第6話 彩ノ杜美術大学、紫電の洗礼
「いいか、絶対に離れるなよ。あと指先から何か出そうになったら俺の手を握れ。いいな?」
俺は琥珀と紅羽を左右に従え、彫塑棟から学食へと続く「地獄のランウェイ」を歩いていた。
熊谷教授の公認を得たとはいえ外の喧騒は別物だ。全校生徒が、まるで珍獣……いや、奇跡の降臨を拝むような目で俺たちを追ってくる。
「マスター、視線が物理的な重力を持って押し寄せてきます。……排除の許可を」
「却下だ! 琥珀、深呼吸しろ。それはただの好奇心だ、悪意じゃない」
そんな俺たちの前に、再びあの「嵐」が突っ込んできた。
「お兄ちゃーーーん!!」
人混みをかき分け、半泣きで走ってきたのは結愛だった。デザイン科の友人たちを引き連れているが、その表情は「もう、どうにでもなれ」という諦めに近い。
「ちょっと! デザイン科の教授まで『あの子たちを今すぐ連れてこい』って発狂してるんだからね! 責任取ってよ!」
「結愛……。悪い、今は学食でこいつらに飯を食わせるのが先だ。腹が減ると紅羽が何をしでかすか分からない」
「……あら、結愛。アンタ、さっきより面白い顔してるわね。ほら、そんなにカリカリしないで一緒に肉でも食べに行きましょうよ」
紅羽が屈託なく笑い、結愛の肩を抱き寄せる。
「触らないでよ、この美貌の暴力女……! でも、お兄ちゃん一人じゃ絶対無理だから、私が案内してあげるわよ。学食の一番奥、個室っぽくなってる席!」
妹の機転に救われ、俺たちはなんとか学食へと滑り込んだ。
学食の中は、もはや「食事の場所」ではなかった。
俺たちが席に座った瞬間、周囲のテーブルから一斉に箸の音が消え、全員が「食事をするふりをした観客」と化した。
俺が琥珀のために買ってきたのは、学食名物の「オムライス」。
琥珀は、スプーンの上で震える半熟の卵を、まるで未知の生命体を観察するように見つめていた。
「マスター。この、黄色く輝く流動体は……」
「卵だ。琥珀、美味しいから食べてみろ」
琥珀が、意を決してオムライスを一口、口に運ぶ。
その瞬間だった。
「……っ、ふ、ふふ……。なんという、慈悲深い味……」
琥珀の目が見開かれ、その全身から歓喜のオーラが溢れ出した。
俺の直感が叫ぶ。ヤバい。琥珀の感情が昂ぶっている。
「ちょ、琥珀! 落ち着け! 感情を抑えろ!」
「……っ、抑えきれません、マスター! この『旨味』という衝撃が私の回路を……!」
琥珀の指先からバチバチと紫色の火花が漏れ出した。
それと同時に学食の外にある中庭で――。
ドガァァァーーン!!
凄まじい落雷の音。
窓の外、学食のすぐ隣に立っていた大きなクヌギの木に、一点の曇りもない紫電が直撃した。
「「「「「ひゃあぁぁぁぁぁ!!!」」」」」
学食内に悲鳴が上がる。
晴天の空から、ピンポイントで木が一本だけ真っ黒に焦げる怪奇現象。
学生たちが窓際に殺到する中、俺は琥珀の両手を全力で握りしめた。
「こーはーくーーー!! 出すな! 外に出すなっ!!」
「……あ。……申し訳ありません、マスター。つい、感極まって『天の祝福』を……」
「祝福で木を一本殺すな!!」
隣では紅羽が、俺の「特製唐揚げ定食」を奪い取り、豪快に笑いながらビール……の代わりのコーラを煽っている。
「あはは! 派手にやったわね琥珀! アンタもこの黒い泡の飲み物を飲んでみなさいよ、喉が爆発するわよ!」
「お兄ちゃん……もう無理。私、明日から大学にどんな顔して行けばいいの……?」
結愛が机に突っ伏して、プルプルと震えている。
「……おい、今の見たか?」
「マジかよ、直撃じゃん。ゲリラ豪雨の前触れか?」
「いや、空見てみろよ。雲一つないぞ……」
窓際に鈴なりになった学生たちが、ざわざわと外を指差している。
学食のガラス越しに映る焦げたクヌギの木からは、まだ細い煙が上がっていた。どうやら連中には、これが「たまたま起きた異常気象」にしか見えていないらしい。そりゃそうだ。目の前の美少女がオムライスへの感動を「落雷」として排出したなんて、美大生の豊かな想像力をもってしても辿り着けるはずがない。
