第10話 神様飼育係
「……えーっと。なんなの、これ」
母親に「創、お客様よ!」と呼ばれて玄関に向かった俺を待っていたのは、映画のワンシーンのような……いや、それ以上にシュールな光景だった。
パリッとした、だが連日の激務でシワの寄ったスーツを着た男二人組。彼らが、玄関先でアタッシュケースを捧げ持ったまま、見事なまでの土下座をキメていたのだ。
「お願いです、結城創さん! この『環境改善協力費』を受け取ってください!」
「……は? え、なにそれ、こわいんだけど」
男たちの顔色は、お世辞にも健康的とは言えない。特に横で震えている吉田という男は、土下座しながら小刻みに「職質……警察……もう嫌だ……」と不穏な独り言を漏らしている。
リビングでの「異質な」会談
とりあえず、近所の目もあるのでリビングに上げると、室井と名乗った年配の男が、俺の目の前でこれ見よがしにアタッシュケースをパカッと開いた。
「これ……本物ですか?」
中には、見たこともない密度の「諭吉」の束が、ぎっしりと、整然と詰め込まれていた。
「はい。一億二千万円……今月分です。内閣府の機密予備費から、正当な手続きを経て算出されました。貴方が……いえ、そちらの『ご令嬢たち』が都内の霊脈を洗浄し、大気を浄化し、さらには廃鉱山を黄金で満たしたことに対する、国家からのささやかな感謝の印です」
俺は、背後で「マスター、この紙の束から、多くの人間の欲望と執着を感じます。灰にしますか?」と物騒なことを提案してくる琥珀を必死に手で制した。
「いや、無理です。意味がわからない。俺、ただの美大生ですよ? こんな大金、受け取れるわけないじゃないですか」
「そこをなんとか! これを受け取ってもらわないと、我々の報告書が『ラノベの読みすぎ』として一生受理されないんです! それに、吉田などは既に精神の限界で、明日にも辞表を出しそうな勢いなんです!」
「知らねえよ!」
俺と室井の押し問答が続く中、琥珀は無関心に俺の肩を揉み始め、紅羽は「一億? アタシの羽一枚より安そうね」と、札束の山を鼻で笑っている。
埒が明かないと悟ったのか、室井が土気色の顔をさらに近づけ、声を潜めて提案してきた。
「……結城さん。ならばこう考えましょう。貴方のアパートのドア、ひしゃげましたよね? 新宿のブランドショップ前のタイル、焦げましたよね? 大学のWi-Fi、琥珀さんの影響で全滅しましたよね?」
「……うっ。それは、まぁ、はい」
「さらに言えば、我々が不審者として捕まった際の保釈金や、拡散された動画の削除費用……。これら一切合切の『特務管理基金』として、このお金を管理していただくというのはどうでしょう。あ、余った分は自由に……そう、彼女たちの特注ドレス代や、最高級の粘土代に使っていただいて構いませんから!」
その言葉に、俺の理性が少しだけ揺らいだ。
確かに、彼女たちの「存在」が引き起こす物理的な破壊と経済的なインパクトは、俺の貯金《数千円》では一生かかっても償いきれない。
「……管理。つまり、俺が彼女たちの『しりぬぐい』をするための予算ってことですか?」
「そうです! むしろ、貴方にしかできない『神々のマネジメント業務』への委託料です! お願いです、これを受け取って、どうか……どうか彼女たちに『これ以上、日本を改造しないでくれ』と伝えていただければ……!」
室井は再び、テーブルに頭を擦り付けた。
俺は、無邪気に俺の髪を弄る琥珀と、退屈そうに炎を弄ぶ紅羽を交互に見た。
美大生、結城創。
二十歳にして俺は、国家予算という名の「神々の食い扶持」を預かる、世界一不憫で世界一裕福な飼育係――もとい、管理者に任命されてしまった。
「……分かりました。預かりますよ、もう。その代わり、大学に潜入して不審者扱いされるのは、もうやめてくださいね」
「吉田! 聞いたか! 受理されたぞ! これで今夜は布団で寝られるぞ!」
「よかった……本当によかった……。課長、僕、明日メンタルクリニック行ってきます……」
抱き合って涙を流す対策課の男たち。
