第17話 飽和する美
夕方。帰宅したリビングで、俺は儀式にも似た準備を整えていた。
テーブルの中央に鎮座する青い化石。俺は深呼吸を一つし、カッターの刃先を自分の指に走らせた。
「……頼む。目覚めてくれ」
じわりと滲み出た鮮血を、青い鱗の凹凸にポタリと落とす。
――その瞬間、空間が「静止」した。
琥珀の時のような乾いた音も、紅羽の時のような爆発的な熱量もない。
ただ、化石を中心に氷のような冷気が円状に広がり、空気がピンと張り詰める。青い化石は砕け散るのではなく、幾何学的なパターンを描きながら「分解」され、光の粒子へと昇華していった。
光の霧が晴れた跡に、一人の長身な女性が立っていた。
琥珀の柔らかな曲線とも、紅羽の情熱的なしなやかさとも違う。彼女の立ち姿は、まるで定規で引いたように真っ直ぐで、研ぎ澄まされた「直線の集積」だった。
「……ふん。この時代の文明レベルは相変わらず低俗ですね」
彼女は周囲を瞬時にスキャンするように視線を走らせると、迷いなく俺の愛読書――『美術解剖学』を手に取った。そして傍らにあった俺の眼鏡を無造作に手に取り、その高い鼻梁に乗せる。
眼鏡の奥の翡翠色の瞳が、知的な飢餓感で輝いた。
「……貴方が私の主になる方ですか?」
俺は息を呑んだ。彫塑家として、これほどまでに「整理された造形」を前にしたことがあっただろうか。
華奢な鎖骨、首から肩にかけての鋭角なライン。衣服を纏わぬその姿は、恥じらいよりも、自らが「完結した芸術品であること」を当然とする神格の誇りに満ちていた。
「ああ。……俺は結城創。お前を、俺の家族として迎え入れる」
俺は一歩踏み出し、自らの本能が導き出した「名」を紡いだ。
「通り過ぎた後に残る涼やかな風、そして誰にも捕らわれないその理知的な速さ……それがお前の本質だ。お前の真名は『碧風』」
彼女は僅かに瞳を細めた。
「……碧風。私の構成要素を的確に言語化した、良い定義です」
「そして――日常の中で呼ぶ名前だ。お前の立ち姿は、磨き抜かれた翡翠の彫刻のようだ。冷たいようでいて、その芯には揺るぎない生命力を感じる。だから、お前の呼び名は『翡翠』だ」
彼女は眼鏡をくいっと押し上げると、ふっと唇の端を持ち上げた。
「……ふん。貴方は美的センスだけは救いようがあるようですね。……翡翠。悪くない響きです」
彼女はそのまま、一切の無駄がない自身の身体を見下ろした。
それは、恥じらうためでも誇るためでもない。まるで、精密機械が自身のスペックを確認するような、無機質な動作。
翡翠は傍らにあった俺の眼鏡を無造作に手に取ると、当然のようにその高い鼻梁に乗せ、そのまま俺の愛読書をめくり始めた。
俺が食い入るような……もはや網膜に焼き付けようとするほどの視線を向けていることに気づくと、翡翠は挑発するように口角を上げる。
「ところで主。私の『黄金比』をそんなにまじまじと見つめて、何か非合理的な不具合でも発生しましたか?」
「不具合じゃない、感動だ……! お前のその腹筋から鼠径部にかけてのシャープなライン、これこそが至高の『機能美』だ。胸の質量なんて誤差に過ぎない。お前は計算し尽くされた建築物のように美しい。……最高だ、今すぐクロッキー帳を持ってこい!!」
俺が本気で叫ぶと、翡翠は眼鏡の奥で一瞬だけ視線を泳がせ、不器用な動作で手元の本を胸元に抱え込んだ。
「……変態ですか。ですが、美の探求という点においては、多少の熱意は認めましょう。貴方が観測者である限り、この『機能美』を維持する努力は惜しみません」
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翡翠を迎え入れ、真名を授けた直後のことだ。
両親は夫婦水入らずの温泉旅行、結愛はモデルの仕事で不在。つまり、この家には今、俺と三人の女神しかいない。
