夕_景芝
小さな円座を引いただけの、小さな荷馬車の荷台で。
がらがらと、揺すられながら。
碧流は、ぼんやりと、両の手のひらを見つめていた。
そこには、四つずつの爪の痕が、しっかりと残っていた。
「碧流がそんなことしたって、どうにもならないのに」
手当をしてくれながらそう言った、ヤンの苦笑が思い出される。
それは、碧流にもわかっている。でも、仕方なかった。あの場では、拳を強く握り締める他に、できることは何もなかったのだから。
碧流の目の前で、孔族の男たちは、次々と倒れていったのだ。
殴られて、蹴られて。顔を、赤や、青に腫らして。たくさんの血を流して。
それでも、何重にも築かれた人の壁は、ついに、誰も通すことはなかった。
日が暮れて、山道が暗くなる前に、奴らは引き返していった。
追い返したのだ。一切、手も足も出すことなく。
立派だった。
この目で見ていた碧流が言うのだから、間違いない。
だが、碧流には、偉そうに、彼らを褒めることなど、とてもできなかった。
ただ、見ていただけだったのだから。
自分も参加する、とは言ったのだけれど。
彼らの誰も、族外の碧流の参加を許さなかった。
碧流の身体を案じてはくれたのだろうけれど、それが誇りだと言われれば。
碧流とて、無理やり参加することなど、できるはずもなく。
ただ、見ていることしかできなかった。拳を、強く、握り締めて。
「――――碧流。」
顔を上げると、隣の紅兎が、こっちを見ていた。真っ赤に腫らしたままの目で。
人壁を築くことになった昨日の昼から、紅兎は村に戻されていた。
参加させるわけにはいかないし、黙って見ていられるわけもないし。
周りからすれば、当然の処置ではあったのだが、紅兎は納得しなかった。
長の家の部屋に閉じ込めても、大声でわめいて、暴れて、大変だったらしい。
それでも、夜には大人しくなって。
暗くなってから、戻った碧流が顔を見せると、紅兎は一言。
「……勝ったの?」
と訊いた。
碧流が、今日のところは、と答えると。
「そう」
とだけ言って。後は俯いたまま、部屋から出てくることもなかった。
今朝、動ける者たちが、再度、壁を築きに行っても、そのままだったが、奴らが来ない、という連絡を受けると、真っ先に下の町へ駆け出したのが、紅兎だった。
紅兎は、借りた馬の持ち主も驚くほどの早さで町との間を往復すると。
「勝った!!」
と、叫んで、すぐに。その場で、大声を上げて、泣き崩れたらしい。
碧流は、それを、また、あの森の中で聞いたのだけれど。
急いで村に戻った時も、紅兎はまだ泣いていた。
さすがにもう、涙は止まっていたけれど。
「……アイツ、話になったね」
その目はまだ、赤いまま。
「話にならん男、って呼べなくて、残念でしたね」
たぶん、昨日の昼からのことだから、そうそう治りはしないだろう。
なのに、紅兎は、いつもと変わらない憎まれ口を。
「大丈夫。アタシの中では、なにがあろうと、アイツは話にならんから」
それでいて、なぜか碧流とともに、景芝へと向かっている。
村では、お祝いだの、感謝だのと、碧流も色々言われたのだが。
朱真はともかく、その後の朱家がどうなったのかを、しっかりと確認しておきたかったので、丁重にお断りした。
結局、感謝してもらうようなことは、なにもできなかった気もするし。
だが、それはあくまで、碧流の都合。
「紅兎は、村に残っても良かったんじゃないですか?」
それは、村を出る前にも確認したことではあったのだが。
「……うん。でも、いいの。行く」
やっぱり、紅兎は煮え切らない答えを返してきた。
村で聞いたのと同じ答えを返されて、碧流は同じように口を噤む。
紅兎は紅兎で、なんらかの考えや、気持ちがあるのだろう。
だとしたら、それ以上は、碧流からはなにも言えない。
景芝へ行く、という碧流の意志が固いと見るや、長は、村から荷馬車を出すよう、指示を出してくれた。
いつもの乗合馬車だと、結局、出発が翌朝になってしまうので、助かった。
だったら、今夜は宴に参加して、明朝、乗合馬車に乗る、というのが最も親切だったような気はするのだが。まぁ、それも今さら、ということで。
ちなみに、御者さんは、あの神馬狩りの夜にもお世話になった方で。
「景芝の祭りには、ぎりぎり間に合うな」
と笑って、快く引き受けてくれた。
