3.帰郷[7]
恭一を乙橋の元に残して、伊知恵は池の周囲を歩いていた。
自分は恭一に執着がある。それは、祖母に言われるまでもなく伊知恵自身がいちばんよくわかっていた。あのキャンプの後、得体の知れない女の顔につきまとわれて心のふたがはずれて以来、はっきりと自覚した。香苗への嫉妬。恭一が、香苗に惹かれているのではという不安。自分の方に恭一を引き寄せたい、というあからさまな願望。高校を卒業するまでは、せいぜい若い男性教師や年上の先輩への淡い想いばかりで、身近な存在に強く心惹かれたことも、その相手が自分に接近してきたこともなかった。恋愛感情というものがこんなに執着心に満ちたものだと、伊知恵は初めて知った。その強く不安定な感情をうまくコントロール出来ないのが辛かった。誰かを好きだ、という想いは、もっと美しく尊いものだと思っていたのに、何だか小さい子供のおもちゃやお菓子の取り合いみたいにさもしく、みっともない。
(沙織さんの想いが、どうか恭一くんに伝わりますように)
池の畔で水面に手を合わせ、伊知恵は祈った。乙橋という神主は、ヨシノと似た何かを持っていた。どこまでも静かに澄んでいながら、強いまなざし。まるで空気をまとったような軽々とした身のこなし。身体の内側に見えない気がみなぎっているのがわかる。あんな風に将来自分がなれるとはとうてい思えない。伊知恵はただの恋する女子大生で、亡き人への思慕を胸に抱えた片思いの人を何とか手助けしたいと思っているに過ぎない。
祈り終わって目を開けると、水面に自分ではない誰かの顔が映っていた。
その顔は微笑んでいたが、とても哀しげだった。
(沙織さん・・・)
伊知恵は思わず心の中で呼びかけた。そしてそのまま、水面に吸い寄せられていった。
祝詞が止むと同時に乙橋はぱっちり目を開けてふうっと息を吐いた。
「・・・あれ、やはりあちらへ行かはったな」
えっと思って恭一は乙橋の見つめる背後を振り返った。
まぶしい秋の光が降り注ぐ屋外には、もちろん誰もいない。
と、乙橋がどれどれ、と立ち上がり草履を履いて外に出たので、恭一は慌てて後に続いた。乙橋は迷うことなくまっすぐ松の木に囲まれた池に向かう。
池の水際に、伊知恵がうつぶせに倒れていた。
「なんぎなもんじゃのう」
細い華奢な身体のどこにも筋肉などなさそうなのに、乙橋は軽々と伊知恵を抱き上げると、すたすたと本殿に向かった。
恭一は無言で着いていった。何か、ただならぬことが起きている。何故伊知恵がこんなところで倒れていたのか。そして乙橋はそれを当然のように受け止めている・・・。
本殿の裏口の引き戸をがらりと開けると、そこは筵を敷いた板張りの床になっていた。中央の祭壇らしきところに、青々とした榊が供えられ、中央に手のひらほどの丸い古ぼけた鏡が一つ、外からの光を受けてぼんやりとかがやいていた。
乙橋は伊知恵をそっと筵の上に横たえた。伊知恵の全身がぴくぴくと波打ち、唇から声が漏れた。
「キョウチャン・・・」
恭一はぞっとして伊知恵の口元を凝視した。
「・・・さあちゃん?」
おそるおそる呼びかける。これは、本当に沙織なのか。死者がよみがえる。そんなことが、本当にあるのか。
「・・・いっちゃん?」
恭一はふと我に返り、今度はそう呼びかけた。ここにいるのは、どう考えても伊知恵ではないか。
だが、そう恭一が呼びかけると、目を固く閉じた伊知恵の全身が突然苦しげにぶるぶる震えだした。
「先に、言いたいことを全部言わせてさしあげなさい。そのためにわざわざ来はったのだから」
乙橋が静かにそう言った。そのためにわざわざ来た。恭一と伊知恵が?それとも、沙織が・・・・?
「さあちゃん。俺に何か伝えたいことがあるの?」
恭一は腹をくくって、目の前に横たわった伊知恵の身体に尋ねた。
すでに死んだはずの人の意識が、鮮明に入ってくる。伊知恵にとって、それは初めての経験だった。意識はまるごとすっぽり、伊知恵のものと重なった。一瞬のうちに伊知恵と沙織の意識が完全に混ざり合い、どちらも何一つ隠し立ては出来なくなった。それは、言葉で交わす会話ではあり得ない、意識交換の代償だった。
そして、あの悲劇の日のことがありありと、混ざり合った二人の意識の上に映像としてよみがえった。