その横で、俺は「一億二千万」という数字の重みに、コーヒーの味すら分からなくなっていた。
「……そうだ結城さん。もう一つ」
玄関を出る間際、室井が思い出したように懐から一枚のカードを取り出した。
漆黒の地に、鈍く光る銀色の紋章。どこのカード会社のものかも分からない、無機質で不気味なカードだ。
「その現金一億二千万は、あくまで『緊急用』……何かあった時のお守りだと思ってください。今どき、一億の現金をそのまま動かすのは、物理的にも税務的にも……何より職務質問に遭った際の言い訳が困難です。なので、日常的な『被害の補填』や彼女たちの維持費には、こちらのカードを」
「……カード?」
「はい。全銀システムの裏側を通る、特務機関専用の決済端末です。限度額は……そうですね、実質的に『国家予算の誤差の範囲内』だと思っていただいて構いません。領収書も明細も、すべてこちらで処理しますから、貴方はただ、彼女たちの暴走を止めるためだけにこれを使ってください」
「国家予算の誤差……。あ、おい、ちょっと待てって!」
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リビングのテーブルに鎮座するアタッシュケース。その中には、見たこともない密度の「渋沢」の束が、まるで軍隊のように整然と並んでいた。
一億二千万円。
正直、実感が湧かない。政府の人間たちが帰った後、俺はただ呆然とその札束を見つめていた。
「……これ、本当に俺たちが預かっていいものなのかね?」
「マスター。ただの紙の束です。その重さに見合うだけの多くの人間が抱く『執着』という霊的なノイズが渦巻いていますが……もしお嫌なら、この場で灰にしましょうか?」
「絶対にやめてくれ。これを燃やしたら、それこそ国家転覆罪で俺が逮捕される」
琥珀は至って真剣に提案してくるが、この金は俺の報酬じゃない。大学のWi-Fiをぶっ壊し、街のタイルを焦がし、これから先も彼女たちが何を引き起こすか分からない。そのための修繕・迷惑料補填金……という名目の、実質的な「管理義務」という名の呪いだ。
「いいじゃない創。アンタがそんなに悩むことないわよ。アタシたちの維持費だと思えば安いものじゃない?」
紅羽がソファでくつろぎながら、冷蔵庫からくすねてきた缶チューハイを優雅に煽る。こいつら、金銭価値がバグっているどころか、そもそも人間の社会ルールに興味がないらしい。
俺が途方に暮れていると、昼飯の準備を終えた母がリビングに顔を出した。
「あらあら、リビングに札束なんて……。琥珀さんたちを連れ込んだ上に、さらにこんな大金まで積むなんて!」
母さんはアタッシュケースとそこに座る二人を交互に見ると、頬を赤らめてパッと両手を組んだ。
「創、なんて情熱的なの! これって現代版の結納金とか持参金ってことかしら? もう、お母さん感激しちゃうわ! 愛のためなら国とも戦うなんて、ドラマみたいだわ!」
「母さん、違うってば。これはあくまで環境改善費っていう――」
「誤魔化さなくていいのよ! 青春ねぇ、愛の形は色々あってもいいのよ!」
母さんの脳内では既にストーリーが完結している。琥珀は「当然です」といった顔でリモコンを操作し、紅羽は「ビールも美味しかったけど、これもいいわねぇ」と笑っている。
……ああ、カオスだ。国家予算を預かるという緊張感など、この結城家の「母の愛」の前では霧散してしまう。
「……決めた。この金はあくまで『経費』として扱う。学費や材料費は今まで通り自分で稼ぐ」
「マスター。では、この『経費』という名の余剰資源は、どう処理しますか?」
俺がそう宣言した、その時だった。二階から地鳴りのような足音が響いた。
「お兄ちゃんーーーーーーッ!!!」
妹の結愛が、髪を振り乱しながらリビングに飛び込んでくる。
「何これ!? 何この状況!? 家の前に黒い車が止まっていて、ただ事じゃない雰囲気があったから二階にいたけど……テーブルに札束!? お母さんが『お嫁さんたちのために~』とか言ってるし、ねえお兄ちゃん、私の知らないところで何があったの!? 説明して! 早く説明してよーーっ!!」
