第18章 秘事
──初夏のキャンパスはこうも暑いものだとは、予想だにしなかった。
照りつける、というよりもはや刺してくるような日光。日焼け止めクリームは当然塗っているが、それも無意味ではないかと思えるくらい、肌が痛い。暑いのではなく、痛い。
しかも私は今、我らが誇りの大学図書館から、数冊の書物を運んでいるところなのだ。
このデジタルの世界で何故書物なんかを、と思うかも知れないが、私たちが手にしたいような情報は、国家機密に匹敵する程の貴重なものなので、
デジタルに起こしてしまうと厄介なことが起こりかねないから、国が書物にしたのを、ここの図書館が所蔵しているだけ──だそうだ。黒雨さん曰く。
荷物を運ぶのはもう慣れてはいるけど、暑さにはいつまで経っても順応出来そうにない。
もう少しで校舎に入れる。
そう思いながら、私は小さな歩幅でゆっくり歩む。
そこに。
「重たそうな荷物だね〜。部長が頼んだの?」
と、声が飛び込んできた。
その方を見ると、ども〜、と挨拶してくる女性がいた。
半袖姿の彼女の名は、花理崎 菜那だった。
彼女の質問に私が頷くと、
「私も手伝おうか?」
と、その眉をハの字にさせて尋ねてきたので、
「ううん、渡す方が大変だから大丈夫。ああ……そしたら代わりに、研究室の扉を開けて欲しいわ。両手塞がっちゃってて」
と助けを求めた。
わかった、と彼女は言い、それでもやはり心配だと、高齢者を介護するみたいに付いてくる。
初めてこの人と会った時は本当に驚いて、直後に焦った。
──厳密には、『初めて』ではなく、『久しぶりに』だが──。
驚きの一因は今も相変わらず目立つ緑髪である。
のちに尋ねてみれば、『カラフルキラー』というロックバンドのヴォーカル、カノンの奇抜な髪型に感化されて今の髪型に変わったと言う。カノン本人の格好を見てみれば、最早同じ日本人とは思えないようなブッとびようだったので、それに比べれば、まだまだマシである。
それにしても、こんな所で再会するなど、思っても見なかった。
『大学に行く』。小学生にして、そんな夢を語っていたのは覚えているけど、大学名を限定して言うことは無かったし、あったとしても覚えていない。当時の私は大学なんて興味もなかったから、今通っているこのT大学で会えることなど予測できないはずだ。
それに、仮に予測出来るヒントを口走っていたとしても、本来私は、この世にはいない。
複雑な話だが、今ここにいるのは「私」。
菜那の知る『皆木 姫花』は、存在しないのだ。
だからそのヒントを頼りにしても、誰にも会えないのだから、彼女がそれをキッカケにここに来るはずはないのだ。
結論、私と菜那がここで会えたのはただの偶然。神のイタズラ、というやつなわけだ──。
「はい、どーぞ」
そうこう考えているうちに、私は自らの身体を研究室の前にまで運んでいた。
ドアを開けてくれた菜那に、ありがとう、と短い言葉をかけながら、私は研究室のテーブルに重たい資料を置いた。
腰を伸ばし、うーん、と唸る私に、菜那が問うてきた。
「ねぇねぇ杏紅。今晩、暇?」
と。
そう言えばいつの間にか、菜那は私のことを呼び捨てで呼んでいる。昔の彼女なら考えられない言動だ。
委員長になるのを拒むようなことを言いつつも、それになりきっているような“ですます調”と“さん付け呼び”。そりゃあクラスメイトが、彼女は委員長に乗り気なんだ、と考えるのも無理はない。
そんな眼鏡っ娘だった彼女が、今やこんなエキセントリックでも言えよう風貌に変わり、オマケに口調もこんなだ。驚いてしまうわけだ。
さて、私たちの会話に話を戻そう。
今晩の予定を頭の中で何度か振り返ってみるが、特にこれといった予定もなかった私は、
「無いよ。どうして?」
と、端的に問い返した。
すると彼女は、実はね、と言いながら、肩にかけていたショルダーバッグから何かを取り出した。
「コレ。『カラキラ』のライヴのチケットなんだけどさ。2枚あるんだよね」
カラキラと言うのは、御察しの通り『カラフルキラー』の略である。
