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3.帰郷[8]

 その夜、沙織は大学のサークルの飲み会で、すっかり遅くなってしまい、かろうじて最終バスに飛び乗っていた。女友達の一人が泊まっていく?と誘ってくれたが、明日は甥っ子の幼稚園の運動会だから、と断った。

 最終バスは、下宿先である姉の家の停留所よりかなり手前で終わっていた。仕方なく、沙織はバス停から二十分ほどの道のりを歩き始めた。バス通りの歩道の向こうは、うっそうとした雑木林だった。数十年前まで米軍キャンプの敷地だったそこは、土地の権利や様々な諸事情で、長いこと手つかずになっていた。一度、米軍の宿舎の建物を改装して病院が出来たそうだが、一年足らずで廃業になったという。昼間でも薄暗く、曖昧に針金で囲ってある敷地はいつまでも人気がないままだった。

 さすがに夜遅くにそこを通るのは気が進まなかったが、病院までの道はふさがれていなかったから、一本裏道に入れば、雑木林を突っ切って近道が出来るのを沙織は知っていた。

 迷ったが、あまり遅くなりたくない。何故なら・・・。

(お義兄さん、覚えててくれてるかな)

 数日前の、姉夫婦との会話が沙織の足を急がせていた。

「さあちゃんに、あの夜景を見せたいなあ」

 姉の夫、義兄の芳昭が不意に言い出した。

「ああ、あの広い橋のところ?」

 姉の和恵が尋ねると、芳昭はうん、とうなづいた。

「そこ、近いんですか?」

 沙織はわくわくして芳昭を見た。

「家から車で三十分ぐらいなんだけどね。橋の上から町中が見下ろせる、いいところがあるんだよ」

「行ってらっしゃいよ。私はもう何度も見たから、恭一と留守番してる」

「そうだね。連休の前の日なら次の日ゆっくり出来るし、そうだ、恭一の運動会があったっけ、その前の日はどう?」

 沙織は大喜びで頷いた。お義兄さんと二人で、ドライブに行ける・・・。

 その一方で、沙織はかすかにためらっていた。単なる憧れと親近感だとずっと思っていた、いや、思おうとしていたが、この家に下宿して一年半近く、沙織の芳昭への想いはどんどん異性としてのそれに近づいてきていた。

(お姉ちゃんに悪い・・・)

 だが、今日の飲み会で一人の同級生が、バイト先のデザイン事務所の所長と恋愛中だという話になったとき、彼女の理屈に沙織の心はぐらついた。

「誰にも迷惑かけてないもん。想っているだけ、それを向こうも知っていて、とても優しくしてくれるけど、いわゆる肉体関係は一切ないもん。それって、不倫でも浮気でもないよね。そもそも、セックスがなければ、恋愛と友情とどう違うの?」

(そうだよ。私は、義理のお兄さんと親しくしてるだけ。お姉ちゃんのだんな様を妹が好きで、何が悪いの。誰にも、何の迷惑もかけていない)

 駅に着いたとき、家に電話して芳昭に車で迎えに来てもらおうとした。そうすれば、自然な流れでドライブに連れて行ってもらえる。だが、芳昭は残業でまだ帰宅していなかった。あまり遅くなると、また今度ということになってしまうかもしれない。

 ちょうど自分が帰る頃には、義兄も帰宅しているかも。そしてそのまま芳昭の車の助手席に身を埋める自分を想像して、沙織は胸がときめいた。

 ふと、目の隅に何か動く影がよぎって、沙織はぎくりとして立ち止まった。

 病院の廃屋が木々の向こうに建っていた。その寒々しい白い壁に、何故か人影が映っていた。沙織は目を凝らした。

 ズルッ、ズルッ・・・。

 何かを引きずるような音が聞こえる。沙織は思わず雑木林に足を踏み入れていた。

 そこに、腰をかがめた人影と、仰向けになった別の人影が見えた。仰向けになったほうは、かなり小さい。まだ、子供だ。

 そう気づいたとき、沙織は思わず声を上げていた。

「誰ですか?そこで、何をしているの?」

 人影がびくっとして立ち止まり、ゆっくりと沙織の方を振り返った。

 若い男だった。まだ半袖でじゅうぶんの気候なのに、ジーンズに黒っぽい長袖のジャンパーを着ていた。銀縁のメガネが薄暗い街灯にぼんやりと反射した。

 そして沙織は、男の足元に人形のようにくたくたになった、まだ小学校に上がるか上がらないかの少女を見た。

 その時、すぐに大声を上げて近所に助けを求めていれば、あの悲劇は起こらなかったかもしれない。だが、沙織はつかつかと雑木林に踏み込み、男に挑んだ。

「あなた、誰?この子をどうしたの?」

 男はつかんでいた少女の両足を放し、まっすぐ沙織の方に向かってきた。その時初めて沙織は後悔した。だが、男の腕がすばやく沙織の肩をつかみ、地面にたたきつけられたとき、沙織は恐怖で全ての感覚を一瞬失った。

 男は片手で沙織の首を押さえつけながら尻ポケットから鋭いジャックナイフを取り出し、沙織に振り下ろした。

 夢中でかわした沙織の頬をナイフがかすった。ナイフは柔らかい土に深く食い込み、それを引き抜こうとする男の一瞬の隙をついて、沙織は起き上がった。

 方向を見定めている余裕はなかった。沙織は闇雲に走った。悲鳴が、悲鳴にならなかった。大声すら出せないほど、沙織は恐怖で我を忘れていた。

 男が背後に迫り、無言で再びナイフを振り上げる。沙織は明るい方へ夢中で飛び出した。そこは、舗道もなくいきなり広い国道だった。目の前に、猛スピードで大型トラックが突っ込んできた。

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