第5話 彩ノ杜美術大学、炎上はキャンパスを焼き尽くす
「……よし、行くぞ」
鏡の前で自分に言い聞かせ、俺は玄関のドアノブに手をかけた。
正直、心臓はバックバクだ。昨日のあの騒ぎだ、家の前が記者や野次馬で埋め尽くされていてもおかしくない。母さんからは「お父さんが出かける時は誰もいなかったわよ~」と能天気な報告を受けていたが、時間差で包囲網が完成している可能性だってある。
最悪の事態を想定し、俺は一気にドアを開けた。
「……あ、れ?」
拍子抜けするほど外は静かだった。
春の柔らかな日差しが差し込む住宅街。遠くでカラスが鳴き、近所の犬が吠えている。スマホの画面の中ではあんなに世界が燃えていたのに、現実の結城家の前には、ゴミ出しに出る近所の奥さん以外誰もいなかった。
(……なんでだ? もっとこう、パパラッチとかが潜んでるもんじゃないのか?)
不思議ではあったが今はその幸運に感謝するしかない。
背後から、新調したばかりの「アルカナ・モード」の衣装を完璧に着こなした二人が現れる。
「マスター、空気が澄んでいますね。昨日のような『視線の棘』も、今は感じられません」
「あはは、創、顔が引きつってるわよ? 誰もいないなら堂々としてればいいじゃない」
琥珀は聖母のような微笑みを浮かべ、紅羽は退屈そうに背伸びをした。
「……ああ、そうだな。ビビってても始まらない。行くぞ、俺たちの戦場へ」
俺は自分を鼓舞するように胸を張り駅へと歩き出した。
昨日の今日で、また電車に乗る。傍から見れば「懲りないやつ」だろう。タクシーを使う金がないわけじゃない(昨日の報酬が浮いているからな)が、ここで隠れるように移動するのは、造形屋としての俺のプライドが許さなかった。
――堂々としていれば、それは日常になる。
それが、一晩かけて俺が導き出した結論だ。
駅に着き、ホームに降り立つ。
当然、周囲の反応は昨日以上だった。
「おい、あれ……昨日ニュースになってた……」
「マジか、実物……。エフェクトかかってないのに、なんであんなに綺麗なんだよ」
スマホのレンズが向けられ、ひそひそ声が波のように押し寄せる。
だが俺はもう目を逸らさない。
隣には、俺が真名を授け、俺が定義した究極の「美」がいる。
俺は彼女たちのマネージャーであり、プロデューサーであり、そして何より一人のアーティストだ。自分の作品(と言っては彼女たちに失礼だが)を連れて歩くのに卑屈になる必要なんてどこにある。
「琥珀、紅羽。いいか、今日からお前たちは『俺の専属モデル』だ。大学に着いたら、いろんな奴が声をかけてくるだろうけど、全部俺が捌く。お前たちはただ、そこにいてくれればいい」
「了解しました、マスター。貴方の影として、その威厳を損なわせるものは排除します」
「アタシを飽きさせないでよ? 大学っていうのがアンタを育てた場所なんでしょ?」
電車が滑り込んできた。
車両に乗り込むと、昨日と同じように一瞬で静寂が訪れる。だが今日の俺はヨレヨレのTシャツではなく、アルカナ・モードの店長が「アンタもそれなりの格好しなさい!」と持たせてくれた、小洒落たジャケットを羽織っている。
視線を向けてくる乗客たちを、俺は逆に観察し返してやった。
(……驚愕、嫉妬、好奇。……それらが混ざり合い、朝の通勤車両という無機質な空間に、強烈な『人間臭い』コントラストを描き出している。彫塑の課題より、ずっと生々しいな)
美大生特有の、やや歪んだ客観視。それが今の俺の最大の防御壁だった。
二駅、三駅。
目的地の駅が近づくにつれ、スマホの通知が激しく震え出す。大学の友人たちからの「いま駅にいるだろ!」「正門で待機してるぞ!」という半分脅迫に近いメッセージ。
俺はそれらを無視し、真っ直ぐに前を見据えた。
国立・彩ノ杜美術大学。
美を志す変人たちが集まるあの魔窟に、俺はこの「神々」を解き放つ。
電車のドアが開く。
