第2話 黎明の炎、朱金の情熱
「はあ? 先に起きただけでしょ。アタシの方がずっと前からマスターの傍にいたんだから、アタシの方が『一番』に決まってるじゃない」
赤金髪の美女――が、豊満な胸を反らせて勝ち誇ったように笑う。その挑発的な言葉に、琥珀が眉をひそめ部屋の空気がバチバチと放電を始めた。
「……不敬です。マスターが私を先に求めた時点で、序列は決まっています。時間の長さなどは誤差に過ぎません」
「誤差なわけないでしょ! 愛の重さは時間の長さに比例するのよ。ねえ、マスター?」
熱を帯びた瞳で見つめられ、俺、結城創は、押し寄せる情報の渦の中で必死に思考を回した。
……確かに。
冷静に考えると彼女の言うことには一理ある。
琥珀が封印されていた「牙の化石」を買ったのは今日の昼間だ。だが、この美女が眠っていた「朱金の石」は、俺が三年前に地元の寂れた骨董市で一目惚れして買ったものだ。
「……確かに。あっちの石の方が付き合いは長いな」
造形物オタクとしての記憶が、うっかり肯定の返事を出してしまった。
三年前。まだ美大に入る前、あの石の複雑な結晶構造と、奥底から滲み出るような赤い輝きに心を奪われたあの感覚。デッサンの授業で煮詰まるたびに、俺はあの石を眺めては「いつかこの輝きを絵具で再現してやる」と誓ったものだ。
「ほら! 聞いた? アタシの方が圧倒的古参なのよ! アンタなんて今日来たばかりの『新参』じゃない!」
「……っ、マスター!? そのような理屈、認められません!」
「二人とも落ち着け! とりあえず、一番とか二番とかどうでもいい! それより……お前に、まだ名前を付けてなかったな」
俺がそう言うと、不敵に笑っていた赤金髪の彼女が、ふっと表情を和らげた。期待に満ちた、しかしどこか鋭い眼差しが俺を射抜く。
「……いいわね。アンタがアタシをどう『定義』するのか、見せてもらうわ」
俺は彼女の前に立ち、その姿を凝視した。
琥珀が「神秘的な黄金比」であり、静謐な輝きを放つ完成された彫像だとするなら、彼女は正反対だ。
腰まで届く赤金髪は、まるで意志を持つ炎のように揺らめき、一瞬たりとも同じ形を留めない。グラマラスな肢体からは圧倒的な生命力が溢れ出し、その存在自体が周囲の空間を「熱」で支配している。
重厚で、底知れぬ力を秘めた「闇」のような熱量。
それでいて、洗練された「光」のような軽やかさと鋭さ。
俺は、脳内にある色彩と造形の辞書を猛烈な勢いでめくった。
「お前の真名は……『黎炎』だ」
彼女の瞳が、僅かに見開かれた。
「黎……物事が始まる直前の、深い闇。そして夜明け。お前が持つ、すべてを無に帰し、そこから新しい命を芽吹かせる根源的な火のイメージだ。底の見えない重厚な熱量。それを込めた」
俺は一呼吸置き、彼女の揺らめく髪――その一枚一枚が羽根のように繊細で、鋭利な美しさを放っている部分に指を向けた。
「でも、普段呼ぶには重すぎるな。……普段は『紅羽』と呼ばせてくれ」
「紅羽……?」
「深く鮮やかな赤――紅。そして、その情熱を自由へと羽ばたかせるための羽だ。洗練された美しさと俺の網膜を真っ直ぐ射抜く鋭さを持つ、最高に鮮やかな飛翔の象徴だ」
静寂が部屋を支配した。
背後で布団にくるまって監視していた結愛さえも、俺のあまりにガチすぎる名付け(美大生モード)に気圧されて黙り込んでいる。
紅羽は、呆然とした様子で自分の名を反芻するように呟いた。
「黎炎……紅羽。……ふふ、あはははは!」
突如、彼女が大笑いした。
その瞬間、部屋の空気が一気に爆発した。火が出るわけではない。ただ、強烈な「歓喜」の波動が物理的な衝撃波となって俺の頬を撫でたのだ。
「いいじゃない、最高よマスター! アタシの真髄を見抜くなんて、アンタ、ただのスケベじゃなかったのね。気に入ったわ!」
紅羽は俺の首に腕を回すと、そのまま強引に引き寄せ、額をこつんとぶつけてきた。
「よろしくね、創。アタシがアンタの隣で、誰よりも鮮やかに羽ばたいてあげる!」
熱い。だがそれ以上に、至近距離で見る彼女の肌の質感に戦慄した。この絶妙な表面張力、どんな超微粒子粘土を練れば再現できるんだよ。造形屋としての魂が、人智を超えたその「肉の完成度」に悲鳴を上げた。
「あ、ああ。……でも、とりあえずその前に、服を着てくれ。本当に頼むから」
「えー? アタシ、このままでも全然平気よ? 琥珀みたいにパーカー1枚っていうのも、そそるけどね」
「認めません!」
琥珀が二人の間に割って入る。
「紅羽、あなたにはこの『Tシャツ』という布を授けます。マスターの貴重な資料の一部です。速やかに肌を隠しなさい」
「はあ? なに、アンタ、お姉さんぶるつもり? いいわよ、着てあげようじゃない。どうせなら一番キツそうなやつ貸して。アタシ、マスターの趣味を知りたいの」
「お兄ちゃんの趣味を理解しようとするな! ていうか二人とも、私の存在を忘れないでよね!」
結愛が立ち上がり、俺のタンスから「適当なスウェット」と「一番でかいTシャツ」を引っ張り出してきた。
「はい! 琥珀さんもこれ穿いて! 紅羽さんはこれ! これ以上お兄ちゃんの毒を増やさないで!」
嵐のような着替えタイムが始まった。
琥珀は俺のスウェットを丁寧に穿き(なぜか嬉しそうに匂いを嗅いでいた気がするが、見なかったことにした)、紅羽は俺の一番デカいTシャツを無理やり被った。
……が、紅羽の方は誤算だった。
胸元のボリュームのせいで、デカいはずのTシャツがパツパツになり、逆に扇情的なラインを強調する結果になってしまった。
「見ろ、あの鎖骨から胸鎖乳突筋にかけてのシワの入り方……。ファブリックの張力が、内側にある人体の質量に敗北している……。これぞ『着衣の真髄』だ……」
「お兄ちゃん、語ってないで目を逸らしなさいよ!!」
結愛が遠い目をしながら俺のベッドの横に布団を敷き直した。
「とにかく今夜はもう寝るぞ。……俺は床でいい。結愛はベッドを使え」
「当たり前でしょ! お兄ちゃん、一歩でも変な動きしたら警察だからね!」
部屋の明かりを消す。
俺の左側には、冷んやりとした神秘的な気配を放つ琥珀。
右側には、暖炉のそばにいるような熱量を持つ紅羽。
そして足元には、殺気を放ちながら監視する妹。
暗闇の中で、紅羽が小声で囁いた。
「……ねえ、創。アタシを先に買ったこと、後悔してないわよね?」
「ああ。あの石の輝きには、何度も救われたからな。……いつかあの赤を、キャンバスで再現するのが俺の夢だったんだ」
「……ふふ。なら、いいわ。おやすみ、アタシのマスター」
窓の外では、まだ紫の雷の名残がうっすらと夜空を焦がしていた。
明日からの生活を想像するだけで眩暈がするが、俺の指先に残った「血」の熱は、不思議と心地よかった。
――こうして、結城家の最も長くて騒がしい夜は、ようやく更けていった。




