第9話 世界の清浄
その日の朝、テレビのニュース番組はどこも同じ「異常事態」を報じていた。
『――続いてのニュースです。本日、東京都心の視界が驚異的な回復を見せています。都庁の展望台からは、通常では考えられないほど遠方の山々までが鮮明に確認され、SNS上では「空が青すぎる」「空気が甘い」といった投稿が相次いでいます。……はい、こちら〇✕大学病院前です! 先ほどから信じがたい報告が相次いでいます。今朝からこちらの病院では、「集中治療室にいた重症患者の容態が劇的に改善した」という医師らも困惑するほどの報告が続出しています!』
俺はリビングでトーストを齧りながら、画面に映し出された新宿の空を見て絶句した。
画面越しでもわかる。昨日まで街を覆っていたどんよりとした排気ガスの層が完全に消失し、そこには太古の地球のような、一点の曇りもないクリスタル・ブルーが広がっていた。
(……遠くのビルの輪郭が、鋭利な刃物で切り出したように鮮明だ。空気の層による減衰が消えて、世界全体の解像度が一段上がったような……。造形物としての世界の『質』そのものが、書き換えられている)
「……なぁ、琥珀。これ、まさかお前か?」
俺の隣で、優雅に白湯を飲んでいた琥珀が、静かに首を傾げた。その動作一つでさえ、浄化された空気の中では一幅の絵画のように鮮明だ。
「マスター。昨日のバイトの帰り道、この土地の『霊脈』に深刻な目詰まりを確認しました。人の負の感情、都市の排熱……それらが澱みとなって地脈を塞いでいたため、歩きながら少しだけ整えておきました。……不快でしたか?」
「不快っていうか、規模がデカすぎだろ。お前、散歩ついでに何十キロ分掃除したんだよ」
琥珀は「主人の住まう環境を整えるのは当然の務めですから」と、微塵も悪びれる様子がない。彼女にとっての「少し」は、人間にとっての「天変地異」なのだ。
「ふふん、琥珀だけじゃないわよ、創。アタシの功績もちゃんと数えなさいよね」
紅羽がソファに深く腰掛け自慢げに胸を張った。彼女が動くたびに、部屋の中に陽だまりのような心地よい熱が広がる。
「琥珀が掃除した後の空気に、アタシの熱をほんの少しだけ混ぜておいたわ。アタシの中に眠る『朱雀』の力は再生を司るもの。おかげでこの街の人間、今朝はみんな死に損なってるんじゃない?」
「死に損なってるって……要は『寿命が延びた』ってことか」
テレビ画面では、興奮気味のリポーターがさらに言葉を重ねる。
『SNSでは「長年の持病が急に軽くなった」「体が燃えるように熱く、活力がみなぎっている」という一般市民からの投稿が爆発的に増えています。現在、厚労省は『未知の清浄物質』の流入を視野に調査を……』
琥珀がウイルスを除去し、紅羽がワクチンをばら撒く。二人の神が歩くだけで、世界は強制的に「浄化」されていく。
「琥珀が土壌を耕し、アタシが種に光を与えた……ってところかしら。創、これくらいアタシたちからの『家賃』だと思えばいいわ」
紅羽はそう言って俺のトーストを当然のように半分奪って口に運んだ。
琥珀が少しだけ不安そうに俺の顔を覗き込む。
「……マスター。不服でしたか? もしお望みなら、元の澱んだ状態に戻すことも可能ですが」
「いや……いいよ。空気が美味いのは悪いことじゃないしな。……ただ、これ以上やると、いよいよ神様として崇められそうで怖いだけだ」
窓から差し込む陽光は、昨日までのそれとは明らかに違う、神聖なまでの輝きを放っていた。俺の預かり知らぬところで、この国は、物理的にも霊的にも「神の棲まう地」へと変貌を遂げていた。
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その日の深夜、動画配信プラットフォームの急上昇ランクには、ある「心霊系配信者」のアーカイブ動画が鎮座していた。
タイトルは――『【緊急事態】最恐の事故物件✕✕トンネルが消滅!? 現場で起きた不可解すぎる現象』。
画面に映っているのは、青ざめた顔の青年配信者とカメラを回すスタッフの男だ。普段は「出た!」「今、声が聞こえた!」と大騒ぎする彼らだが、今回の動画の空気は明らかに異質だった。
「……信じられません。リスナーの皆さん、見てください、これ」
配信者がライトで照らし出したのは、かつて凄惨な事件があったとされる苔むしたコンクリートのトンネルだ。本来なら、カメラ越しでも伝わるような湿り気と肌を刺すような悪寒が支配しているはずの場所。
だが、そこには「神々しいほどの清涼感」が漂っていた。
「ここ、都内でも一、二を争うヤバい場所だったんですよ? 霊感のあるスタッフは車から降りられないくらいだったのに……。今、どうですか?」
カメラが周囲をなめるように映す。トンネルの入り口に生い茂っていた不気味なシダ植物は、なぜか瑞々しい深緑へと変貌し、コンクリートの割れ目からは見たこともないほど鮮やかな野花が顔を出している。
「……臭くないんです。カビの臭いも、あの独特の生臭さも一切ない。それどころか、高原の早朝みたいな、めちゃくちゃ美味い空気が流れてきてて……。正直、帰りたくないくらい心地いいんです」
スタッフがカメラを回しながら、信じられないといった声を漏らす。
「……なぁ、これ見てくれよ。俺の腕にあった長年の湿疹が、ここに入った瞬間に引いてるんだけど。心霊スポットに来て病気が治るとか、聞いたことないぞ」
配信者は、トンネルの最深部――かつて霊の目撃が絶えなかった地点に立ち、呆然と呟いた。
「『気』が変わってる……。誰かがここを、物理的に、根こそぎ『洗った』みたいだ。悪霊? 呪い? そんなもの、ここには一滴も残ってませんよ。今のここは、ただの……めちゃくちゃ景色のいい散歩道です」
視聴者のコメント欄は「ヤラセだろw」「いや、近所だけどマジで昨日から空気が違う」「俺もさっき行ったら長年の肩こりが消えた」と大荒れ。
配信者が最後に映し出したのは、トンネルの出口から見上げる夜空だった。
いつもならスモッグと光害で濁っているはずの世田谷の空が、そこだけ切り抜いたように澄み渡り、天の川さえ視認できそうなほど鮮烈な星々が輝いている。
それは、琥珀が通り過ぎ、紅羽が熱を与えた「残り香」に過ぎない。
だが、その残り香だけで、何十年も土地にこびりついていた怨念や呪詛は塵一つ残さず昇華されてしまったのだ。
動画の最後、配信者はカメラに向かって、恐怖ではなく、救われたような表情でこう締めくくった。
「……幽霊はいなくなりました。代わりに、何か……とんでもなくデカい『善意』みたいなものが、この街を通り抜けた気がします」
この動画を内閣府の地下室で見ていた吉田は、「……善意、ねぇ。俺にとっては始末書の山なんだけどな」と、真っ赤な目でエナジードリンクを煽るのだった。