「……よかった」
俺は琥珀の手を握ったまま、小さく息を吐き出した。
もし、今のが琥珀の意志だとバレていたら、今頃この学食は別の意味でのパニックに陥っていたはずだ。今はただ「運悪く枯れ木に雷が落ちた」という認識で止まってくれている。
「驚きました。現代の天気予報は、あれほどのエネルギーを予見できないのですね」
「琥珀、お前が言うな……。というか手を繋いでる間は抑えられるんだな?」
「はいマスター。貴方の体温を感じていると不思議と霊力が安定します」
琥珀が少し顔を赤らめて呟く。その横では、紅羽が豪快に喉を鳴らしていた。
「ぷはぁー! これ、最高じゃない! 琥珀もやってみなさいよ。外に放つより、この『コーラ』とかいうので腹の中を爆発させる方が、ずっと健全だわ!」
「……紅羽、その結論が正しいかどうかは置いといて、頼むからそれ以上騒がないでくれ」
俺は周囲を見渡した。
木への衝撃に驚いていた学生たちだったが、すぐにその関心は「焦げた木」から「その木を背景にして座る神々」へと戻りつつあった。
「おい、見てみろよ。落雷を背負ってオムライス食べてるのに、あの絵画のような美しさ……」
「逆光の加減が神々しすぎる。さっきの雷、あの子たちのための演出だったんじゃないか?」
「バカ言え、そんなわけあるか。……でも、確かにあの子の肌の透明感、雷光に負けてなかったな」
もはや「美しければ現象すら演出に見える」という、美大生特有の脳内補正がかかり始めている。
一方で、現実的なダメージを一身に受けている妹は、まだ机に突っ伏したままだった。
「結愛、大丈夫か?」
「……お兄ちゃん。私、もう決めた」
結愛がノロノロと顔を上げる。その目は、何かを諦めたあとのような虚無感に満ちていた。
「私、今日中に『彩ノ杜大・不思議現象研究会』のSNSアカウントをブロックしてくる。あと、大学の設備課に『学食の中庭の木、寿命だったみたいですね』ってメールしとくから」
「……助かる」
「助からないわよ! 弁償代、お兄ちゃんのバイト代から天引きだからね! 絶対だからね!」
結愛が鼻息荒く立ち上がり、周囲の視線を遮るように俺たちの前に仁王立ちした。
「ほら、お兄ちゃんも、そのお二人も! 食べ終わったらさっさと移動する! これ以上ここにいたら大学の建物が何本あっても足りないわ!」
俺は、琥珀の皿の隅に残ったパセリを慌てて口に放り込み、トレイを持って立ち上がった。
彫塑棟の実習室へ戻る廊下。
俺の隣を歩く二人の「女神」は、まるで何事もなかったかのように優雅に歩を進めている。だが、俺のポケットにある造形ノートには、早くも「要注意項目」が並び始めていた。
【琥珀:情動による放電。特に食の感動に注意。要・物理的接触による放電抑制。】
【紅羽:刺激物(炭酸)による発火の可能性(未確認)。要・飲食物の管理。】
【結愛:精神的耐久値の限界が近い。要・後でコンビニの新作スイーツで懐柔。】
一歩歩くたびに、新しい発見と新しい絶望が積み重なっていく。
けれど、さっき琥珀の手を握った時に感じた、あの微かな震えと温もり。
造形オタクとして、これほどまでに「生きている質感」を、俺は他に知らない。
「……さて。午後の講義、乗り切れるかな」
俺の呟きに、琥珀が静かに微笑み、紅羽が不敵に笑った。
俺たちの「大学初登校」は、まだ折り返し地点を過ぎたばかりだった。
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午後の講義が終わり、夕闇がキャンパスをオレンジ色に染める頃。
俺は魂が抜けかけた状態で、彫塑棟の裏手にあるベンチに琥珀と紅羽を座らせ、ようやく一息ついていた。
「マスター、お疲れ様です。貴方の描く線の迷いが午後からは少し減ったように見受けられました」
「あはは! 創、最後の方は目が血走ってたわよ。アタシをそんなに必死で見つめて、もう夢中なんだから」
二人は至って元気だ。一方の俺は、教授や先輩たちの「熱」に当てられ、精神的なスタミナを使い果たしていた。
