夕_闘技場
――――朱真、朱真。
遠く、自分を呼ぶ声がして。
ゆさゆさと、揺さぶられているのがわかって。
ようやく、朱真が目を開けた。その瞬間に、ずきり、と頭が軋む。
「大丈夫か、朱真。もう、決勝戦が始まるが」
「……あ、ああ。大丈夫だ」
目の前には、通路で見かける兵士が。だが、ここは、まだ馬房のある控え室で。
痛む頭を振る。それで戻ってきたのは、意識を失う直前の記憶だけでなく。
迸る。赤い、赤い、液体が。
わかっている。あれは、子ども騙しだ。あんなチャチな、嫌がらせに。
それでも。
朱真の視界は今も赤く染まり、頭は、槍で打たれるように、ガンガンと。
いつまでも身体を起こそうとしない朱真を、心配顔の兵士が覗き込んだ。
「顔色が悪い。体調不良で棄権するというなら」
「いや、大丈夫だ。行こう」
ふらつく足を拳で叱咤して、無理やり立ち上がる。
この足で立って戦うのであれば、厳しいかもしれないが。
倒れかかるように馬房へ寄り付き、閂を開ける。
手綱を取るまでもなく、青鹿毛は自分から外へ出てきた。
その肩に手を掛けると、黒く澄んだ瞳と目が合って。
馬が、首を大きく振った。
それは、乗れと、言っているように見えて。
「……ここから、乗っていっても構わないか?」
「あ、ああ。その方が楽であれば」
即座に特例を認めてくれる兵士に、感謝を示して。
鞍に手を掛けると、重たい身体を引き上げる。
馬装を外すことなく意識を失ったのが、逆に良かった。今、細かい作業ができるとは思えない。その分、馬には窮屈な思いをさせたが。
ぶるる、と。不満げに、馬が鼻を鳴らした。
「頭に、気をつけろ」
兵士の先導で、部屋の出口を潜るようにして、馬上の朱真は通路へと出た。
蹄の一歩一歩が、頭に響く。振動が腹に溜まるようで、吐き気までし出した。
情けない話だが、あの嫌がらせは、覿面に効いていた。
ただでさえ力が入らないところへ、ここまでの疲労もそのまま全身を覆っているようで、長槍は腕に重く、両手はしびれたように握力が籠らない。身体は起こしているだけで精一杯。腿は締め付けている感触も、充分には感じられなかった。
何度か、槍を握り直し、馬上で脚を動かす。
引いた血の気が少しでも戻るよう、失われた体力の代わりに、気力が全身をめぐるよう。これで、どこまで戦えるか。
やがて、あの通路に辿り着く。
少し赤が薄れてきた視界の先に、試合場の光。決勝を待ちわびた観客の歓声が、早くも届いている。それらが頭を揺さぶらないことを、最低限確認して。
「行けるか?」
改めて、付き添ってくれた兵士に訊かれ。
「問題ない。いつでも」
いつものように。何事もなかったかのように。
馴染んだ槍に、残るすべての力を込めて。
「朱真!」
呼び出しの声に合わせて、朱真は、決戦の場へと跳び出した。
「……逃げなかったようだな、今回は」
開始の礼もそこそこに、王者はなおも細かい挑発を仕掛けてくる。
「言っただろう。預けたものを返してもらう、と」
短く返し、朱真は先に、開始位置に着く。
「ふん。勝手に、預けたなどと思われていたとは、心外だな」
皮肉たっぷりの笑みを浮かべて、朱塊も開始位置に着いた。
決勝戦に際して、南公が立ち上がる。
二人は、そちらへ向かって、最敬礼を施し、互いに向き直ると。
「思い知らせてやる」
行儀の悪い王者の呟きとともに、礼を交わした。
「始め!」
「食らえっ!」
始まるやいなや、朱塊が突っ込んでくる。
朱塊の戦法は、中距離で先を取る、いかにも長槍競技の戦法だ。長槍を常にしならせながら、出どころと狙いを曖昧にさせつつ、手数で相手を圧倒する。その分、一つ一つの打ち込みは軽く、例え受けても傷は浅いのだが、反撃の隙も与えずに有効打を与えることができるので、何もできずに負ける相手も多い。
敵を倒す必要などなく、傷の二つ三つも作ればそれで良い、長槍競技ならではの戦法。だからこそ、この闘技場では最強を誇る。
ここでも、朱塊は槍の間合いのギリギリで止まり、長槍をしならせて打ち込んでくる。右から左から、と手数は多いが、朱真は、それを冷静に捌きつつ。
「あそこまでしたのだから、こちらの弱みを突くことぐらいできんものか」
