな時にどもるな馬鹿」

「青柳」

「なんだよ馬鹿」

 馬鹿馬鹿うるさい。

「名前で、呼んでもいい?」

「……そんなの一々、確認するなよ」

 背中に回した手。

 抱き締めた手に、ぎゅっと力が込められる。

 頬と頬、互いに濡れたそれが擦れて熱い。

 今日の朝。

 僕は急いでいたのだ。

 大して長くもない廊下を、走ったとて一分と変わらないであろう廊下を、それでも急いでいた。

 一秒でも早く、また会いたくて。

「好きだよ、叶」

 初めて後悔した。

 できもしないことを、どうしてできなかったんだと。

 あの瞬間。

 勇気を出してくれた、――叶に。

 ただ一言、そう答えられたらどんなによかったことだろう。

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