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4.過去[1]

 東京に戻ると、伊知恵は部屋に荷物を置いてすぐ下宿先の老夫婦の家を訪ねた。毎月挨拶がてら下宿代を現金で支払いに行くことになっている。試験休みに帰郷することもあらかじめ知らせていた。

「さっき、帰ってきました。これ、祖母からです」

 そう言って玄関先で祖母から預かったお土産の包みを渡して帰ろうとすると、夫人の雪江が呼び止めた。

「せっかくだから、ちょっと上がって行って。お祖母様の話も聞きたいし」

 ありがとうございます、と伊知恵は好意を受けることにした。

 掃除の行き届いた広い応接間に通されると、伊知恵は少し緊張した。見事な織りの絨毯や革張りのゆったりしたソファ、由緒のありそうな陶磁器の飾られたガラス棚など、普段伊知恵とは縁のないものばかりが目に入る。

 品の良いティーセットを盆に乗せて紅茶の湯気をくゆらせながら、雪江が現れた。主の善一は留守らしい。どこかの会社の名誉会長をしている善一は、八十に手が届くというのにかくしゃくとした現役のビジネスマンだった。雪江もその妻らしく、おっとりした中にもそつのない優雅さが見える。こんな家に間借りするなど、滅多に出来ることではない。それは初めてここに来たときから、伊知恵は身に染みていた。

「お祖母様はお元気?」

 柔らかい笑みを浮かべて雪江は伊知恵の向かいに座った。

「はい、おかげさまで・・・」

「あなたの方は、何か変わったことでもありました?」

 社交辞令にしては予想外の問いに、伊知恵は戸惑った。

「ごめんなさいね。ここのところ、様子がおかしいので、夫と二人で心配していたの」

 雪江は、試験期間中に伊知恵が夜中に外をさまよっていたことに気づいていた。そしてまた、伊知恵が留守の時に、伊知恵の部屋から度々妙な物音が聞こえ、不審に思っていたという。

 留守の時のことは、伊知恵は初耳だった。それは不快だっただろう。伊知恵は思いがけず佐山夫妻にも迷惑がかかっていたことに恐縮した。

「すみません。いろいろあって・・・」

 伊知恵は口ごもった。雪江に、何をどのように告げようか。

「・・・私たちがお祖母様にお世話になったときのこと、お祖母様から聞いて?」

 雪江は微笑みを崩さず、静かに伊知恵を見つめていた。伊知恵は首を振った。数十年前、ということしか伊知恵は聞かされていない。数十年前、何がこの老夫婦に起きたのか。具体的なことは何も知らなかった。

 雪江はそっと立ち上がり、飾り棚の上のいくつかの写真立ての中から、ブロンズ細工の一つを取り上げ、伊知恵の前に置いた。そこには、中学生か高校生ぐらいの二人の少女が並んで写っていた。

「私の娘達です」

 雪江はそう言って、小さくため息をついた。

「もうとうに独立して、結婚して、貴女ぐらいの年齢の孫がいたでしょうね。もし、生きていれば」

 伊知恵は身体がこわばった。ということは、この姉妹は亡くなったのか。それも、二人とも・・・?

「ひどい事故だったのよ」

 雪江は、穏やかな口調で語った。

 佐山家の二人姉妹は、三歳違いでとても仲が良かった。二人ともバイオリンを習っていて、個人レッスンの傍ら、地域のオーケストラに所属していた。姉が高校二年、妹が中学二年の夏休みに、ヨーロッパに演奏旅行が企画された。憧れのウィーンやザルツブルグを廻るツアーで、翌年は二人とも受験体制でバイオリンもしばらく休まなければならないから、絶好の機会だった。両親は快く二人のヨーロッパ行きを支援した。

 その帰りの飛行機が、エンジントラブルで空中で炎上し、大西洋上に墜落した。機体は大破し、乗員乗客全てが死亡または行方不明という悲惨な事故だった。

「遺体の一部さえ見つからなくて、私たちは途方に暮れたわ。まだ生きているかもしれないって、一年経っても諦めきれなかった。何度も現地に足を運んだけれど、無駄だった。同じような遺族がたくさん居たけれど、何か手にできた人はほとんどいなかった・・・」

 雪江は涙ぐんでいた。伊知恵は何も返す言葉が見つからなかった。

「それで、人づてに貴女のお祖母様のことを知って、お願いに行ったの。生死の確認はもちろんのこと、もし何か娘達の手がかりを得ることが出来たら、と、わらにもすがる思いだったわ」


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