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3.帰郷[11]

 恭一を見送ってから、残りの日々を伊知恵はヨシノの家で過ごした。父も母も、あんたは結局おばあがいちばんだねえ、と、少しひがんだように言って笑った。

 だが、そんな両親の思いをよそに、伊知恵の心は頼りなく揺れていた。

「おばあ。私、どうしたらいいと思う?」

 その一言に、どんなに様々な思いが詰まっているか、ヨシノはすっかりわかっているようだった。そして、それに対するヨシノの答えも一言だった。

「あんたも一度、あちらはんを見てきたらええ」

「どうやって?」

 不思議そうに尋ねる伊知恵の目をヨシノはじっとのぞき込んで、

「ずっと前から、もう支度は出来てる」

 と言って、良く晴れた日の昼頃、伊知恵を河原に連れ出した。

 初矢川は、太古の時代、その清流にこの世界で初めて矢が流れてきたという伝承のある川だった。矢は、天空からまっすぐ降りてきて、霊山の大岩に落ち、岩をうち砕いた。そこからわき出た水が、初矢川の源流だという。

 十月の川の水は刺すように冷たい。全身を浸すなど、普通なら考えられない。だが、今の伊知恵にとっては、すこぶる気持ちの良いものだった。岩の上に立って、きらめく川面を見ていると、身体を力が行き渡る気がした。

ヨシノの手縫いの白い上下の装束を身につけて、伊知恵は広い中州からゆっくりと淵に向かって足を踏み入れる。川の水がこんなに心地よく感じるのは、半年の東京暮らしを経てきたからかもしれない。東京での生活は、伊知恵を良くも悪くも研ぎ澄ましていた。

胸、肩までつかると、刺すような冷たさが伊知恵の心臓をわしづかみにした。そのまま躊躇せず一気に頭頂まで水に浸かる。全身に行き渡る自分の鼓動に目を閉じて耳を澄ます。そのリズムと川の流れが共鳴する瞬間を伊知恵はとらえた。

 すると、突然身体中がかっと熱くなり、伊知恵は暗闇の中にうっすらと光を放つ一筋の道を歩いていた。もう、寒さも水の感触も感じない。目を開けても、水の感覚はなかった。伊知恵は自分が身体を脱して、意識だけがクリアになっているのを知った。

 ヨシノに教えられた祝詞は、幼い頃何度も聞かされた子守歌だった。忘れようにも忘れるはずがない。ヨシノはそうやって、幼い頃から伊知恵を導いていた。これを心の中で唱えていれば、大丈夫。そうヨシノから念を押されていた。

 曲がりくねった細い道を伊知恵は進んだ。ヨシノぐらいのベテランになれば太いまっすぐな道なのだろうが、初めての伊知恵には、ロープの上を歩くように細く頼りなかった。

 ふと、どこからかこそこそした声が聞こえてきた。

《今日はノロのお葬式》

 そのうちの一つを拾って、伊知恵は慄然とした。この声は、中学校時代の級友の一人の声だ。そして、見たことのない光景が像を結ぶ。

《お線香持ってきた?》

《あるある》

 朝早く、人気のない教室で、数人が伊知恵の机を囲んでいた。顔は見えない。ただ、その口元がほころんで笑っているのだけが見える。

 ああ、そうか。あの日はこんな風だったんだ。伊知恵の心がじわりと痛んだ。朝、教室に行ったら私の机の上にお線香の燃えかすがあって、入学式の写真の拡大コピーで作った自分の遺影が貼ってあった。

《あいつらを殺して!》

 伊知恵の心の叫びが聞こえる。一体誰に頼んでいるのだろう。伊知恵が目を凝らすと、無数の表情のない顔がこちらを見ていた。

 ああそうだ、本当はいつだって私は知っていたんだ。私の中にこういうものがいて、もし私がその気になればいくらだって災いを投げつけてやることが出来た。だから私は学校に行くのをやめたんだ。自分が本当にそうしてしまいそうで怖かったから。

 気持ちが揺らぐと、伊知恵は祝詞を口ずさんだ。ヨシノの暖かい想いが刻まれた子守歌。

 口ずさむだけで、優しい腕にしっかり抱かれているような安心感が湧き起こる。

 進め。進もう。伊知恵は足を前に踏み出した。

 今度は母の声が聞こえる。

《じゃ、お母はん、伊知恵頼むわ。伊知恵、おばあの言うことよう聞きんさいよ》

 何百回、何千回聞いただろう。

《どうしてお母さんはいつもおばあんちに行けって言うの?》

 そう思うことが何度かあったけれど、とうとう一度も口に出すことはなかった。毎朝、伊知恵より早く家を出る両親。学校行事に来たこともないし、お弁当を作ってもらったこともない。たまに家で食べる晩ごはんのおかずは、買ってきたものを電子レンジで温めるだけ。おばあの家が隣じゃなかったら、どうしていたんだろう。お父さんとお母さんは、私より仕事が好き。

《おばあだって、お母さんが小さい頃からずっと仕事優先だったのよ》

 申し訳なさそうに言い訳をする母。

《だけど、忙しさが全然違うじゃない!》

 反論しかけて、口をつぐむ。お母さんが仕事に夢中になるのは、お金のためじゃない。きっと私のことが嫌いだからなんだ・・・。

 様々な想いが鮮明に伊知恵の心に浮かぶ。心が揺らぐと、祝詞の子守歌を自分に歌って聴かせてしのいだ。

《あの写真を作ったのは、かなちゃんだよ》

 何度も、口をついて出そうになった。それを言ってしまったら、際限なく香苗の悪口を言ってしまいそうで、恭一に醜い自分を見せたくなかった。

 だけど、思ってることには変わりない。本当は少し離れたいのにいつも香苗の言いなりになるのは、本当はちょっぴりみんなの同情を引きたいから。自分だって本当はちゃんと計算ずくだ。

 祝詞を口ずさんでいれば、感情に流されることはなかった。ただ事実として伊知恵の道筋に現れて消えていった。

 これが自分だ、と思うと、つらい反面、どこか思い切りがついた。自分の心の大きさの分だけ、人は闇を抱えている。それはどうしたって、手放すことは出来ない。


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