確かに彼女の右手には、2枚の細長いチケットらしき紙が。
「ホントは今晩、高校の同級生と観に行くつもりだったんだけどさ。そいつドタキャンしたの、アリエナイっしょ」
彼女は眉をしかめながら同意を求めて来るので、苦笑いで、そうだね、と受け流した。
「でさでさ、もし良かったら一緒に観に行かない?よく考えたら、私たちまだ一緒に遊びに行ったこと無いなあと思ったの」
言われてみればそうだ。というか、この研究室以外で行動を共にしたことがまず無い。
折角のお誘いだ、乗っておこう。
「勿論行くよ!あーでも……私カラキラの事殆ど知らないよ?それでも良いの?」
つい最近有名になってきたバンドなので、彼女の話を聞くまで存在すらも知らなかった。
今は歌を数曲ほど嗜んでいるけど、実のところ、何て歌っているのかわからない。まあそれがこういう曲の味、とも言えるのだけれど。
「いーよ、全然!むしろこのライヴで好きになってよ!そうそう、んでさ杏紅。その後、私ん家、泊まらない?」
「菜那の家?……って、そんな距離変わらないじゃん」
最寄駅で言えば、一駅しか違わない。彼女の方が大学にやや近いだけだ。
そんな距離で泊まる理由など──。
いや、待て、私。
これは好機じゃなかろうか。
この花理崎 菜那という女性の過去を、
私の知らないうちに起こった出来事を知る、またと無い好機じゃないのか?
今後こんな機会はいくらでも訪れるだろう。知り合って3ヶ月で自宅に泊まりに来ないかと誘うような人なのだから、最短でも4年間ある大学生活の中で何回誘われるか判らない。
だが、その中で私と彼女の関係が、必ずしも今と全く同じとは限らない。
互いの秘密──特に私の秘密が明かされてしまった場合、彼女は私に知られてはいけない情報を隠すかもしれない。
したがって、互いの秘密を知らない状態の、警戒度が比較的低い今のうちに、彼女の過去を知っておくべきだ。
私の思考は、このやり取りの中の僅かな一瞬の間に、それだけのことを、計算式のように導き出した。
「いーじゃんいーじゃん!うち泊まってよぉ」
と、子供のように駄々をこねる菜那だったが、
「……わかった、じゃあ泊めてっ」
私がそう言って承諾するのを見て、やった、と無邪気に、それもまた子供のような仕草で喜ぶのだった──。
──ナメすぎていた。
生まれて初めてのライヴ。それでもそんなに疲れることはなかろう、と高をくくっていた。
だが、その私の予想の斜め上を行くライヴの激しさ。ずっと立ち続けているので、配置されている座席は意味をなさないまま。
そして何よりその運動量。初心者の私はついて行くのがやっとで、轟く演奏音は、音楽には聞こえなかった。
隣でノリノリだった菜那は、カラキラのライヴは3回目だと言っていたが、それでも帰りの足取りが覚束なくなるくらいのスタミナ消費。
そりゃ帰りの電車で記憶が無くなってしまうわけだ。
……で、現在。
私と菜那はとある集合住宅のエレベーターの中に居る。
立てているのが不思議に思えてしまうくらい、疲れが溜まっている私と、その様を見てずっとクスクス笑っている菜那。
「笑わないでってば〜……」
「ククク……言葉に元気が無いぞ〜。頑張れってば、ほら肩」
「大丈夫らよ〜……」
ああ、酒に酔った時ってこんななんだろうなぁ……。頭ボーッとして、呂律回らなくなって……。
エレベーターの扉が開いて、一歩踏み出した次の瞬間に、花理崎家のドアが眼前にあった。
それはあくまでも私の感覚。実際には、エレベーターの扉から花理崎家までは距離がある。
歩いている間の時は吹っ飛んだみたいだ。そう感じるくらい、私は疲れていた。
その消し飛んだ時間のように、私の疲れが跡形も無く消え去る衝撃が私を襲うことになることなど、私は知る由もなかった──。
「──ささ、入って入って〜」
家賃2万円だと言うその部屋は、私と彼女と、あともう1人くらいが限界、そのくらいの広さだった。
電気の点いていない暗い玄関を抜け、その先のリビングと思しき部屋の端にある、贅沢なセミダブルベッドに、私は倒れ込んだ。