さあ第二ラウンドの始まりだ。
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正門が見えてきた。
彩ノ杜美術大学のシンボルである巨大なオブジェの向こう側に、明らかに普段とは違う密度で学生たちがたむろしているのが見える。
「……いるな。しかも、かなりの数だ」
俺は心臓の鼓動を意識的に鎮めた。
すると、隣を歩いていた琥珀が、俺の視線の先にあるキャンパスを見上げて静かに呟いた。
「マスター。あそこには、貴方と同じ『美を追う者』たちが集まっているのですね。……少し、熱気を感じます。昨日の街の連中とは、視線の『質』が違います」
「ああ。あいつらは、お前たちの姿をただ珍しがるだけじゃない。骨格、筋肉のつき方、纏う空気……それこそ細胞レベルで『盗もう』としてくる。ある意味、昨日よりずっと獰猛だぞ」
紅羽が「ふん」と鼻を鳴らし、不敵に口角を上げた。
「いいじゃない、受けて立ってあげるわよ。アタシを満足に描ききれる奴が、アンタ以外にいるのかどうか試してあげるわ」
俺たちは一歩、キャンパスへと足を踏み入れた。
その瞬間、正門付近の喧騒が、まるで冷水を浴びせられたように静まり返った。
「……来た。マジで来たぞ……」
「嘘だろ、アルカナ・モードの新作……。いや、中身が……あの二人、実在したのか」
「おい、結城だろ? 彫塑科のあの、いつも石ばっかり触ってる根暗な……」
ざわめきが波のように広がる。
俺は無言のまま、真っ直ぐに彫塑科の棟を目指して歩いた。
昨日まで、俺はこのキャンパスでただの「背景」の一部だった。だが今は違う。俺の横に並ぶ二人が放つ圧倒的な存在感が、ただのアスファルトを聖域に塗り替えていく。
その時だ。
「ちょっ……ちょっとぉぉぉ!! 待ちなさーーーい!!」
デザイン科の校舎の方から、一人の女子学生が全力疾走でこちらへ向かってくる。
走り寄ってきた彼女――結愛は、俺の前に立ちふさがると、肩で息をしながら詰め寄ってきた。
「お兄ちゃん! あんた、私が朝からどれだけ『あれは加工写真だ』とか『彫塑科の課題作品だ』とか必死に火消ししてたと思ってるのよ! なのに、なんで今日に限って堂々と本人たちを連れてくるのよ!」
「……結愛か。火消し、してくれてたのか。ありがとう」
「感謝の言葉なんていらないから! せっかく昨日、『誰かに絡まれたら私が助けてあげる』って言ってあげたのに、自分から燃料投下してどうするの! デザイン科のラウンジなんて今、お兄ちゃんの話題で持ちきりなんだからね!」
結愛の悲痛な叫びを、俺は静かに受け止めた。
「隠すのは無理だと確信したんだ。ネットのあの勢いを見たろ? 中途半端に隠せば、逆に俺個人への粘着を加速させるだけだ。なら、いっそ『美大生の制作物』として堂々と晒す。それが一番、彼女たちの異質さを誤魔化せるはずだ」
「だからって、この状況で二人を引き連れて歩くなんて正気じゃない! 私が同期から『結愛ちゃんの苗字、もしかして……』ってどれだけ詰め寄られたと思ってるの!?」
結愛の顔は、恥ずかしさと怒りで林檎のように真っ赤だ。
それを見て、紅羽が面白そうに覗き込んできた。
「あら、結愛。アンタもここで学んでるの? いいじゃない、アンタもアタシを描いてみる? 兄貴に負けないくらいのセンスがあるなら、脱いであげてもいいわよ」
「脱がなくていいから!! 公共の場でそういうこと言わないで!!」
結愛の叫びがキャンパスに響き渡る。
その光景を見ていた学生たちの間で、さらに確信に近いざわめきが広がった。
「おい……あのデザイン科の結愛の兄貴が、あの『荷物持ち』確定かよ……」
「どういう家系なんだよ、結城家……」
俺は混乱する結愛の頭に軽く手を置いて、そのまま彼女を通り過ぎた。
「悪いな結愛。……これが、俺の選んだ『戦い方』だ。行くぞ、琥珀、紅羽」