そして今、碧流は、紅兎ともに、景芝への馬車に揺られている。
すべてが上手く運んだのに。
そうとは、とても思えないほどの。
鉛のような重さを、肚の中に抱えながら。
馬がいいのか、御者の腕か。それとも、単純にどこにも停まらなかったからか。
荷馬車は、いつもの乗合馬車より遥かに早く、景芝の街へ到着した。
碧流と紅兎を朱家の屋敷の近くに降ろすと、御者は大きく伸びをして。
そのまま、夜の景芝へ消えていく。
車内で聞いた話によると、御者さんはまだ独り身で。
どちらかというと、白いミルクのような肌が好きなようだった。
どこへ消えたのかは、推して知るべし。
「――――さて、優勝者を祝いに行きますか」
頷かない紅兎を引っ張って、碧流は屋敷の扉を叩く。
あの家宰さんが出てきて、深く、頭を下げた。
朱真は留守だった。
「やっぱり、話にならん!」
大会の優勝者として、恒例の南公主催の祝賀会に出ているようだ。であれば、帰りも遅くなるのだろう。屋敷で待つこともできたが、それも丁重に辞した。
無理に急いで帰ってきたのに拍子抜けだったが、だからと言って、ただぼんやり待つこともあるまい。
「……じゃあ、お祭り見物にでも行きますか?」
「行く!」
全力で頷く紅兎に引っ張られ、炭火焼きのいい香りに誘われて。
碧流は、ようやく、当初の目的に戻ることができた。
景芝の祭りは、泰陽と違って、夜遅くまで続けられるらしい。
まぁ、祭りと言っても、夜店の屋台が遅くまで営業しているだけだけど。
もちろん、紅兎にとってはそれで充分、というより、それこそが目的で。
「これは旨い! それはイマイチ。これは、意外」
と、片っ端から買い食いしては、独自評価を下していく。意外ってなんだ。
当然ながら、費用は碧流持ちだが、お祭り資金なら充分に持ってきた。
今回は、彼女もたっぷりがんばったから、たまにはいいだろう。
でも。
「……その、旨いの。僕の分じゃありません?」
「黙れ! お前はまだ、本場の本気がわかっておらん!」
油断したら奪われるのが、景芝ルールなのだろうか。だとしたら、嫌な街だ。
だが、屋台の料理は文句なく美味しかった。手の込んだものなら、景芝に譲る部分もあるが、串焼き、炭焼きの類は間違いなくこちらに軍配が上がる。
独特の辛味にもすっかり慣れた碧流としては、泰陽に帰ってから、この辛さが恋しくなったら、一体どうすればいいのか、今から心配になるくらいだった。
そうして、並ぶ屋台を一通り。
存分に食べ尽くした二人は、ぱんぱんになった腹を抱えながら、ちょっと人の少ない通りを歩く。
そろそろ朱真も帰る頃だと思えば、もう屋敷へ向かってもよかったのだが。
なんとなく、この祭りの夜を、もう少し楽しんでいたかったから。
「……良かった。」
気づけば、紅兎が、碧流の横顔を覗き込んでいて。
「……なんですか?」
妙に気恥ずかしくなって、正面を向いたまま、尋ねる。
紅兎は、あの、子どもに向けたような、優しい声で。
「碧流、馬鹿だから」
「……本当に、なんですか」
予想外に馬鹿にされ、ちょっと憮然となる。
でも、紅兎は、いつになく、真剣な顔をして。
「碧流が、背負うこと、ないんだよ」
びくっと、した。
それは、図星ではない、と思うのだけれど。
「碧流には、他に、ちゃんと、がんばるところがあるんだから」
そんな声で、そんなことを言われると。
自分でも、意識もしていなかった気持ちが。
紅兎は、ひょっとしたら、それを、碧流に教えるために。
そう思ったら。ちょっとだけ、本音が溢れた。
「……勝手に、一員だと、思っていたのかもしれません。僕も、泰皇民族じゃ、ないから」
俯きそうになる顔を、無理やり上げる。
紅兎は、ちょっと遅れて、斜め後ろから。まるでお姉さんのように笑って。
「それが、馬鹿なんだよ。碧流には、ちゃんと、家族がいるでしょ」
「――――はい。」
見上げた空には、滲んだ下弦の月がかかっていて。
やけに明るかったから、もうしばらく。二人は、そのまま歩いていった。
やがて、祭り用に出された、休憩用のテーブルを見つけて。
皆に倣って、珍しく、食後の果実酒なんか飲んでみたりして。
そこへ。
「――――連れてくる必要はなかったようだな」
ほろ酔い加減の二人に、呆れたような苦笑を浮かべて。
いつもより少しだけ小ざっぱりした格好をした、朱真がそこに立っていた。




