3.帰郷[9]
沙織の記憶の映像が一瞬スパークした後で、伊知恵と沙織の意識は再びその場面に戻り、沙織の飛び出した背後の雑木林に潜む男の影を見た。トラックが止まらずに行ってしまい、後続車がすぐには来ないのを見ると、男は静かに周囲を見回して目撃者が誰もいないのを確認し、ゆっくりと雑木林に戻っていった。速度を変えずに走り去ったトラックと、前輪と後輪に交互に容赦なく踏みつぶされ、無惨に引きちぎられた肢体がちらばるアスファルトの地面に背を向けて。
沙織を轢いたトラックの運転手がひき逃げと飲酒をしていたことで、沙織が何故国道に飛び出したかという捜査は行われなかった。
(・・・その男は、まだ生きているんですね?)
伊知恵は自分の意識を沙織のものと分けてかきあつめ、自分を取り戻しながら尋ねた。
(そうよ。あいつは、あれからずっと身を隠していたけれど、今になってまた、同じことをしようとしている)
沙織の意識が伊知恵に告げる。沙織は命をなくしてから、その男を決して許していなかった。男が幼い少女を殺めて遺体を雑木林に埋め、何年か経って白骨化した遺体が見つかったときには、男は遠地に引っ越していた。だが、今になって男は再びこの近辺に舞い戻ってきていた。
(今度、事件を起こせば、あの男は捕まるでしょう。でも、私は事件そのものを起こさせたくないの。新しい生け贄は必要ない。あの時のあの子と、私だけでじゅうぶん)
そう言い放つ沙織の意識は、凍てつくように冷たくさえざえとしていた。伊知恵は痛いほどその気持ちが分かって、沙織の想いに深く寄り添っていた。
「・・・さて、どないしたものかのう」
乙橋は難しく顔をしかめた。
恭一は、伊知恵の口から沙織が事故の前に幼女の殺人事件を目撃したこと、その犯人が未だ見つかっておらず、近々また事件を起こそうとしていることを聞いて、半信半疑でぼんやりしていた。確かに、自分が小学生の頃、死後何年も経った幼い少女の遺体が近所の雑木林で見つかり、ひところ世間を騒がせたことがある。だが、その事実と沙織の死に関連があると言われても、正直夢物語のようだった。
「今更警察に話をしても、なかなか信じてもらえないでしょうね」
恭一が現実的なことを口にすると、乙橋は頷いて目をつぶった。
「美沼さんがどない言わはるかなあ」
え?恭一は戸惑った。伊知恵は成り行きで沙織の霊に乗り移られただけではないのか。
その時、伊知恵が寝返りを打ってむっくり起き上がった。
「いっちゃん!大丈夫?」
恭一はぐらつく伊知恵の身体をしっかり支えた。とんだことに彼女を巻き込んでしまった。だが、この風変わりな神社は伊知恵と関わりが深いようだ。ひょっとして、伊知恵は何かこういうことと関わりがあるのだろうか。
「こう見えても、私、霊感があるの」
そう言っていたのは、香苗の方だったはずだが・・・。
「ひとまず、家に帰って祖母に事情を話してみます」
全身を覆う妙な脱力感を何とか振り払って伊知恵がそう言うと、乙橋は大きく頷いた。
「そやな、それがええじゃろう」
そしてすっかり普通の好々爺に戻り、二人を隣の敷地の自宅に招いて昼食を振る舞ってくれた。家に帰って作務衣に着替えると、老神主は普通の田舎の老人になった。息子夫婦と孫夫婦、二歳になるひ孫の男の子に囲まれた賑やかな暮らしぶりだ。
素朴な山菜や取れたての野菜が中心の心づくしの昼食をいただいて、恭一と伊知恵は乙橋家にいとまを告げた。
車に戻ると、さっきから口数が少なく何か思い悩んでいるような伊知恵が、思い詰めたように「家まで一緒に来てくれる?」と尋ねた。
「俺は別に構わないけど・・・」
いきなりそう言われて、恭一は少し躊躇した。まだ少し具合が悪そうだが、伊知恵の代わりに自分が車を運転することはできないし、今から和歌山の伊知恵の実家に行けば日帰りは難しいかもしれない。それに、いきなり娘が大学で知り合った異性を連れてきたら伊知恵の家族はどう思うだろう。だが、伊知恵の思い詰めたような表情と、さっきの憑依された伊知恵の姿を思い出すと断ることはできなかった。
当惑する恭一をよそに、伊知恵は細く険しい林道を恐れげもなくすいすいと走り抜けていった。




