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血の契約は鼻血から ~封印の古龍をうっかり目覚めさせたら美少女になりました~  作者: 渡部安恵
第1章

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第1話 朱金の熱風、絶望の二重奏

 深夜の結城ゆうき家のリビング。

 そこには、二十年生きてきた俺の人生で最も濃密で、そして最も救いようのない空気が漂っていた。


「……タクシー使えばよかったのに」


 お茶を啜りながら父さんがポツリと言ったその言葉に、俺は魂が抜けたような顔で「……あ」と漏らすことしかできなかった。

 そうだ。一時間もかけて夜道を歩く必要なんてなかった。駅前に行けばタクシーなんていくらでもいたんだ。だが、化石が美少女になるという宇宙規模のバグに直面した俺の脳に、交通機関という高度な文明の利活用を思いつくリソースは残っていなかった。


「で、あらた。あらためて説明してくれないかしら? その、とっても綺麗な……ええと、琥珀こはくさん?」


 母さんが、俺の隣で悠然と座る琥珀をチラチラと見ながら促す。琥珀は俺のブカブカのグレーパーカーの袖から指先だけを出し、黄金の瞳でじっと両親を見つめていた。


「母さん、信じてくれ。俺は今日、公園のフリマで古い化石を買った。それにうっかり鼻血をかけたら、それが部屋いっぱいの龍になって、その後この姿になったんだ。……嘘じゃない。俺の四畳半が今ごろどうなってるか思い出してくれ」


 俺は必死だった。造形屋としてのプライドにかけて、事実のみを述べている。だが、説明すればするほど、自分の言葉が「末期の美大生の妄想」にしか聞こえないことに気づき、背筋が寒くなる。


「……そうか。石に血をかけたら、彼女になったんだな。うん、創。……美大の課題は、そんなに精神を削るものなのか?」


 父さんが、見たこともないような深い慈愛の眼差しを俺に向けてきた。

 やめてくれ父さん。その「息子が壊れた」と確信したような目は俺に効く。


「もう、創ったら! 本当は大学近くで同棲してたんでしょう? そんなファンタジーな設定で照れ隠ししなくてもいいのに。琥珀さんお腹空いてるわよね? あ、でも、服がパーカー1枚って……うちの子意外と積極的だったのねぇ」


 母さんは母さんで、俺の「不純異性交遊」を確定事項として処理し、なぜか少し嬉しそうに頬を染めている。


「……待ってよ。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんの頭がおかしくなった可能性を無視しないでよ!」


 リビングの端で、般若のような形相でスマホを構えているのは妹の結愛ゆあだ。彼女は琥珀が登場した瞬間から、一度もその警戒の糸を解いていない。


「お兄ちゃんの血が美少女になるわけないじゃん! どこの女よ、あんた! お兄ちゃんを騙して貢がせてる詐欺師でしょ! だいたい、なんでお兄ちゃんのパーカーだけなのよ! 教育に悪い、出ていけ! 変態! 不審者!」


 結愛の怒声に対し、それまで沈黙を守っていた琥珀が、ゆっくりと口を開いた。


「マスターの眷属けんぞくたちよ、案ずるな。私はマスターの血を継ぎ、その命を護る者。……今の私は、この『服』という布切れの構造を理解しようと努めている最中ゆえ、非礼は容赦してほしい」


 琥珀の微妙に上から目線の挨拶が火に油を注いだ。


「眷属!? 今、家族のこと眷属って言った!? 完全にお兄ちゃんの脳内設定と同期してるじゃん! お兄ちゃん、最悪! 病院! 今すぐ精神科に予約入れてあげるから!」


 カオスだ。

 父さんは反省モード、母さんは歓迎モード、妹は排除モード。そして当事者の俺は、三日不眠の限界モード。


「……悪い、もう限界だ。琥珀を置いて逃げたりしないから、とりあえず寝させてくれ」


 俺は両親の心配そうな、あるいは生温かい視線から逃げるように、琥珀を連れて二階の自室へと退散した。



@@@@@



 俺の部屋――そこは、六畳の聖域だ。

 作りかけの粘土フィギュア、集められた珍しい鉱石、そして数々の資料用コレクション。


 ベッドに倒れ込もうとした俺の袖を、琥珀こはくが引いた。


「マスター、この部屋……非常に強い『命の形』が眠っていますね」


 琥珀がじっと見つめていたのは、棚の一角に飾ってあった「朱金しゅきんに輝く石」だった。数年前、骨董市で「朱雀の卵」という謳い文句と共に売られていた俺のお気に入りのコレクションだ。


