第3話 神々の散歩道、視線という名の暴力
翌朝、俺の意識は「熱」と「重み」によって浮上した。
右からはキャンプファイヤーに抱きついているような陽炎の熱。左からは、静かな湖底に沈んでいるような冷涼な圧迫感。そして足元からは、布団越しに伝わる「お兄ちゃんを絶対に逃さない」という妹の呪縛的な気配。
「……重い」
三方向からの圧に耐えかねて身を起こすと、案の定、紅羽と琥珀が俺の腕を分け合うようにして寝ていた。紅羽は俺のTシャツをはち切れんばかりに膨らませ、琥珀はパーカーの裾を握りしめている。
なんという造形的飽和状態。だが、感慨に浸る余裕はない。
「お兄ちゃん起きた? ……一応言っとくけど、昨夜は何もなかったわね。私の監視のおかげで」
足元の布団から寝癖だらけの結愛が這い出してきた。その眼光は三日三晩獲物を狙ったハンターのように鋭い。
「……ああ。おかげさまで、一睡も……いや、それなりには眠れたよ」
一階に降りると、すでに出勤した父さんの姿はなく、リビングでは母さんが朝食を並べていた。
食卓を囲むのは、エプロン姿の母、不機嫌な妹、そして「俺の服」を着た絶世の美女二人。
「あらあら、紅羽さん。その格好……ちょっと、さすがに無理があるわね」
母さんの指摘に、俺は改めて紅羽を見た。
俺の持っている中で最も大きいLサイズのTシャツ。それが、彼女の暴力的なまでのグラマラスなラインによって、まるで競泳水着のようにぴっちぴちに引き伸ばされている。
生地の繊維が限界まで引き絞られ、プリントのロゴが原型を留めないほど歪んでいる。コットンという素材の物理的限界を、俺は初めて目の当たりにした。
「そうかしら? 創の匂いに包まれて、アタシは悪くないと思うけど」
「良くないわよ! 目のやり場に困るでしょ!」
喚く妹を制して、母さんが俺の手に数枚の一万円札を握らせた。臨時支給のお小遣い――という名の「早急にまともな服を買ってこい」という命令書だ。
「いい? これは前借りだからね。これから他に必要なものが出来たら自分で稼ぐこと。琥珀さんと紅羽さんの分、ちゃんと下着から何から揃えてあげなさい」
「……了解。行ってくる」
妹は学校へ、母はパートへ。
俺は大学をサボることを決意し(というか、この状況で講義に出られるはずがない)、琥珀と紅羽を引き連れて家を出た。
「……電車で行くぞ」
二駅隣にある量販店を目指す道すがら俺はそう告げた。
本当はタクシーを呼ぶべきなのだろう。だが、手元にあるのは母さんから預かった限られた資金。ここで数千円を溶かすわけにはいかない。
しかし、駅に着いた瞬間に後悔した。
改札を抜けたあたりから空気が変わった。
ヨレヨレのTシャツにサンダルという、典型的な「課題に追われて死にかけている美大生」の俺。その両脇を固めるのは、白金髪の神秘的美少女と赤金髪の爆乳美女。二人とも靴は俺の予備のサンダルで、服も借り物だというのに、その「姿勢の美しさ」がすべてを圧倒している。
琥珀は、まるで聖母のように静謐な歩調。
紅羽は、ランウェイを歩くトップモデルのような堂々たる歩調。
「おい、見ろよ……」
「コスプレ……じゃないよな? あの肌の質感、本物だろ」
「真ん中の男、何者だよ。前世で世界でも救ったのか?」
向けられる視線、向けられるスマホのレンズ。
俺は無意識に、造形屋としてのスイッチを入れた。
(……琥珀の歩幅は一定で、重心の移動に無駄がない。紅羽の腰の捻りは、脊柱起立筋の柔軟性がなせる業か。デッサンしたい。今すぐクロッキー帳を取り出したい……)
周囲の嫉妬混じりの視線を「観察のノイズ」として処理し、俺たちはなんとか電車に乗り込んだ。
車内は一瞬で静まり返った。座っていた乗客が反射的に起立し、モーセの十戒のごとく道が開く。圧倒的な『存在の密度』に、車内のパーソナルスペースが物理的に押し広げられたかのようだった。
「マスター、不躾な視線が多すぎます。……排除しますか?」
「琥珀、やめろ。それ、一番言っちゃいけないやつだ」
「いいじゃない、見せつけてあげれば。アタシがアンタのモノだってこの街中にね」
「紅羽、お前も火に油を注ぐな!」
二駅の間、俺は「自分は透明人間だ」と自己暗示をかけ続けた。
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駅前の量販店。
ここで安く、丈夫な服を数着揃える――それが俺の計画だった。しかし、店舗の入り口に向かおうとした時、横のブティックから一人の女性が猛然と飛び出してきた。
「ちょっと! そこ、止まって!!」
鋭い眼光。刈り上げたサイドヘアに派手なピアス。
若者向けのハイエンドブランド『アルカナ・モード』から飛び出してきた彼女は、獲物を見つけた猛獣のような速度で俺たちの前に立ちふさがった。
「な、なんですか……?」
「お兄さん、あんたじゃない。……その横の二人!」
彼女は、俺を視界の端にも入れず、琥珀と紅羽の前に膝をつかんばかりの勢いで迫った。
「私はこの店の店長兼デザイナーの佐藤よ。……驚いた。私の新作は、この世の誰にも着こなせない傲慢な服だと思ってた。でも……今、理解したわ。この子たちのために私はあの服をデザインさせられたのね!」
