第8話 バイト先の奇跡
今日も俺の日常はさらなるカオスへと突き進んでいた。
「……いいか、大人しく座って待ってろよ。俺はこれから『労働』をしなきゃいけないんだ」
近所の個人経営イタリアンレストラン『トラットリア・結城野』。
人手不足で急遽シフトに入った俺の背後には、当然のように琥珀と紅羽が控えていた。
「マスターが他者のために糧を作るというのなら、私も一助となりたく。……掃除、及び環境の最適化を開始します」
「アタシも手伝ってあげるわよ。創が汗水垂らして働く姿を見てるだけなんて退屈だもの」
「頼むから大人しくしててくれ……!」
俺の必死の制止も虚しく、店長が奥から顔を出した。寝不足なのか少し顔色の悪い店長は、二人の姿を見た瞬間に持っていたトングを床に落とした。
「……創くん。その、ハリウッドスターと神話の女神を足したままのようなお連れ様は……?」
「あ、えっと……モデルの、撮影の練習……みたいなもので。とにかく無害ですから! 多分!」
「店長さん、アタシたち今日暇なの。人手が足りないんでしょ? アタシたちも使ってあげなさいよ」
紅羽の不敵な微笑みに、店長は「あ、はい……よろしくお願いします」と、蛇に睨まれた蛙のように頷くしかなかった。
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「……いらっしゃいませ。あ、いえ、お好きな席へどうぞ」
店長の困惑をよそに、琥珀がホールへと一歩踏み出した。その瞬間、奇跡は静かに、しかし劇的に始まった。
築三十年の古い店舗。染み付いた油の匂いや換気扇の低いうなり、そして梅雨時特有の湿った重苦しさが、琥珀が通り過ぎる先から「概念ごと上書き」されていく。
「マスター。この空間、酸素濃度が最適ではありません。微細な浮遊汚染物質……『チリ』と呼ぶのでしたか? これらも私の霊子膜で吸着し、無力化します」
琥珀が優雅に歩き、リネンのクロスでテーブルを撫でる。ただそれだけの動作なのに、拭かれた後の木目は、まるで太古の琥珀のように深く、神々しい光を放ち始めた。
「えっ……何、この店。空気が……甘い?」
入り口で足を止めた老夫婦が、驚いたように顔を見合わせた。
「お父さん、なんだか膝と腰の痛みが消えて……今はなんだか羽が生えたみたい。それに見て、このコップ。向こう側が透き通って、光の粒が見えるわ……」
琥珀が放つ「聖域」の波動は、単なる清掃の域を超えていた。
彼女がホールの中心に立つだけで、店舗全体の分子構造が整えられていく。エアコンからは森の奥深くを思わせる「神気」が流れ出し、客たちの細胞を強制的に活性化させていった。
「……マスター。あちらの角の席に座られた男性、肝臓の機能が低下しているようです。消化を助ける波長を、そのテーブル付近に重点的に放射しておきました」
「琥珀、お前それ……お節介が過ぎるぞ。ここは病院じゃなくてレストランなんだ」
しかし、俺の制止など聞こえないかのように、奇跡は連鎖する。
別のテーブルでは、スマホの老眼鏡をかけようとした男性が「あれ?」と声を上げた。
「おい、なんだか急に目がはっきり見えるぞ。メニューの細かい文字までくっきりだ。この店の照明、何か特殊なものに変えたのか?」
「私なんて、さっきまで仕事のストレスで胃がキリキリしてたのに、この椅子に座った瞬間に全部どうでも良くなっちゃった。……あ、お姉さん! この『お冷』、お代わりちょうだい! こんなに美味しい水、飲んだことないわ!」
琥珀が注いだだけのただの水道水は、彼女の指先から漏れ出た霊力によって、究極のデトックスウォーターへと変質していた。
客たちは皆、恍惚とした表情でグラスを傾け、心なしか肌に艶が戻り、瞳には生気が宿っていく。
「……創くん、これ、どういうことだい?」
厨房から出てきた店長が、震える手で自分の眼鏡を拭いた。
「僕の長年の持病だった腱鞘炎が……今、完全に消えた。それに、ほら見てくれ。換気扇の奥のしつこい油汚れが、勝手に剥がれ落ちて……まるで店全体が、産まれたてのように輝き出している」
ホールの中心で、琥珀は静かに微笑んでいた。
彼女にとってこれは、自分という存在を定義し、この世界へ繋ぎ止めてくれた「家族」である創への当然の報恩に過ぎない。主が働く場所を清める。それは彼女にとって、愛し子を慈しみ、夫の帰りを待つ家を整えるのと同じ、慈愛に満ちた務めだった。
だが、表の「聖域」とは対照的に、厨房は別の意味で「神域」と化そうとしていた。
「ダメだ、薪窯の温度が上がらない……! 創くん、悪いがピザの注文を一度止めてくれ。この湿気のせいで薪が湿ってるんだ、これじゃあ生地が死んでしまう!」
店長が悲鳴を上げた。名物の石窯ピザが焼けないとなれば、この大盛況は一転してパニックになる。
そのボヤきを、腕まくりをしてスタンバイしていた紅羽が聞き逃さなかった。
「ちっ、じれったいわね。創が一生懸命運んだ注文を、火ごときで台無しにするなんてアタシが許さないわよ」
紅羽が窯の前に歩み寄る。その紅蓮の瞳が、くすぶる薪を見据えた。
