6.帰還[3]
十二月に入って、恭一は伊知恵を自宅に招いた。両親もいる日曜日の午後を選んだ。
「へえ、恭一が自分から彼女を連れてくるなんてびっくりね」
母は目を丸くしていた。
「落ち着いた、大人しい感じのお嬢さんだね」
父はにこにこして伊知恵を迎えた。
恭一があらかじめ母に頼んでおいた手作りの昼食を、キッチンの横の狭いダイニングテーブルで囲んだ。
まるで四人家族のようだ、と父が言い、母もうなづいた。
いつか本当にこんな風に家族が増える日が来るのよね。母に冷やかし半分に言われ、恭一と伊知恵ははにかんで笑った。
食後のコーヒーを飲んだ後で、恭一は自分の部屋に伊知恵を誘った。
「恭ちゃんが家に呼んでくれるなんて、びっくりした」
伊知恵は嬉しそうに微笑んで、恭一の部屋に足を踏み入れた。
古い作りの家らしく、くすんだグリーンの土壁の和室にベッドと机と本棚が一つずつ、それに、小さなクローゼットで四畳半の部屋はいっぱいだった。
「懐かしい?」
不意に恭一が尋ねた。自然にうん、とうなづいた伊知恵は、そのまま凍りついた。
振り返ると、恭一が静かにじっと自分を見つめている。
「さあちゃんだろ?」
恭一は伊知恵をまっすぐに見つめてそう言った。
「ここ、さあちゃんの部屋だったもんな。机も本棚もみんな、俺がそのまま使ってる」
黙ったままの伊知恵に、恭一は語り続けた。
「お父さんとお母さん、結構老けただろ。昼飯のドライカレー、俺がリクエストしといた。お母さんの作る料理でさあちゃんがいちばん好きだったやつ」
「・・・どうして?」
どうして解ったの。伊知恵の中の沙織は、敗北感を感じながらつぶやいた。
恭一は伊知恵から目を逸らさずに、静かに答えた。
「いっちゃんは俺のこと、恭ちゃんとは呼ばない」
ああ、それでしくじったのか。沙織は歯がみする。うまくやったと思っていたのに。
あの時は、男に復讐を遂げたいのと、少女の命を助けたい一心で伊知恵に取り憑こうとしていた変な念から伊知恵を取り戻した。
伊知恵が全てを自分に委ねてくれたから、沙織は自由に伊知恵の身体を扱うことが出来た。
沙織の念が男に復讐を遂げて病院の地下室に戻って来た時、伊知恵はまだ意識がもうろうとしていた。
それをいいことに再び彼女の体に潜り込んだ沙織は、それきりもう伊知恵に身体を返すつもりはなくなっていた。
「さあちゃん、伊知恵を戻してくれないか」
恭一は沙織を見つめて、静かに、諭すように優しく語りかけた。
「・・・いやよ」
沙織は挑むように恭一をにらんだ。
凍てつくような瞳。伊知恵はこんな表情はしない。
恭一は身震いした。やはり、ここにいるのは、伊知恵ではない。だが、これが沙織なのだろうか。
(そうだ。これも、さあちゃんなんだ。小さい頃の俺には見せなかった、ハタチのさあちゃんの・・・)
恭一は恐れとも怒りともつかない不安な光を宿す伊知恵の、否、沙織の瞳を見つめた。
今の自分なら受け入れられる。あのころ、ただひたすら優しい沙織を慕っていた恭一にはわかるはずのなかった、揺れ動く苦い思いを抱えていただろう沙織の影の心が。
沙織は知らず、血の通う身体を抱きしめていた。
ああ、この感触。温かく、弾力と手触りのある生き生きとした身体。たまらなくいとおしい。
生きて、身体を持つことがどんなにすばらしいことか、一度失った沙織には強烈にその価値がわかった。
沙織は目の前の恭一を見つめて、再び口を開いた。
「私がどんな思いでこの家に住んでいたか、恭ちゃんにわかる?」
問いただそうか迷うように首を傾げて恭一が躊躇しているのを見て、沙織の心はたじろいだ。
(だめ!言っちゃだめ!)
沙織は声にならない悲鳴を上げた。その一方で、もう一つの強い念が沙織を支配しようとしていた。
今更何だ。全部洗いざらい、言ってしまえ。目の前の恭一は、義兄さんそっくりになってきたじゃないか。
姉さんと義兄さんは、自分のいない長い年月を共に過ごしてきた。年を重ねて落ち着いて、自然に寄り添う姿にはもはや自分の入る余地はない。
義兄さんの代わりに、せっかく手に入れたこの身体で恭一を手に入れるんだ。
恭一だって知っておくべきだ。あの時、どんな思いで幼い恭一に二十歳になるまで待ってる、と言ったか。
母親とは違う憧れを込めて私を見つめてくれていた恭一。
義兄さんは恭一にこんなお嫁さんがいたら、と言った。こんなお母さんがいたら、とは言わなかった。
義兄さんは、私の気持ちに気づいていたはず。そして義兄さんも私のことを・・・・。
もしあの晩あんなことが起こらずに、二人でドライブに行っていたら・・・。




