第4.5話 結城家リビング、プライバシーの崩壊現場 後編
4話 後編
「……う、ん」
鼻先をくすぐる出汁の香りと賑やかな笑い声。
重いまぶたを押し上げると、視界に入ってきたのは、俺の腹を枕にしてアニメを鑑賞している琥珀と、俺の足元で「とりあえずお水でも飲んで落ち着いて!」と父さんを宥める結愛の姿だった。
「お、起きたか、創……」
父さんが、魂が抜けたような顔で俺を見下ろしている。その手には、職場で見せられたであろう、俺と美女二人の『密着ショット』が表示されたスマホが握られていた。
「父さん……ごめん、説明はあとで……」
「いいのよ創。さあ、主役が起きたところで、今夜は豪華な晩餐会よ! 二人とも、手を洗ってらっしゃい!」
母さんの弾んだ声と共に、食卓には並べきれないほどの料理が運ばれてくる。
台所から現れた紅羽は、エプロンをこれ以上ないほど扇情的に着こなし、手には父さんの晩酌用からくすねてきたであろうビールの缶を持っていた。
「やっと起きたわね、創。ほら、アンタの『家族』も全員揃ったわ。早く座りなさいよ、お腹が空いて死にそうなんだから!」
「お兄ちゃん……。明日、家の前に記者が来たら全部お兄ちゃんが追い払ってよね」
結愛が冷たい視線を向けながらも、俺の皿にこっそり卵焼きを乗せてくれる。
琥珀はテレビから目を離さないまま、俺の服の裾をギュッと握りしめていた。
「……マスター。先ほどの『ロボット』という機械兵器、私の雷で再現可能でしょうか」
「頼むから飯を食え。あと二度と雷の話はするな……」
高級なドレスとタイトスーツ。SNSの炎上。壊れかけのテレビと温かい味噌汁。
ありえないほどの不釣り合いを抱えながら、結城家の食卓は、これまでにないほど騒々しく「日常」を刻み始めていた。
窓の外では、まだ俺たちを追うデジタルの火が燃え盛っているはずだが、今はただ、紅羽が豪快に喉を鳴らして飲むビールの音と、母さんの「おかわりはあるわよ!」という声が、俺の耳に心地よく響いていた。
……これ、明日どうやって大学に行けばいいんだ、マジで。
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「……というわけだ。信じてもらえないかもしれないけど、彼女たちは本当に、昨日俺がフリマで買った『石』から現れたんだ。昨日言ったことは、一字一句すべて本当なんだ」
湯気の上がる味噌汁を前に、俺は今度こそ、逃げ場のない真剣なトーンで切り出した。
気絶するように眠ったおかげで、オーバーヒートしていた脳は少しだけ冷えている。今なら、あの「正直すぎて不審者扱い」された昼間の失態は繰り返さない。
「外では一応、カバーストーリーを作ってある。彼女たちは俺の大学のモデルの仕事で知り合った『留学生と、その付き添いの親族』……っていう設定だ。だから今日の撮影も、その流れで起きた事故みたいなもんだって世間には説明するつもりだよ」
沈黙が食卓を支配した。
琥珀は「里芋」という未知の球体に苦戦し、紅羽は「この麦の酒、悪くないわね!」と父さんのビールをお代わりしている。
「……なるほどな。石に血をかけたら、彼女たちになった」
父さんが腕を組んで深く頷いた。
「正直、建築の世界でも『ありえない構造』が実在することはあるからな。お前があの服をタダでもらってきた。……それが『事実』である以上、過程がどうあれ、お前が嘘をついているようには見えん。死人が出たわけでも、家が全壊したわけでもないしな。うん、いいじゃないか」
さすが父さん、究極の事なかれ主義だ。以前、俺が実家で石を削って家中を粉塵で真っ白にした時、「頼むから外でやってくれ」と淡々とアパートへ追い出した時の胆力は健在だった。
「お母さんも賛成! 琥珀ちゃんも紅羽さんも、こんなに良い子なんですもの。石から出たのなら、それはもう運命よ! 創は責任取って、二人とも幸せにするのよ。お母さん、いつでも式場のパンフレット取りに行くから!」
「母さん、話が飛躍しすぎだ。重婚になるだろ」
母さんの「恋愛脳ポジティブ変換」は、もはや神々の神性すら凌駕している。
「……お兄ちゃん」
最後に、結愛が低く、震える声で口を開いた。
「お兄ちゃんが、あの『土と油の臭いがする四畳半』で原始人みたいな生活してまで、一生懸命なのは知ってるよ。変なゴミばっかり買ってくるのも、いつか凄いものを作りたいからでしょ? だから、お兄ちゃんがそこまで真剣な顔で言うなら信じるしかないのかも、しれないけどさ……」
結愛の瞳には、兄への信頼と「でもキモオタの妄想すぎない!?」という現実的な拒絶が混ざり合っていた。
「眷属の妹君よ、貴女の兄は私の『魂の形』を描き出そうとした唯一の人間です。選ばれる理由はそれだけで十分でしょう」
「そうよ結愛。この創って男は、アタシの真ん中を射抜く名前を付けてくれたんだから。アンタもアタシたちの魅力にさっさと降参しなさいな」
紅羽が豪快に笑いながら結愛の頭を乱暴に撫でた。
「ちょっと! 髪乱れるでしょ! ……もう、お兄ちゃんのバカ! 変態! でも、明日大学で誰かに絡まれたら、ちゃんと私が助けてあげるから感謝しなさいよね!」
顔を真っ赤にして、結愛は再び味噌汁を啜り始めた。
妹なりの「肯定」だった。
夕食が進むにつれ、リビングには不思議な一体感が生まれていた。
琥珀はテレビのバラエティ番組を見て「この、ひな壇という階級制度は……」と分析し、紅羽は母さんと楽しそうにファッションの話をしている。父さんはもはや、自分のビールが次々と紅羽に奪われていることすら気にしていない。
俺は、究極の美と普通の家庭という、あまりにも不釣り合いなほど暖かい食卓を眺めた。
スマホを開けば、まだネットの海では俺を巡る狂騒が渦巻いている。だが、この四畳半の延長線上にあるような賑やかさがあれば、明日、あの炎上している外の世界へも、一歩踏み出せる気がした。
「よし。じゃあ、当面はこの方針でいく。……大学には、明日から彼女たちを連れて行く」
「はあ!? 正気!? ……私が助けるって言ったのは『誰かに絡まれたら』の話であって、自分から燃料投下しに行くなんて聞いてないんだけど!」
結愛の悲鳴に近いツッコミが飛んできたが、俺の決意は固かった。
「隠し通すのはもう無理だ。なら、いっそ『美大生としての仕事』として堂々とモデルとして連れて行く。それが一番彼女たちの異質さをカモフラージュできるはずだ」
「いいじゃない! 創、頑張ってね!」
「グルル……マスターの通う『学び舎』、興味があります」
「あはは! アンタの隣で、また世界を驚かせてあげるわ!」
琥珀が静かに俺の袖を掴み、紅羽が不敵に笑う。
窓の外では、まだSNSの喧騒が渦巻いているはずだ。だが、戦場のような一日を終えた俺の胸には不思議な高揚感が宿っていた。
「……さて。明日の準備、始めるか」
俺は、ボロボロになったスケッチブックを取り出した。
明日、俺は美大という戦場に二人の神を解き放つ。
その先に待っているのが賞賛か、それとも破滅か。造形屋としての俺の魂が、今、激しく震えていた。
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