「ああ、それか。造形が綺麗だろ? 角度によって色が……」


「呼び覚ましますか? マスターの血があれば、これに眠る魂も目を覚ますでしょう」


 琥珀の黄金の瞳が、俺を誘惑するように細められる。


 正直、これ以上のパニックは御免だ。だが、俺は「造形屋」なのだ。

 琥珀という、粘土でも石でも再現不可能な「究極の肉体美」を突きつけられた今、この石の中にどんな未知の造形が眠っているのか。白銀の琥珀に対し、この『朱金』が並んだ時、どれほどのコントラストが生まれるのか。それを見ずに死ねるか。

 俺の理性が「やめろ」と叫んでいた。だが、三日不眠でストッパーの壊れた脳内では、彫塑ちょうそ科としての「業」が歓喜の咆哮を上げていた。


 俺は震える指先で、粘土細工用のカッターナイフを手に取り、指の腹を少しだけ切り、滲み出た鮮血を朱金の石へと垂らした。


 その瞬間だった。


「――って、ああっ! お兄ちゃんの部屋が変な色に光ってる!!」


 廊下で聞き耳を立てていたと思われる結愛ゆあの叫びと同時に、部屋の空気が爆ぜるような熱量に書き換えられた。


「ッ!!?」


 視界が真っ赤に染まる。深夜の静まり返った空気など一瞬で死滅し、俺の部屋の真ん中に見たこともない巨大な「炎の翼」が一瞬だけ羽ばたいた。熱風が爆発的に広がり、棚に並んでいた俺の魂の結晶(フィギュアたち)がなぎ倒される。


 炎が収まった中心。

 煙が立ち込める中、片膝をついて現れたのは、燃えるような赤金髪レッドゴールドを腰まで伸ばした美女だった。


「……ふぁあ、よく寝た」


 彼女は気だるげに欠伸をしながら立ち上がる。その肢体は琥珀よりもさらに肉感的で、肌からは微かな陽炎が立ち上っていた。

 俺は恐怖も忘れ、その髪に目を奪われた。毛先に向かって朱色から金へと溶け合うように変化する、完璧なグラデーション。どんな高価な絵具を混色しても、この「生命感のある発色」は再現できない。


「アンタがマスター? ――へぇ、面白そうな血《情報》じゃない」


 不敵に笑った彼女が、俺の喉元を強引に引き寄せる。

 触れられた場所が熱い。だが、鼻を突くのは焦げた匂いではなく、真夏の陽だまりのような、どこか懐かしい匂いだった。


「お兄ちゃん! 火事!? 火事なの!?」


 扉が勢いよく開き、結愛が飛び込んできた。

 そして、彼女は見た。


 煙の立ち込める部屋。白金髪の美少女(こはく)と、その隣に新しく現れた、やはり一糸まとわぬ赤金髪の美女。二人の美女に挟まれ、腰を抜かしている兄の姿を。


「……って、増えてる!! また裸の女の人が増えてるーーー!!! しかもデカい!! 何がとは言わないけど琥珀さんよりさらに体積が暴力的っ!! お父さんーーー!! お母さんーーー!! お兄ちゃんがどこからか新しい裸の女の人を連れ込んでるーーー!!!」


「結愛! 違うんだ、これは造形美の探求の結果で……見てくれ、この大腿筋から膝裏にかけての完璧なS字カーブと、皮下組織の存在を感じさせる絶妙な透過性を! この圧倒的なボリュームを支える骨格のリアリティ、粘土じゃ絶対に再現できない……っ!」


「何が探求よ! お兄ちゃんのスケベ!! 変態! 絶交!!」


 結愛は廊下へ走り去りながら絶叫したかと思えば、すぐに布団を抱えて戻ってきて部屋の隅に陣取った。


「監視してやる! お兄ちゃんをこれ以上ダメにさせないんだから!」


 カオスの上乗せだ。そんな俺の絶望を余所に、新しく現れた赤金髪の美女が琥珀こはくを睨みつける。


「あはは、面白いマスターね。……でも、横の女、アンタは癪に触るわね。マスターの『一番』はアタシよ」


 琥珀もまた、一歩も引かずに紫の火花を散らしながら言い返した。


「……不敬です。マスターが私を最初に定義した時点で、序列は決まっています」


 ――終わった。

 俺の平穏な美大生ライフは、今夜、跡形もなく焼き尽くされた。

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