「もうらめ……眠いよぅ〜……」
「フフフ……ちょっと寝ちゃって良いよ。1時間したら起こすけどね」
菜那の言葉も最後まではっきり聞かないまま、私は夢の世界へ飛び込んでいた。
目が覚めて、ちょうどその視界の先にあったデジタル時計に表示された時刻を見る。
結構時間が経っている。少なくとも、眠ってから1時間以上は経過している。
1時間で私を起こすと宣言していた菜那はというと、私のそばでけたたましくいびきを立てて、半開きの口からよだれを垂らし、しかも若干白目を剥いていると言う、何ともヒドイ寝顔で眠っていた。
それに加えてシャツの下からへそは見えているし、髪の毛はボサボサ、しかも仰向けガニ股という有様である。
昔っからこうなのだろうか……。だとすると、あの理想の委員長像は少し危うくなる。
仮にタイムスリップが可能だとするなら、この寝相を写真に撮ってメモして、あのクラスメイト達に見せてやりたいところだ。
まあ、この姿を見せたところで、あの清潔委員長だと信じてもらえないだろうが。
とりあえず、彼女は完全に眠っている。
これは今、絶好の好機だと言うことだ。
彼女の知られざる過去を明かす為の好機なのだ。
大きな物音を立てて起こしてしまう、なんて事のないように、慎重に行動しよう。
他人の家に泊めてもらいながらこんな事をするのは少々気が引けるが、背に腹は代えられない。
私はベッドから出て、まず手がかりとなりそうな何かを探す。
テーブルの上、洗面所の棚、ゴミ箱の中などなど、何を隠せるんだと言いたくなるようなそんな箇所から攻めていくが、案の定何もない。
部屋の隅々まで掃除がされていて、綺麗な部屋だなあ、なんて思いながら、その掃除と同じように隅々まで目を光らせていると、
リビングの棚の上にあった何かが、私の目に留まった。
「写真……立て……?」
私はその物体の名称を呟いた。
正式には、それの名称は“フレームアルバム”と言う。
小さな写真立て型のスクリーンに、内蔵されたデータチップに記録された写真がスライドショー形式で次々と映されていく、という、よくありがちなインテリアである。
そのスライドショーの中に、私の目が惹かれる原因となった、ある一枚があった。
その写真の内容は、
入道雲が目立つ青空の下に、体操服を着た3人の女子中学生が、満面の笑顔で写っている、と言う、至ってシンプル且つこれもまたよくありがちなモノだった。
顔も見たこともないような女子中学生が写っていたのならそれまでで済んだのだろうが、無論そんなはずは無い。そんなことじゃないから、私の目に留まったのだ。
その3人の中に、見知った顔が2つあったのだ。
一つは、あの委員長。つまり花理崎 菜那である。運動した後だからだろうか、汗の光る額が目立ち、その下の笑顔は、やはりクールだった。
そしてもう一つの、私の知っている顔。
その持ち主は、
その無邪気さと明るさでクラス中の人気をさらっていた、私の親友、
稀崎 雛乃だった。
その混じり気のない笑顔とオレンジがかった短い茶髪はそのままに、背丈と体格はアスリートのそれに成長しており、さらに体操服の袖を捲し上げるという、まさにスポーツウーマンだった。
そしてその隣に居る、私の知らない女子。
トレードマークはポニーテール。それとしっかり手入れされた純白の歯。
仲の良さをアピールするかのように、右手を雛乃の肩に置いている。
実に仲睦まじい瞬間を捉えた一枚。
フレームアルバムの仕組みを知っていた私は、スライドショーを一時停止して、その一枚の中にめり込みそうな勢いで、そればかり見ていた。
「それ、気に入ったの?杏紅」
その背中に、そう言葉をかけてきた菜那。
びっくりして飛び上がった私を見て、菜那はまたクスクスと笑った。
「見てもいーよ。っていうか、見ちゃダメな写真はそこに記録しないしね」
写真を見てしまったことよりも、そうやってコソコソと探っていたことに、私は罪悪感を抱いていた。