「どきなさい、店長。……創が最高の仕事ができるように、アタシが『真実の熱』を教えてあげるわ」
紅羽が窯の口に軽く手をかざす。
次の瞬間、ゴォォォッ!!という空間を揺らす重低音と共に、薪窯の炎がオレンジから「透き通るような白銀」へと変色した。
「なっ……何だこの火は!? 温度計の針が振り切れたぞ!? なのに外側は熱くない……熱が、完全に内側に封じ込められているのか!」
紅羽の制御された超高熱――それは物質の原子振動を支配する神の業だ。
投入されたピザ生地は、コンマ数秒で爆発的に膨らみ、表面は黄金色の「パリモチ」状態で固定された。
(……信じられない。熱の入り方が完璧すぎる。まるで熟練の職人が数十年かけて辿り着く『理想の焼成』が、紅羽の意志一つで、一瞬のうちに彫刻のように完成してしまった)
溢れ出る脂は琥珀の浄化光を浴びて宝石の雫のように輝き、香ばしい香りが店内を暴力的なまでの多幸感で満たした。
「……完璧。ねえ創、これならアンタの『労働』も捗るでしょ? アタシ、アンタが美味しそうに焼けた料理を運ぶ姿、結構好きなのよね」
紅羽は少しだけ顔を赤らめ、不敵に笑って見せた。
彼女にとってもまた、創は自分の力を最も価値ある形で引き出してくれる唯一の存在であり、家族として支えるべき誇りなのだ。
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その日の『トラットリア・結城野』の売上は、創業以来の過去最高記録を午後の部だけで軽々と塗り替えた。
客たちは「食べただけで視力が回復した」「あまりの旨さに前世の記憶が戻った」と、もはやグルメサイトのレビューとは思えない感想を口々に残し、信じられない額のチップを置いて去っていった。
結局、その日の『トラットリア・結城野』は、材料がすべて底をつくまで客足が途切れることはなかった。
「……創くん、本当にありがとう。この売上、どう処理すればいいのか分からないけど……とりあえず、これはボーナスだ。受け取ってくれ」
店長から差し出された厚みのある封筒をポケットにねじ込み、俺たちはようやく解放された。
夜の帳が下りた住宅街。街灯の光に琥珀の白金の髪が透け、紅羽の赤いジャケットが闇に鮮やかに浮かび上がる。
心地よい疲れと、琥珀が浄化した澄んだ空気が、俺の肺を穏やかに満たしていた。
「マスター、お疲れ様です。これが今日の『時給』という名の対価ですね」
「アタシたちが手伝ったんだから、これくらい当然でしょ? さあ早く帰りましょ。ヨシノのがご飯を作って待っているわよ!」
二人に左右から腕を引かれ、俺は「もう勘弁してくれ」と苦笑いするしかなかった。
「マスター。今日の『労働』という儀式、非常に興味深いものでした。他者の幸福を糧に対価を得る。……悪くありません」
「アタシはあの店長の、火を見た時の情けない顔が面白かったわ。でも、創が焼いたピザを運ぶ時はアタシまで誇らしい気分になったわよ」
二人に左右から腕を絡められ、俺は「はいはい、お疲れ様」と苦笑いしながら歩く。そんな俺たちの背後、数十メートル離れた路地の角で、複数の「影」が動いた。
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「……こちら吉田。対象、自宅へ帰還中。……報告します。浄化の影響は、店舗から半径五百メートル以上に及んでいます」
電柱の陰、あるいは並木の暗がりに同化した黒ずくめの男たちが、最新の通信機で密やかに声を交わしていた。
昨日の「不審者通報」の失態を猛省し、今日の対策課は万全の体制を敷いている。彼らの手元にある観測装置は、結城創を中心に広がる「異常なまでの清浄さ」を、色鮮やかなグラフで弾き出していた。
「室井課長、聞こえますか。……信じられません。彼らが通り過ぎるだけで、大気中の窒素酸化物《NOx》やPM2.5が完全に消滅しています。数値上、この道は日本のどの国立公園よりも空気が綺麗です。……もはや移動する環境改善装置ですよ、あの一行は」
『……分かっている。それより、あの美大生……結城創に注目しろ。神性エネルギーの奔流を、あんなに平然と左右に引き連れて、あまつさえ「腕を組まれて」歩いている。精神汚染の兆候はないのか?』
「……全くありません。むしろ、一番疲れているのは彼本人のようです。……あ、今、結城家に入りました」
創たちが玄関の扉を閉めた瞬間、監視員たちの緊張が一段跳ね上がった。
「対象、建物内に収容。赤外線サーモに切り替え。……室井課長、リビングの熱量が異常です。紅羽と思われる個体の体温が、物理法則を無視して上昇……いえ、これは『満足感』に比例しているのか? ……あ、琥珀個体が創の肩を揉み始めました。エネルギーの同期を確認。……くそっ、何を見せられているんだ我々は」
結城家の外壁一枚を隔てた暗闇の中で、国家公務員たちは息を殺し、双眼鏡越しに「神々と美大生が繰り広げる、あまりに平和で高密度な夜」を記録し続けていた。
結城創たちの「奇跡」は、もはや一つのレストランに収まる規模を越え、国家の喉元にまで突き刺さろうとしていた。




