第14話 買い物は国家予算で 中編
週末の銀座。重厚なドアを開けると、そこにはクラシックな内装と、最高級の生地の香りが漂う『サルトリア・オリーベ』があった。
「いいか、今日は家族サービスだ。男の美学というのは、自分をいかに魅力的に着飾るか、そして守るべき者たちに相応しい舞台を用意するかにある。……好きに選んでいいぞ、みんな」
父さんが、いつになく堂々とした態度で腕を組み、店内を見渡す。
その言葉を聞いた瞬間、母さんと結愛の瞳に火が点いた。
「あら、太っ腹ね、あなた!」
「お父さん、最高! 私、前から欲しかったツイードのセットアップ、狙っちゃおうかな!」
普段は堅実な二人だが、銀座という場所と父の気前の良さに、遠慮という言葉をどこかに置き忘れてきたようだ。
そして、二人の女神たちはというと。
「マスター。この、触れると水のように流れる布……これが『シルク』ですね? 非常に心地よい。これなら、私の霊子と親和性が高そうです」
「アタシは赤がいいわね。……この一番光沢があって触り心地が良いものを全部持ってきてちょうだい。 それが『最高』ってやつなんでしょ?」
琥珀はひんやりとした極上の純シルクを頬ずりし、紅羽は店内に並ぶ最高級の生地を指差して「一番高いもの」を要求する。
それを見て、父さんの額からじわりと冷や汗が流れた。
「え、あの……お客さま、そのシルクは非常にデリケートでして。普段使いには……」
困り顔の若い女性店員を助けるように、眼鏡の奥に鋭い光を湛えた店主が割って入った。
「お父様、お嬢様方。もし日常的に、そして美しく着こなしたいとお考えなら、シルクの光沢を持ちつつ耐久性に優れた『トラベラー系のハイツイストウール』や、上品な『シルク混のウール』をお勧めいたします。これなら型崩れしにくく、お手入れも楽ですよ」
店主の絶妙なフォローに、父さんは「お、おお……そうだな。それがいい」と安堵の息を漏らす。店主はニッコリと笑い、最高の生地を次々と棚から引き出していく。
だが。その「最高の選択」が、破滅への扉を開いた。
「それもいいわね」「こちらも素敵!」と母と結愛が選んだのは、イタリア・英国から取り寄せたトップクラスの生地。琥珀と紅羽が選んだのは、最高級のヴィンテージ・ウール。
次々と仮縫い用の生地が積み上げられ、店主が弾く電卓の音が、少しずつ軽快かつ壮大なリズムを刻み始めた。
やがて、小計を目にした父さんの顔面から血の気が引いた。
「……あ、あの、ちょっと待ってくれ。これ、想定していたより一桁……いや、二桁……?」
父さんの手が震え、目に見えて動揺が広がる。銀座の老舗の「本気」は、一般的なサラリーマンの限界突破を容易く要求してきた。
そんな父さんの肩を叩き、店主へ静かに告げた。
「……大丈夫。今回は俺が出すよ。領収書をください」
「えっ、創?」
「神々のメンテナンス費だ。社会生活を営むための必要経費……つまり、国家予算の一部だよ」
俺は、室井から「現金の持ち運びは危険ですので」と無理やり持たされた、あの漆黒のカードを財布から取り出した。
自室に置いてきた一億二千万の重みを思い出しながら、静かに一歩前に出る。
店主は、差し出されたカードの銀色の紋章を一瞥した。その刹那、眼鏡の奥の瞳に鋭い光が宿ったが、彼はそれ以上何も語らず、当然のように恭しくカードを預かった。驚くことも、その素性を探るような不作法もしない。淀みない動作で決済を済ませ、静かに頭を下げた。
「……承りました。最高の仕立てをお約束いたします」
その淡々とした、しかし有無を言わせぬプロの仕事に、父さんは一瞬きょとんとした後、ホッとしたように、それでいて少し寂しそうな表情を浮かべた。しかし、すぐに「そうか、経費か」と大きく頷き、再び太っ腹な父親としての顔を取り戻した。
「……そうか。なら、遠慮はいらんな。職人さん、うちの家族に一番いい生地を頼む」
そこからは父さんの独壇場だった。「この生地だ」「こちらのカフスも素晴らしい」とどんどん注文を重ねていく。俺の管理費が、音を立てて削れていく。
隣では琥珀が、自分に当てられるメジャーを「拘束具」と勘違いして、職人の手を止めていた。
「……マスター。この女、私を測る際に不遜な目つきをしていました。威圧をかけるべきでしょうか?」
「ダメだ。……ただの採寸だ。諦めてくれ」
「……マスターがそう仰るなら」
琥珀がしぶしぶとメジャーを受け入れたことで、店内に漂っていた張り詰めた空気がふっと霧散した。店主と女性店員は、先ほどまで目の前で『神の裁き』が執行されかけていたことなど露知らず――あるいは、ただの気難しい美人が大人しくなっただけと思い込み――深々と頭を下げる。
「かしこまりました! 最高の一着を仕立てさせていただきます!」
……結局、俺は「やれやれ」と言いながらも、店主が差し出すミッドナイトネイビーやチャコールグレーといった落ち着いた色合いのサンプルに手を伸ばしていた。
鏡の前でポーズを決める紅羽、嬉しそうに生地の質感を見比べる琥珀、そして「いいじゃない、お兄ちゃんも似合うわよ!」とはしゃぐ結愛と母。
銀座の片隅で、国家予算を溶かしながら仕立てられる、俺たちの新しい日常。
採寸用のメジャーを肩にかけられながら、俺は、この贅沢なまでの「平和な浪費」が、いつまでも続くようにと祈っていた。
間違って消しました(>_<)