俺たちは、自分たちのテリトリーである彫塑棟へと向かう。
背後から、結愛の「もう知らないんだから! あとで私の学科の教授に呼ばれても助けないからね!!」という絶叫が聞こえたが、俺はもう振り返らなかった。
実習室の重いドアを開ける。
そこには、俺を待ち構えていたかのように、粘土と油の臭い、そして狂気にも似た「創作への飢え」を瞳に宿した、彫塑科の野郎共と教授が立ち並んでいた。
さあ、美の暴力の、本当の披露会を始めようか。
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結愛の絶叫を背中で受け流し、俺は彫塑棟の長い廊下を突き進んだ。
ここは俺の主戦場だ。石膏の粉が舞い、古いワックスの臭いが染み付いた洗練とは程遠い空間。だが、今の俺たちにはこの無骨な背景こそが相応しい。
実習室の大きな引き戸をガラガラと開ける。
瞬間、室内に満ちていた「作業の音」が凪のように消えた。
石を叩くノミの音、回転するサンダーの騒音、談笑。それらすべてが、琥珀と紅羽が踏み込んだ瞬間に消失した。
「……遅かったな結城」
部屋の奥から、使い古した作業着を纏った一人の男が歩み寄ってくる。
彫塑科主任教授であり、自身も世界的な彫刻家として君臨する、鬼の「熊谷」だ。彼は手にしたスケッチブックを丸めると、鋭い眼光で俺の隣の二人を射抜いた。
「朝から学内が騒がしいと思えば、お前だったか。……ほう」
熊谷教授の視線が、琥珀の鎖骨から紅羽の腰のラインへと滑る。それは下卑たものではなく、剥製師が獲物の骨格を見定めるような、冷徹で狂気に満ちた「観察」だった。
「結城、お前……昨日からネットを騒がせているあのモデルを本当に連れてくるとはな。冗談だと思っていたぞ」
「……冗談で済むなら俺もそうしたかったです、教授」
俺は一歩前に出た。
「今日の講義の課題は『人体と精神の融合』ですよね。俺のモデルとして彼女たちを連れてきました。……文句、ありますか?」
実習室に重苦しい緊張が走る。
様子を窺っていたマサを含めた同期たちが、息を呑んで成り行きを見守っている。
「文句? はっ、あるわけなかろう」
熊谷教授が、ニィッと獣のような笑みを浮かべた。
「これほどまでの『正解』を目の前にして、描くなという方が酷だ。……おい、野郎共! 道具を準備しろ! 今日のクロッキーは全員、結城が連れてきたこの二人をモチーフにする。……ただし!」
教授の声が、実習室の空気をビリビリと震わせる。
「結城。お前がこいつらを独占したいと言うなら、お前が一番『マシな作品』を見せろ。……もし他の奴らに負けるようなことがあれば、このモデルたちは俺の特別講義の専属にしてもらう。いいな?」
――宣戦布告だ。
俺は琥珀と紅羽を見た。
琥珀は静かに頷き、紅羽は「面白そうじゃない」とばかりに肩をすくめている。
「……望むところです」
俺はボロボロのスケッチブックを開き、一番尖った鉛筆を手に取った。
背後で、マサが「おい結城、お前マジで死ぬ気かよ……!」と震えながら囁いている。
大学という名の魔窟。
美のプロたちが集うこの場所で、俺の「造形オタク」としての真価が問われようとしていた。
@@@@@
「じゃあ、始めるぞ。……琥珀、紅羽。準備はいいか」
俺の言葉に、二人は迷いなく実習室の中央、一段高くなった木製のポージング台へと上がった。
琥珀は、まるで静謐な湖に立つ白鳥のように、自然体でありながら一点の隙もない「静」の構えを。
紅羽は、アルカナ・モードのタイトなスーツのまま、椅子の背もたれに逆向きに跨り、挑発的に顎を引く「動」の構えを。
その瞬間、実習室の空気が変わった。
学生たちが一斉にキャンバスを立て、鉛筆を削り、炭を握りしめる。
美大における「クロッキー(速写)」は、一種の格闘技だ。限られた時間の中で、対象の生命力をどれだけ紙の上に叩き込めるか。