……絶好の、デッサン日和だ。
「……翡翠、そのまま動くな。その角度だ。外腹斜筋から鼠径部へ滑り落ちるラインが、夕陽の逆光で神殿の柱のように屹立している……!」
俺はスケッチブックを掴み、狂ったように鉛筆を走らせた。
翡翠は俺の眼鏡をくいっと上げ、全裸であることなど計算式の一要素に過ぎないとでも言うように、 泰然自若とした態度で『美術解剖学』を読み耽っている。
「不合理なほどに熱心ですね。……ですが、この『黄金比』を紙の上に正しく定義できるというのなら、観測を許可しましょう」
一度火がついた彫塑家の血は、もう誰にも止められない。翡翠を描き終える頃には、俺の脳内麻薬は完全に飽和状態だった。
「……最高だ。おい琥珀、紅羽! お前たちも脱いでそこへ並べ! 三人が揃った時の空間の均衡、それこそが今の俺が求める究極の『塊』だ!」
琥珀は「マスターが望むなら」と微笑み、紅羽は「あはは、創、目が血走ってるわよ!」と面白がりながら、彼女たちもまた、その神々しい肉体を惜しげもなくさらけ出した。
三者三様の肢体。異なる質感、異なる流動美。
俺は無我夢中で鉛筆を、コンテを、炭を振るった。
「ああ……美の暴力が、俺の脳細胞を焼き、網膜を蹂躙しに来ている……!! これだ、この三者三様のベクトルが衝突し、融和するキャンバスこそが宇宙の真理だ……っ!」
気がつけば、窓の外は完全に夜の帳が下りていた。
アドレナリンが切れると同時に、猛烈な空腹が襲ってくる。リビングの床には、描き殴られた数百枚のデッサン。そして全裸でくつろぐ三人の美女。
「……流石にお腹減ったな。適当に何か作るか、それとも――」
その時だった。玄関の鍵が開く、無機質な音が響いた。
「ただいまー……。もー、撮影押しすぎ。超疲れた。お兄ちゃん、なんか食べるものな――」
リビングのドアが開く。そこには、仕事終わりの完璧なフルメイクを施した結愛が立っていた。
結愛の視線が、床に散らばった裸婦画の山、鼻血の跡をつけたまま放心している俺、そして中央に鎮座する全裸の美女たち、と流れるようにスキャンした。
「…………え?」
結愛のバッグが、音を立てて床に落ちた。三秒の静寂の後。
「……増えてる。……裸が、また増えてる。……っていうか何してんのよこの原始人《バカ兄貴》ーーっ!!」
深夜の住宅街に、結愛の「正論」という名の咆哮が轟いた。
一時間後。
結愛の凄まじい説教を正座で受け流しながら、俺は冷え切った身体でようやく晩飯にありついていた。
「いい? お兄ちゃん。琥珀さんや紅羽さんは、もはやうちの家族みたいなもんだから百歩譲るわよ。でも、その新しい子は! ? なんで初対面で脱がせてんのよ! この芸術家崩れのド変態バカーーっ!!」
結愛がキッチンで怒鳴り散らしながら、自分用のスムージーを作っている。一方、リビングのテーブルでは――。
「……ズズッ。この『カップヌードル』という塩分と油分の結晶、栄養学的には破綻していますが、嗜好品としては合理的ですね」
「でしょ? 翡翠もわかってるじゃない。この乾き物もいいわよ。あ、琥珀、そのビール開けて」
「はい、紅羽。……この『イカの燻製』、噛めば噛むほど大地の恵みを感じます」
翡翠はいつの間にか結愛が着せたTシャツに眼鏡という姿で、琥珀、紅羽と並んで酒盛りを始めていた。
「ちょっと紅羽さん! 飲み過ぎだってば! 明日の朝、顔が浮腫んでも知らないからね!」
結愛は怒りながらも、紅羽のグラスに手際よく氷を足してやっている。その様子は、もはや「神様のお世話」というよりは、「行儀の悪い居候モデルたちを管理する敏腕マネージャー」のそれだった。
俺は、彼女たちの賑やかなやり取りをBGMに、スケッチブックの隅にこっそりと、憤慨して頬を膨らませる結愛のクロッキーを書き加えるのだった。




