3.帰郷[1]
暗く湿っぽい「どこか」で彼女は目を覚ました。
いったい、どのぐらい長い間眠っていたのだろう。
絶対に許さない、と強く念じていた。それなのに、こんなに深く眠っていたなんて。
彼女は起き上がろうとして苦心した。闇にすっかり溶け込んだ彼女の身体を、闇から引きはがすのはとても力のいることだった。
だが、あったはずの身体は冷たく実体を失っていた。
そんな。何故。あんなに元気に私は生きていたのに。
彼女は哀しみと怒りに打ち震える。そのエネルギーで何とか闇から抜け出すことに成功した。だが、自分をはっきり思い浮かべるのは難しかった。
私は、どんなだったろう。
自分の姿、記憶、想い。どれもが曖昧で頼りなく、たぐり寄せるものが本当に自分自身か、彼女にはあまり自信がなかった。
長い時間をかけて、ようやく何とか自分とおぼしき形を取り戻した彼女は、思い出した。
ああ、そうだ。私は待っていたんだ。あの子が私と同じ年齢になり、もう一度強く私を近くに感じてくれる日を。
そして、私は間に合った。ちゃんと。
待ち望んでいた試験終了日の夜、伊知恵は夜行バスに飛び乗った。
JR和歌山駅に朝到着して、在来線に乗り換え一時間。それからバスで一時間半。伊知恵の住む集落は最寄りのバス停からさらに歩いて三十分ほどのところにあったが、そのバス停には近所のおじさんが農作業用の軽トラックで迎えに来てくれていた。
「お、伊知恵、生きちょーったか」
樺島というそのおじさんはバス停に降り立った伊知恵を待ちかまえていた。トラックの運転席から顔を出して笑うと、上の前歯が一本、立派な金歯だったがなくなっていて、口の中にぽっかり穴が空いている。伊知恵は驚いて尋ねた。
「おいやん、どないしたん、ご自慢の金歯」
今どき前歯を金歯にするなんて気色悪い、と奥さんに難色を示されても、嬉しそうに自慢していたのに。
「こないだ川で釣りしよったら、うっかり流されて岩にぶつかってよ、のーなってもた」
その時はたぶんショックでしばらく落ち込んだに違いないが、今はだいぶ気持ちも収まったようだ。
「あでぇ、ほいじゃ、川のどっかにおいやんの金歯が埋まってんだ」
「そうじゃあ、今にあん河原でいっぺえ砂金が取れんぞ」
そういって樺島のおじさんは穴の空いた口でふぁっは、と笑った。
「あと百年もたてばよ、この辺の昔話になんじょ、『樺島のおじいの砂金』ってな」
それを聞いて伊知恵は大笑いした。昔話や伝説の多くは、人々の日常生活の他愛もない出来事からできている。ちょっとした出来事が地元の奇岩や珍しい植物の群生などのいわれになっていて、そういう話を伊知恵は祖母から数え切れないほど聞いてきた。おじさんの金歯の落ちた辺りから砂金でも出れば、いつかそんな伝説が生まれるかもしれない。それに、当人もそうでも思わなければ諦めがつかなかったに違いない。
伊知恵は久しぶりに思い切り笑って、すっきりと心が軽くなっていた。それまで抑えていたものが一気に吹き出すように、伊知恵は家に着くまでずっとしゃべり続けていた。しまいには、おじさんに伊知恵は東京に行ってずいぶん元気になった、と感心されてしまった。