「時間は十分。……始め!」
熊谷教授の号令と共に、シュッ、シュッという、紙を削る音が雨音のように響き始めた。
俺は、視界から自分以外の存在を消した。
見えるのは、二人の輪郭だけだ。
(……琥珀の首筋から肩にかけてのライン。それは、どんな幾何学模様よりも正確な黄金比。だが、その肌の奥には、今にも放電しそうなほどの『意志』が詰まっている。
紅羽の腰のくびれ。スーツの生地を押し返す、圧倒的な肉の弾力。それは、ただのエロティシズムじゃない。世界を焼き尽くそうとする『生命の熱』そのものだ)
鉛筆が走る。
俺の手は、もはや脳で考えるよりも速く動いていた。
昨日からずっと彼女たちを見つめ、脳裏に焼き付けてきた「質感」が、指先を通して紙の上に定着していく。
周囲の連中が、琥珀の髪の輝きや紅羽の美貌に目を奪われ、その「形」を追うのに四苦八苦しているのが気配で分かった。
甘い。
彼女たちの美しさは、表面的な顔立ちにあるんじゃない。
その存在を支える、数万年の時を経ても揺るがない『骨格』。神としての『理』。
隣で描いていたマサが、「……描けねえ。情報量が多すぎる」と絶望して手を止める気配がした。
当然だ。あまりにも完璧な造形を前にすると、人間は己の稚拙さに拒絶反応を起こす。
だが、俺は彼女たちに『名前』を与えた男だ。
彼女たちの『真ん中』を知っているのは、俺だけだ。
「……終了!」
熊谷教授の声が響いた。
俺は、最後の一線を力強く引き抜き、鉛筆を置いた。
指先は震え、額からは嫌な汗が流れている。だが、スケッチブックの中には、確かに彼女たちの『魂の片鱗』が黒い線の束となって息づいていた。
静寂。
教授がゆっくりと歩き出し、学生たちのスケッチを見て回る。
「……ゴミだ」
「これも形を追っているだけだ。人形でも描いていろ」
「お前は、このモデルの『熱』を一度でも感じたか?」
無慈悲な言葉が並ぶ中、教授の足が俺の前で止まった。
熊谷教授は、俺が描いた琥珀と紅羽のクロッキーを穴が開くほど見つめた。
その時間は、永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。
「……結城」
「はい」
「お前……このモデルの逆鱗に触れながら描いているな?」
心臓が跳ねた。
教授が指したのは、俺が描き込んだ琥珀の喉元と紅羽の腿に打たれた、小さな、けれど確かな『点』。
「昨日のネット炎上写真を見て、俺はただの偶然だと思っていた。だが、このクロッキーを見れば分かる。お前は、この造形の『核』――彼女たちが何者であるかという定義そのものを理解して描いている」
教授はゆっくりと顔を上げ、台の上の琥珀と紅羽、そして俺を見た。
「……合格だ。他の有象無象とは比較にならん。この二人を学外の雑音から守る権利は、お前にだけ認めてやる」
実習室に、どよめきが走った。
あの鬼の熊谷が、ここまで手放しで学生を褒めるなんて。
だが、教授はニヤリと笑うと、追い打ちをかけるように続けた。
「ただし結城。お前の受難は、こんなクロッキーなんかじゃ済まないぞ。……見ろ、廊下を」
教授が指したドアの向こう。
いつの間にか、彫塑棟の廊下は、学内の他学科の学生、そして噂を聞きつけた外部の人間、さらにはカメラを構えた連中で埋め尽くされようとしていた。
「マスター……。結界を張ったほうがよろしいでしょうか?」
琥珀がポーズを解き、静かに首を傾げる。
「いいわよ琥珀。アタシがまとめて、あいつらのカメラごと焼き払ってあげましょうか?」
紅羽が不敵にスーツの襟を正す。
「やめてくれ!! それだけはガチでやめてくれ!!」
俺の絶叫が、美大の喧騒の中に消えていった。
造形オタクとしての勝利を掴んだ瞬間に、俺は「大学という名の戦場」を相手にした、地獄の警護任務に就任することになったらしい。