「はん! 病人のような面をして、何を言うか!」
軽口のようだが、朱真の言葉は真実だった。
手も脚も充分に力が入らない以上、渾身の力で払われるのが最も効くだろう。
だが、朱塊の軽い攻撃であれば、今の朱真でも楽に捌くことができる。
どこかで強く弾いて、後の先を取れれば。
「……今度は、オレの喉を貫くつもりか?」
だが、その呟きが。
わざと仰向いて見せた、朱塊の青白い首に、赤い筋が見えた気がして。
再び、朱真の視界が奪われた。
赤く染まる闇の中、飛び来るような穂先は、朱真には捉えられない。
左の頬から、鮮血が散って。
「はっはは! どうした、オレの迷蒙とやらを、開いてくれるのではなかったか!」
嘲り、笑いながらも、朱塊は槍を止めることはない。
対する朱真は、ぐらつき歪む視界の中、ほぼ勘だけでその槍を受ける。
それでも、一撃ごとに頭は軋み、腹の中はひっくり返ったように。
「どうした、どうした! 他愛もないぞ! これが、あの男に勝った槍か!」
あの男。
次は、左の二の腕が裂けた。痛みも感じぬかすり傷。だが、決勝でさえなければ、試合を止められていてもおかしくはない。
オレは、このまま負けるのか。
こんなことで。あんな奴に。
それで――――
「礼を言うぞ! よくぞ、あの男を殺してくれた!」
――――紅信に、なんと言って見えるのか。
大きな嘶きとともに、青鹿毛の巨体が棹立った。
朱真が、手綱を強く引いたのだ。
巨大な蹄を振り上げられて、朱塊が仰け反り、その馬が慌てて旋回する。
距離が開いて、改めて、二人は正面から対峙した。
「……おいおい、素人とはいえ、恥も外聞もないものかよ!」
前回王者が、わざと大声で、対戦相手を貶める。
それに応じて、会場の一部からも、激しい非難の声が上がった。
だが、朱真にとっては、どこ吹く風で。
「いつから、長槍は、お遊戯の杖になったのだ?」
自ら誇りとする、長槍競技を馬鹿にされて。
朱塊の額に筋が浮いた。
「ど素人が。南公の御前で、国技をそしるか」
「これが国技か。だが、飾り物と知ってなおその公位を狙う者には、お似合いだ」
「貴様、公位すらそしるか!」
怒りとともに。真っ直ぐに駆け出した朱塊が、その長槍を鋭く突き出した。
しかし、朱真は、それを首を捻るだけでかわすと。
「どうした、オレの喉を貫いてくれるのではなかったのか」
そう言って、にやり、と笑った。
「お、お前。」
朱塊が、唖然と動きを止める。
そこへ、朱真の槍が翻った。避けることもできない朱塊の、その首元へ。
「――――そ、そこ……」
そこまで、と、試合を終わらせかけた審判が、慌てて止まる。
朱塊の喉元に突きつけられているのは、朱真の槍の、石突きだった。
穂先でなければ、長槍競技の勝利とはされない。
「石突きでも、お前の喉くらいは砕けるが、このお遊びでは有効ではあるまい」
槍を引き、馬を引く。
朱真が再び、最初の距離を取った。
「オレも、礼を言うぞ、朱塊。お前は、オレが禁忌としていたものを、すべて取り払ってくれた。この競技場も、長槍も、紅信の幻影も」
朱真の視界に、もはや赤い闇はない。
遠く見えるは、あの日に憧れた義兄の背中。それは、順ずるべき南公の姿だ。
「だから、なんだと言うのだ。勝つのはオレだ! 南公になるのも、お前ではない! オレなのだァッ!!」
いくら朱真に罵倒されようと、もはやすがるものはそれしかないのか。
大切な長槍を抱えるようにして、再び突撃してくる朱塊に。
「そして、詫びを言う。もっと早く、お前の迷蒙も、開いてやるべきだった」
「うるさい!!」
強く、初めて渾身の力で振るわれる、朱塊の長槍。
それに、応えるように。
朱真も、全力でもって、長槍を振り返す。
二本の槍が、重なり合った。
その激しい衝撃に、槍は軋み、馬は、バランスを崩して。
「――――それまで!」
朱真の槍を、朱塊の身体で受け止め切ることなど、できるはずがなかった。
朱塊は、王者の称号とともに、地面に叩きつけられて。
「朱塊、失格! 勝者、朱真!」
本年の槍術大会は、前回王者の落馬失格という、大方の予想を覆す結果をもって、その幕を閉じたのだった。




