3.帰郷[12]
祝詞のリズムは伊知恵の鼓動と川の流れのリズムに連動している。やがて、視界にぼんやりと光が見えてきた。その先には、きらめく別の流れがあった。
伊知恵はその中州に立った。自分が来られるのはここまで。そう、ヨシノに教えられていた。そこから先へは生きたままでは行くことが出来ない。伊知恵が辺りを見回すと、ぼんやりと焦点の合わない木々の緑が見えた。かすかにせせらぎの音が聞こえるほか、物音一つ聞こえない。
(何が見えるかは、その人の今の心持ち次第)
伊知恵はヨシノの言葉を反芻した。
(ここが私の中にある《あちらはん》なんだ・・・)
殺風景で寒々しい。どこか哀しく、寂しい。けれども居心地が悪くはなかった。静謐。そこはまだ、仕上がっていない絵のような世界だ。まだ伊知恵には焦点を結ぶことができないにせよ、気持ちの良い風景に違いないことが伊知恵をほっとさせた。
目を閉じると、帰り道は一息だった。現実を思い浮かべさえすれば良かった。凍てつくような水の冷たさに、伊知恵は覚醒した。時間にしてどのぐらい川に入っていたのかはわからないが、息が苦しくないところを見るとおそらく十秒そこそこだったのだろう。
川から上がると、ヨシノがすぐに引き上げてくれた。乾いたタオルで身体を拭くと、全身がぽかぽか暖まってきた。
「どうじゃった、あちらはんは」
ヨシノがにこにこ笑って尋ねる。
「うん、森みたいなのが見えた」
息を弾ませてそう答えながら、伊知恵はまだ半分夢見心地だった。少し気分が高揚していた。
「おまんのことやから、きっとまだ寂しゅうてはっきりせんところやったろう。せやけど、まあ、良かった。ちゃんと見てきたちゅうことは、惑わされんで済んだんやね。上出来上出来」
ヨシノに見透かされて、伊知恵は弱々しく笑った。
「こんなんで、大丈夫なんやろか。私、ちゃんとやっていけるんやろか」
「誰でも、初めはそんなものやで」
ヨシノは丁寧に伊知恵の髪を拭きながらかみしめるようにつぶやいた。
「おばあも、おばあのお母はんも、最初は頼りなかった。いろんな経験が、少しずつあがらを大きゅうしてくれはるんや。自信持ちなさい。人はみんな同じぐらいなもんさ。とりたててすばらしいことせんかったお人も、偉いこと成し遂げたお方も、あちらはんから見たら大差ない」
そうだろうか。伊知恵はヨシノを見つめた。静かな自信に満ちて、不安など微塵もないようなヨシノは、とても自分と同じようには見えない。
「これから先、何かあったら今見たものを思い出しなさい。おまんにとって、あちらはんは恐ろしいもんじゃのうて、おまんを守ってくれはるところやぞ」
ヨシノはかみしめるように伊知恵に説いて聞かせたが、ふと厳しい顔つきになって伊知恵の両手をしっかり握った。
「ええか。最後の最後まで、気ぃ抜いたらあかんよ」
ヨシノの真剣な言葉に、伊知恵は思わず身ぶるいをした。東京に戻ったら、乙橋もヨシノもいないところで、一人でやらなければならない。だが、それはヨシノと話し合った末、伊知恵が自分で決めたことだった。
沙織は、自分の思いを遂げるまで伊知恵の中にいる。祖母の手で祓ってしまうことも出来たが、伊知恵はそれを拒んだ。
(ばちが当たっちゃったんだなあって思うの)
沙織はあんな理不尽な死に方をしても、義兄への思慕と姉への後ろめたさをぬぐいきれずにいた。あのひどい犯罪を再び引き起こすことを止めることが出来たら、自分の死に対してもう恥を感じずに済む。
そう思い詰めている沙織の魂を気持ちよく旅立たせたい。その思いが、伊知恵の心を強くしていた。