「しかし成る程ね……道理でこうやって波長も合って、友達で居られるわけだわ」
菜那は徐ろに立ち上がり、私の方に歩みを進め、
「それもらっていい?」
と手を差し出してきたので、素直にフレームアルバムを手渡した。
「この写真、私もじっと見ちゃうんだよね……何でかわかんないんだけど……羨ましいのかな。昔の自分と、その友だちなのに」
「羨ましい……?」
わたしが首を傾げて問うと、彼女はスクリーンから目を離してこちらを向き、ついでにそのスクリーンも見せながら言った。
「この笑顔が」
その言葉を聞いてから、写真に写る彼女たちの笑顔が、まるで別物に見えた。
赤色と青色が、全く異なる色であるように。
ただの混じり気のないだけの笑顔だったそれらが、
いくらお金をかけても手に入らないような宝石と同格に思えた。
「こんなに素直に笑えることが、とても羨ましいのかも知れない。私自身はまるでそんなこと思ってないんだけど……本能ってものが、そう思っているんだろうね」
いつもは見せない、落ち着いた目をしている菜那に、私は何故か見とれてしまった。
「……ま、そんな深い理由じゃないかも。単に、懐かしいだけだったりもするわね」
“懐かしい”。
その何ということのない単語に、私は反応した。
「懐かしい……?懐かしい……って、何で?中学校の時に別れただけの人を、まるで何年も見てない人みたいに……。
いや、そんなこと今はありえないはずよ。全世界の何処に住んでいたって、傍にいるみたいに会える時代なのに。
……懐かしいのは、或いはその日々のこと?……いや、そんな風には思えない……。
この娘たちに……何かあったの?」
立て続けにポンポンとそれだけのことを菜那にぶつけた。すると彼女は、推理ドラマの中の犯人みたいな表情をし、かと思うとすぐに諦めたみたいに、表情が解けた。
「……2つとも正解。その日々は、もう2度と帰ってこない。だから懐かしい……。
けど、それだけじゃない。
──もう2度と帰ってこない人がいるの」
私は息を呑んだ。
未だ表情が柔和なままの菜那に、私は恐る恐る問うた。
「それって……誰かが──」
「下の卒アル取って」
しかしそれを断つように、彼女の言葉が飛んできた。
それをも無視して質問を返したいところだったが、今はまだ、彼女の指示に従うことにした。
卒業アルバムを手に取る。持ったことのないそれは予想よりやや重たくて驚いた。
片手で持とうとして落としかけたそれをもう片方の手で慌てて支えた。その様を見ていた菜那の目が一瞬変わったような気もしたが、それ以上の詮索は中断したようだ。
「……3枚ページめくったら、出てくると思うの。みんなの顔写真が載ったページ。
3年2組のページ……開いてみて」
3年2組。そう言えばその数字は、写真の中の彼女たちが身に纏っていた体操服にも明記されていた。
つまりそれは、言うまでもなく、彼女らが卒業する時に、共に属していたクラスだったということだ。
私は、彼女の言う答えを知りながら、けれどそれが一体誰の身に降りかかったことなのかを確認する為に、勇気を振り絞った。
「そのクラスは、私を含めて全員で35人のクラスだった。……そして、それをゆっくり見て貰えば判ると思う」
彼女がそう言うのと同時に、私もその異変に気付いた。
しかしそれを言葉に出来ず、私はただ、彼女の顔を見つめた。
彼女はその時、ゆっくりと目を閉じていた。
そして言ったのだ。
「オレンジの髪の子、いないでしょ」
と。
そしてそれが何を意味しているのか、私には判った。
しかし、私はそれを認めたくなかった。
その感覚は、いつぞやかに味わったあの感覚と同じ。
自分が“人造人間”だと、疑った時の感覚だ──。
「……何故なのか、まるで解せないでしょう……?何もおかしいことではないわ。……けど……もう彼女はいない」
瞼まで浮かんできていたのを何とかせき止めていた涙が、一瞬にして溢れてしまうような事実を、
菜那は、震える声で私に告げたのだった。
「その娘──稀崎 雛乃は、
自殺したのよ──」