佐藤は震える手で、琥珀のシフォン素材のような肌と、紅羽の情熱的なラインをなぞるように空中に指を滑らせた。その目は完全に「同類」――美の求道者のそれだ。
「悪いけど、今からユニシロで買い物なんだ」
「今からユニシロ? 彼女たちに量販店の既製品を着せるの? 冗談でしょ! そんな最高級の『素材』に既製品の安物を着せるのは、ルーヴル美術館にブルーシートを被せるようなものよ。お兄さん、交渉しましょう。宣伝モデルになって。うちのSNSと広告用の写真を撮らせてくれたら、今日選んだコーディネート、全部タダでいいわ!」
「……全部、タダ?」
俺の脳内で、母さんから借りた「なけなしの一万円札」たちが歓喜の舞を踊った。だが、俺は胡散臭い話には乗らない。美大生として、服の価値と「見せ方」にはこだわりがある。
「タダという言葉には惹かれるが……。彼女たちの造形を殺すような服なら、断る」
「はぁ? 言うじゃない。……いいわ、入りなさい。私の『審美眼』が、あんたの納得するラインを下回るかどうか試してみれば?」
店内に引きずり込まれると、そこには量販店では絶対にお目にかかれない、繊細なレースや大胆なカッティングのジャケットが並んでいた。俺は佐藤とカタログを突き合わせ猛烈な議論を始めた。
「このVラインが琥珀の鎖骨を一番綺麗に見せる。だが、こっちの生地は重すぎて肩のラインが死ぬ」
「あんた、分かってるじゃない……! だったらこの超軽量シルクはどう? 彼女の透明感を倍加させるわ」
専門用語が飛び交う熱狂的な打ち合わせ。だが、その背後で空気がバチバチと震え始めた。
「マスター、この女、少し馴れ馴れしいです。……距離が近すぎます」
琥珀が、俺と佐藤が頭を突き合わせる姿を見て、黄金の瞳を剣呑に細めた。
バリッ!!
「ひっ!? 今、雷鳴った!?」
晴天の空から、店のすぐ近くの避雷針に落雷。店内の照明が一瞬明滅し、琥珀の指先から微かな紫煙が上がっている。
「……琥珀! やめろ、マジでやめろ! 電柱とか壊れたら、俺の支払い能力《バイト代》を秒で超えるんだからな!」
俺は血の気が引くのを感じながら、慌てて琥珀の手を隠すように握りしめた。そして、驚いて天井を見上げている佐藤店長の方へ引きつった笑顔を向ける。
「あ、はは……。最近、異常気象って多いですよね。今のも、ほら、局地的な『ゲリラ雷雨』の予兆ですよ。彼女が驚いて指先から火花……じゃなくて、静電気が、その、出ちゃったみたいで……あは、あははは……」
「静電気で避雷針に落ちるわけないでしょ。……まぁいいわ、それより今のライティング最高だったわね!」
店長が仕事モードで流してくれたおかげで、俺の胃に穴が開くのは免れた。自然現象の異常よりも、眼前のインスピレーションを優先する。彼女もまた、俺と同類の『狂った求道者』で助かった。
「マスター……。この女の視線、無機質な『観察』ではなく、明らかに貴方を『所有者』として尊重していません。不快です」
「観察してんのは服のラインだってば! 頼むから落ち着け。ここで雷落とされたら、俺たちは服どころか一生この店で手伝いをする羽目になるんだぞ」
一方で紅羽は余裕の態度だった。彼女は全身鏡の前で自分のプロポーションを眺め、時折、俺と佐藤のやり取りを煽るように笑う。
「あはは。いいわよ、二人で一生懸命アタシに似合うものを選びなさい。創、アンタが一番『綺麗だ』って思うやつなら、なんだって着てあげるから」
結局、琥珀には「静謐な月光」をイメージした透け感のあるシフォンドレス。紅羽には「燃え上がる太陽」を思わせる真紅のタイトスーツが選ばれた。
撮影が始まった瞬間、二人の「神性」が爆発した。琥珀は触れることさえ躊躇われるほどの透明感を放ち、紅羽は見つめる者の魂を焼き尽くすような色気を振りまく。
@@@@@
「……はぁ。死ぬかと思った」
数時間後。俺たちは山のような紙袋を抱えて帰りの電車に乗っていた。
車内は相変わらず、完璧に着飾った琥珀と紅羽を見る乗客たちの視線で痛いほどだが、今の俺にはそれを受け流す余裕さえなかった。
(あぶねぇ……。今の落雷で什器が壊れてたら、俺の油絵具の予備も、卒業制作の石材代も、全部消えて一生ローンの奴隷だった)
昨日の今日だ。もし今日も「謎の爆発」や「落雷」で通報されれば、今度こそ言い逃れはできない。万が一、原因として俺が特定されるようなことがあれば、莫大な損害賠償で一生を終える可能性すらあった。俺の「平凡な美大生」という生活は、その瞬間に粉々に砕け散っていただろう。
「マスター、顔色が優れません。……エネルギーの補給が必要ですか?」
琥珀が心配そうに覗き込んでくる。シフォンドレスから覗くその瞳はどこまでも純粋で、自分がさっき「国家予算級の損害」を出しそうになった自覚など微塵もない。
「……いや、大丈夫だ。ちょっと『現実』という名の重圧に耐えてるだけだから」
「そんなの、アタシが焼き尽くしてあげようか?」
隣で真紅のスーツを艶やかに着こなす紅羽が、悪戯っぽく指先に小さな熱を灯す。
「やめろ! 電車の中でボヤ騒ぎはマジで勘弁してくれ!!」
俺は必死に彼女たちの「神性」を抑え込み、なんとか地元駅へと辿り着いた。