結愛の怒声がリビングを突き抜ける。
琥珀は涼しい顔でテレビを見ているし、紅羽は「元気な子ねぇ」と面白がって笑っている。
俺は深く溜息をつき、アタッシュケースを閉じた。
「……落ち着け。全員座れ」
結愛が期待と混ざりあった目で俺を射抜く。だが、俺は時計に目をやり、スッと立ち上がった。
「説明は後だ。今話しても父さんが帰ってきた時にまた説明をすることになって二度手間だろ。……腹減ったし、まずは飯にしよう」
「はあ!? お兄ちゃん、誤魔化す気!?」
「誤魔化してない。母さんが昼飯の準備をしてるんだ。冷める前に食うぞ」
俺は無理やり話を打ち切り、キッチンへ向かった。この混沌とした状況を整理するには、まずは家族全員に栄養を摂らせて落ち着かせる必要がある。
父さんのいない家族会議なんて、ただの情報の独り歩きだ。俺は「飯を食う」というもっともらしい口実で、この修羅場からの一時撤退を強行した。
@@@@@
――夜。
会社から帰宅した父さんは、リビングのドアを開けた瞬間、その場の異様な空気に足を止めた。
テーブルの上には、昼間見たあの札束の山が置かれたままだ。そしてその周りには、相変わらず神々しい琥珀と紅羽が座り、隣には目をきらめかせた母さんと、何やら不満げに腕組みをしている結愛がいる。
父さんはネクタイを外し、ため息交じりに「ただいま」と呟く。
この状況を察したのか、父さんは俺の正面に腰を下ろした。
「……さて、その『山』について……詳しく聞かせてくれるか」
俺は覚悟を決めて説明を始めた。父さんは時折、母のファンタジーな合いの手や、結愛のツッコミを適当にあしらいながら、黙って話を聞き続けた。
一通り話し終えた後、父さんはゆっくりと立ち上がり、アタッシュケースの留め具をカチリと閉じた。
「……つまりだ。創、お前は今後、この『神々』と『国家予算』の管理という、どう考えても割に合わない職務を、大学生活の傍らで遂行しろというわけだな?」
「……まあ、そうなるね。あと、これ」
俺はポケットから、室井に押し付けられた漆黒のカードをテーブルに置いた。
「現金はあくまで『お守り』で、普段の支払いや彼女たちが壊したものの弁償は、全部このカードでやってくれって。限度額は……実質、国家予算の誤差の範囲内らしい」
父さんはその不気味なカードを指先で弾き、感心したように頷いた。
「ふむ。国家予算の誤差、か。……まあ、国が責任を持って『尻拭い』をしろと言っているんだ。創、お前が一人で背負う必要はない。このカードは、お前が『人としての生活』を保つための防波堤として使え」
父さんは少し考え込んだあと、琥珀と紅羽の顔を見た。
「……君たち。創に迷惑をかけている自覚はあるのか?」
「迷惑? いえ。私はマスターに望まれてここに居ます」
「アタシもよ。それと、久しぶりの娯楽を楽しんでるって感じね」
二人の神は、父さんの問いをさらりと流して全く動じない。
それを見て、父さんはふっと肩の力を抜き、小さく笑った。
「ま、だれも怪我をしたわけじゃないならいいか」
結局、結論はそこだ。
父さんにとって、この世で最も重要なのは「怪我や病気をせず死なないこと」と「生活が続くこと」だ。
「いいか創。国から金が出ようが何だろうが、お前は美大生だ。学業を疎かにするな。その金は、お前が『人としての生活』を保つための防波堤として使え。……で、買い物だ。この週末、全員で行くぞ。……神様とやらを連れて出歩くのも、一度くらいは経験しておかんとな」
父さんのその言葉で、結城家の「神様との同居会議」は、あっさりと「週末の買い出し計画」へとスライドしていった。
国家の命運を左右するはずの1億2千万円は、こうして「家族の週末」という日常の中へと消えていく。
「……あ、お父さん! 私、服だけじゃなくて、新しい靴とバッグもセットで欲しいんだけど!」
「結愛は勉強道具にしなさい」
いつも通りの、騒がしい夜が更けていく。
俺は、神々と家族を同時に管理するという、世界一難易度の高い『家長代理』の役割を背負い込むことになった。