ようやく帰れる――そう思った矢先。
「……お、お、お兄ちゃーーーーん!!」
聞き覚えのある、絶望と懇願が混ざった叫び声。
見れば、結愛がデザイン科の女子グループを数人引き連れて、猛ダッシュでこちらに向かってくる。その必死な形相に、俺は嫌な予感しかしなかった。
「……結愛、悪いけど今日はもう閉店だ。家で味噌汁が飲みたい」
「お願い! 一回だけでいいの! 私、どうしても断れなかったんだってば!」
結愛は俺の前に滑り込むと、そのまま地面に頭を擦り付けんばかりの勢いで手を合わせた。
「デザイン科の『写真・映像演習』の課題で、どうしてもモデルが必要なの! さっきの学食の木……あの弁償代、私がなんとかするから! その代わり、二人に十五分だけ……十五分だけでいいからモデルをお願いして!」
「お前……」
俺が呆れるのをよそに、結愛の後ろに控えていた女子学生たちが一眼レフカメラを抱えて目を輝かせていた。
「結愛ちゃんのお兄さん、お願いします! 結愛ちゃんからお二人の話を聞いて、もう私たち、今日これ撮らないと卒業できないって確信したんです!」
「さっきの落雷、あの中庭の光景と彼女たちが重なった瞬間、私の中に『神話』が見えたんです! お願いします、この通り!」
デザイン科の熱量は、彫塑科とはまた別の「執念」に満ちている。
結愛は涙目になりながら、俺のジャケットの裾をギュッと掴んできた。
「学食で私が『お兄ちゃんは優しいから大丈夫!』って大口叩いちゃったの! これ断られたら、私、明日からデザイン科で『虚言癖のブラコン妹』って呼ばれることになっちゃう! お願い、お兄ちゃん!!」
「……っ。お前、なんて余計なことを」
俺は額を押さえた。だが、結愛がここまでなりふり構わず頼み込んでくるのは珍しい。
隣で様子を見ていた紅羽が、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「いいじゃない、創。結愛もアタシたちの魅力に、ようやく『商売道具』としての価値を見出したみたいだし? 十五分くらい、遊んであげてもいいわよ」
「……マスター、妹君を助けてあげるのも、眷属としての務めでしょう」
琥珀までそう言って優雅に立ち上がる。
俺は深くため息をつき、結愛の頭をガシガシと掻き回した。
「……十五分だけだぞ。あと、撮影中は絶対に変なエフェクト(紫電とか熱気)を出すなよ。いいな?」
「やったぁぁぁ!! お兄ちゃん大好き 持つべきものは美大生の兄!!」
結愛の手のひら返しに呆れつつ、俺たちは学内の噴水広場へと移動した。
夕刻の淡い光が、琥珀の白金の髪をより透き通らせ、紅羽の朱金を燃え盛る朱へと染め分ける。二人がそこに立つだけで、色褪せた噴水広場が、劇的な聖域へと塗り替えられていった。
デザイン科の学生たちは、シャッターを切るたびに「露出補正がいらない……」「勝手に背景がボケて、彼女たちだけが浮き上がってくる……」。一眼レフを構えた学生たちが、まるで魔法の道具を手に入れたかのように、震える指でシャッターを切り続けていた。
彼女たちの放つ神性が、デジタルセンサーの演算すら狂わせ、強制的に『最高の一枚』を書き換えているかのようだった。
結愛もまた、モデルとしての経験を活かしてポージングの指示を出しながら、同時にスマホで「公式っぽい」記録写真を撮りまくっている。
「(……こりゃ、明日からまたフォロワーが増えるな)」
俺は、一歩引いた位置から彼女たちを見つめていた。
彫塑、写真、映像、デザイン。
あらゆる美の視線が、琥珀と紅羽という二つの「点」に収束していく。
その中心にいるのは、紛れもなく俺だ。
結愛が「私のお兄ちゃん、凄いでしょ」と、一瞬だけ得意げに笑ったのを俺は見逃さなかった。それはモデルとしてのプロの顔ではなく、自慢の兄を見せつける一人の妹の顔だった。
結局、撮影は大学の警備員に「閉門だぞ!」と怒鳴られるまで続くことになった。
『十五分だけ』という言葉が、美大生の間では『最低三時間はかかる』の隠語であることを、俺は失念していた。




