第4話 結城家リビング、プライバシーの崩壊現場 前編
4話 前編
リビングでは、一台のタブレット端末を囲んで二人の女性が石像のように固まっていた。
一人は、パートから帰ってきたばかりの母・佳乃。
もう一人は、学校を早退して戻ってきた妹・結愛。
「……ねえ、お母さん。これ、完全にお兄ちゃんだよね?」
結愛の声は震えていた。画面に映っているのは、X(旧Twitter)で二十万リポストを超えている「女神に腕を組まれて死んだ魚の目をしている美大生」の鮮明なショット。
「そうねぇ……。創、いつの間にこんな立派な服を? あら、でも彼女たち本当に綺麗ね。やっぱりお母さんの言った通り、創ったら情熱的ね! 世界中に自慢しちゃうなんて!」
「お母さん、それどころじゃないって!! トレンド見てよ! 『#駅前の女神』が世界一位だよ!? 友達からのラインにも『これ結愛のお兄ちゃんじゃない?』って通知が止まらないんだから!! 掲示板には家の場所まで特定されそうになってるし、どうすんのよこれ!!」
その時、ガチャンという絶望に満ちた鍵の開く音が響いた。
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「……ただいま」
俺が絞り出すような声で玄関を開けた瞬間、そこにはスマホを握りしめ、顔面を真っ赤にした結愛が仁王立ちしていた。
「お兄ちゃん……。今自分が世界をどれだけ燃やしてるか分かってるの?」
結愛の突き出すスマホの画面には、アルカナ・モードの公式が投稿した「琥珀と紅羽の決定的な美」と、その背後でマヌケに写り込んでいる俺の姿が映し出されていた。
「お兄ちゃんのバカーーー!! 世界中に恥を晒して!! こんなに密着して歩いて!! 警察!? 警察呼ぶ!? ネットポリス!?」
「結愛、落ち着け。拡散はもう、手遅れなんだ……」
俺は山のような高級ブランドの袋を抱えたまま、玄関に雪崩れ込むように入った。俺の後ろからは、最高級のシフォンドレスを纏い、もはや存在自体が発光している琥珀と、真紅のタイトスーツで廊下の温度を数度上昇させている紅羽が、悠然と入室してくる。
「結愛、落ち着きなさいな。あら……琥珀さんも紅羽さんも、なんて素敵なの!」
奥から現れた母さんは、スマホの炎上などどこ吹く風で二人の新しい衣装に目を輝かせている。
「見てよ母さん、この子たち! パーカー1枚だった時より、ずっと危険なオーラ出してるじゃない! お父さんからも『創が指名手配みたいな騒ぎになってるが大丈夫か』って震える声で電話きたんだから!」
「不敬です、眷属の小娘」
琥珀が、ドレスの裾を優雅に揺らしながら冷ややかに告げた。
「マスターは、私の真髄を理解する者と共に私の装いを選んだ。外の世界の雑音など、落雷一つで消し去れる程度の事象です」
「落雷させないでって言ってるだろ!!」
俺は膝から崩れ落ちそうになった。
「いいじゃない結愛。お兄ちゃん、意外とやり手だったのねぇ。まさか一日でこんな高級ブランドのモデルにするなんて。これで我が家も安泰かしら?」
母さんは「今夜は赤飯ね!」と浮かれているが、リビングはもはやかつてないほどの混沌に包まれていた。琥珀は「家のネット回線」という概念を理解しようとしてルーターに指を近づけ、パチパチと火花を飛ばして結愛を悲鳴を上げさせている。紅羽は紅羽で、「アタシ、この格好気に入ったわ」と鏡の前で自惚れ、世界が自分を中心に回っていることを微塵も疑っていない。
俺は、ポケットの中で絶え間なく震えるスマホを取り出した。
美大の友人、教授、そして知らない番号。
「……終わった。明日からどうやって大学に行けばいいんだ」
俺の呟きに、紅羽が艶やかに微笑みながら俺の肩に腕を回した。真紅のスーツから伝わる熱が、絶望に震える俺の体を容赦なく温める。
「大丈夫よ、創。アンタがどこへ行こうと、アタシたちがついていってあげる。世界中がアンタを注視してるなら、最高の『作品』としてアタシたちを展示してあげなさいよ」
「展示って、お前。大学に連れて行ったら、それこそキャンパスが物理的に燃えるだろ……」
SNSでは今もなお、俺を「女神に選ばれた謎の男」として、あるいは「希代のペテン師」として何十万人もの人間が監視し続けている。
平凡な美大生の日常は、デジタルの炎と神々の熱量によって、完全に灰へと帰していた。
――こうして、結城家のプライバシーは、女神たちの圧倒的な「質感」によって跡形もなく焼き尽くされた。
俺の本当の受難は、まだ始まったばかりだった。
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夕闇が結城家を包み込む頃、リビングには異様な、それでいて不思議と家庭的な熱気が立ち込めていた。
床に崩れ落ちたまま、三日不眠の限界を迎えて泥のように眠り続ける創。その傍らには、守護者のように琥珀が座り込んでいた。彼女は当初、眠る創の頬を「 マスター、再起動を」とつついていたが、反応がないと分かると、母・佳乃から手渡されたリモコンをいじり始めた。
画面に映し出されたのは、奇しくも夕方のニュース番組。そこには自分たちの『駅前炎上騒動』が「ネットで話題の美女二人組」として取り上げられていたが、琥珀はそれよりも、次番組のアニメに釘付けになった。
「……色彩の遷移が激しいですね。これが現代の『動く絵』ですか」
時折、画面の展開に合わせて指先から小さな紫電が漏れ、テレビが「ジジ……」と悲鳴を上げるたび、監視役の結愛が「壊さないでよ!?」と震えながらツッコミを入れる。それが今の結城家の日常になりつつあった。
一方、台所では紅羽が八面六臂の活躍(?)を見せていた。
「ねえ、ヨシノ。この赤い野菜、そのまま食べるより火を通した方が『燃えるような味』になるのかしら?」
「そうなの。紅羽さん、分かってるわねぇ」
佳乃は、絶世の美女が慣れない手つきで包丁を握る姿に頬を上気させていた。
「こうしてお嫁さんと一緒に晩ご飯を作れるなんて、お母さん夢みたい! 創ったら照れてるのか死んだふりしちゃって、本当は嬉しくてたまらないのね」
「あはは! 創の顔、さっきから真っ白だものね。あ、これ美味しそう」
紅羽が煮物の鍋から里芋を素手でつまみ上げようとし、「つまみ食いはダメよ!」と佳乃に軽く手を叩かれる。だが紅羽はどこ吹く風で、「ヨシノの味付けは最高ね。今夜の宴が楽しみだわ。……ところで、ここには『火の酒』はないの?」と、すでに晩酌の催促を始めていた。
結愛は、そんなカオスな光景をリビングの隅から睨みつけていた。
兄の介抱、二人の女神の監視、そして止まらないSNSの通知。三つを同時にこなす彼女の精神は限界に近かったが、兄が気絶《睡眠》している間は、少なくとも「変なこと」が起きないという一点において微かな安堵を感じていた。
そこへ、玄関の鍵が回る音が響く。
「ただいま……創! 創は無事か!?」
SNSの騒動を職場で知り、残業を全て放り投げて飛んできた父・泰三が、息を切らしてリビングに飛び込んできた。
その瞬間、創の意識がゆっくりと覚醒を始めた。
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