6.帰還[2]
香苗は一人で自宅の部屋に閉じこもっていた。
遮光カーテンをぴっちり閉めているので昼でも薄暗いその部屋は、もう何日も風を通していなかった。
空気がこもって何となく生臭いような、何かが腐りかけているような異臭が漂っていた。
(怖い・・・)
香苗は頭を抱えてうなだれる。
机の上には、開いたノートパソコンが一台置いてある。電源は切ってあるのに、何故か時々勝手に立ち上がり、そのたびに香苗は耳と目をふさぐ。
ほら、また。ウィンドウズが起動する音。スピーカーの音量を確かめに行く勇気も、ディスプレイ画面を閉じに行く勇気も残っていない。
くっくっとくぐもった笑い声。ひいっひいっともだえ苦しむような息の音。間断なく激しくむせび泣く声。
(何なのこれ、いったい何なの)
恭一に誘われた時、本当は行きたくなかった。行ってはいけないような気がして、身体中が嫌がっていた。
(なのに、どうして行ってしまったんだろう。今更いっちゃんにまた恭一を横取りされたくなかったから?)
確かに、それもある。だけど、あの時すでにそんなことはもうどうでもよくなってきていた。
何故恭一があんな誘いをかけてきたのか不思議だったし、何だかひどく億劫だった。
けれども、行きたくないのと同じぐらい強い気持ちで、自分でない誰かに「行け」と命じられているようだった。
今まで一度だって、香苗は誰かに脅されて服従してきたことなんてなかったのに。
(ずっと車の中にいたのに、あの厭なものは私の中に入ってきた・・・)
いや、もしかしたら《それ》はもう既に香苗の中にいたのかもしれない。香苗が気づいていなかっただけで。
《それ》は、今や香苗の血の中にすっかり溶け込んでしまっていた。
溶け合った液体は、どうすれば分離できるのだろう。
香苗が生きている限り、《それ》も香苗と共に生き続け、香苗を苦しめさいなむだろう。
何も悪いことはしたつもりはなかった。
そりゃ、ちょっとは小細工もやったけれど、そんなにひどいことはしていないはずだ。伊知恵に対しても、恭一に対しても。他の誰に対しても。
私、そんなに厭な子じゃないもの。
こんなに怖い目に遭うようなことは、何一つしていない。
足音まで聞こえてくる。
板張りの床を、一歩ずつ踏みしめるようにゆっくりと近づいてくる。
顔を上げるのが怖い。なんでこんなことになっちゃったんだろう。
この状態から抜け出せるなら、何だってする。
香苗はじわじわと追いつめられていた。
《彼女》は頼りなく薄暗いどこかをさまよっていた。
身体がないのにはっきりと意識があるという感覚には、なかなか慣れることが出来ない。
目がないからものが見えないし、耳がないから何も聞こえない。においをかぐことも、手足で触れることも、声を出すことも出来ない。
それなのに、《彼女》は確かに存在している。だが、ここは一体「どこ」なのか。
「最後の最後まで気ぃ抜いたらあかんよ」
と、誰かに言われていたのに。あれはいったい誰だっただろう。そもそも、私は誰だろう。
目に映る全てがぼんやりとして形を成さない。車の行き過ぎる車道、人々が行き交う通り、駅前の雑踏、そんなところを歩いているような気がする。
だが、きちんと時間を追って動いていないことが《彼女》を不安にさせた。いきなり目の前の風景が変わっているかと思うと、唐突に何もない暗闇に引きずりこまれたりする。
いつからこうしているのか、時間の感覚も次第に麻痺してしまっていた。少し前まで、確かに《彼女》はちゃんと身体を持って生活していたはずなのに。
私はいったい何だろう。命?それとも・・・。無力感が胸をよぎる。もうすぐ、《彼女》の存在は空に溶けてなくなってしまうに違いない。
誰か、知っている人を呼ばなければ。そう思ったが、誰も頭に浮かんでこない。小さい自分を抱き上げてくれた、あれは誰だったか。長いこと暮らしていた、あれはどこだったか。自分は誰かを助けたくて、こうなってしまったのではなかったか。
《彼女》は何も思い出せない。もしかしたら、思い出すことなど初めから何一つなかったのかもしれない。
ひょっとしたら、《彼女》は生まれてすらいないのかもしれない・・・。
そう思うたび、《彼女》の奥で何かが叫んだ。
違う。自分は確かにいる。まだやるべきことがいろいろある。
だが、《彼女》の意識は時と共に次第に薄れ、力をなくしつつあった。このまま無理にここに留まるより、なるに任せてうっすらと消えていく方が楽で自然なことのように思えた。
眠気が押し寄せてくるたび、《彼女》は本能的に恐れおののき、眠気が去るまで必死で苦痛と戦い続けた。
一度眠り込んでしまったら、きっと二度と目覚めることはできないだろう。
何度目かの睡魔をやり過ごそうとしていたとき、《彼女》の目の前をすっと誰かが通った。とてもはっきりした輪郭を持つ人影だった。
《彼女》は夢中で後を追った。人影が振り返る。長い髪の、きれいな女の子。
「かなちゃん!」
《彼女》は思わず声にならない声を上げた。この人を、知っている。
だが、その後ろにもう一人の人影があった。それもゆっくりと振り返る。無表情な双眸。
とたんに、《彼女》の世界が闇に落ちた。




