3.帰郷[2]
いつものことだが、両親は仕事で留守だった。空っぽの実家に荷物を置いて、伊知恵は再び外に出た。
田圃の畦を通り少し歩くと、橋の下に木々のアーチに包まれて見え隠れする川が見えた。秋晴れの空にきらきらとかがやく清流を見て、伊知恵は目の奥がじんとしみた。
十八年以上、当たり前のように見ていた風景が、たった半年離れていただけでこんなに懐かしいと思うほど遠くなってしまったなんて。伊知恵は川に続く細い山道を軽々と駆け下りて、少し開けた河原に降りた。
初矢川と地元の人が呼ぶその川は、アウトドアの専門家が見たら秘境の清流と絶賛してくれそうなほど見事な眺めだった。水は澄んで、深い淵は濃い青と緑に染まり、中州には流れに磨かれた丸くすべすべした小石が散らばり、太い木々が両岸を守るように被っていた。
秋の風は涼しいと言うよりは少し肌寒く、もう半袖では過ごせないほどだったが、川の流れを見ていると伊知恵は無性に川に入りたくなった。
靴も服も脱ぎ捨てて、川の流れに身を浸したい。冷たい流れが、伊知恵にまとわりついている、自分自身を傷つける感情を全て洗い流してくれるのではないか。そんな期待があった。
「・・・今入っても、全部は祓いきれんよ」
いつの間にかあと一歩で川面というところまで来ていた。背後で懐かしい声を聞き、伊知恵は振り返ると、木々の間に懐かしい姿を見つけてぱっと笑顔になった。
「おばあ!」
急な山道を駆け上って抱きついてきた伊知恵をしっかり抱きしめた祖母のヨシノは普段着のブラウスにもんぺ姿だったが、秋祭りの巫女の衣装が入っているのだろう、風呂敷包みを抱えていた。そういえば、ちょうど収穫祭がある頃だ。この時期、ヨシノはあちこちの社に出向いて舞いを舞い、祝詞を唱える。一年の中でも五本の指に入る大忙しの時に来てしまった。
伊知恵と並んで歩きながら、ヨシノはしわの増えた顔の奥に沈んだ小さな瞳で伊知恵をしっかり見つめた。
「おかえり。えらい、くたぶれてらしよ」
「うん。いろいろあって」
「そりゃあそうじゃろう、こないせわしない世の中じゃもの、しかも都会のど真ん中に住んどって」
「おばあが、ずっとここから出ないのがなんでなのか、わかった気がする」
今の伊知恵にはよくわかる。ヨシノは、仕事のためにここを離れないのではない。人が多く山川や森の少ない都会では、入ってくるものが多すぎて暮らしていけないのだ。
「そうかい。でも、おまんは自分で決めたんじゃけ、気張ってがんばらねば」
ヨシノは優しく、しかしきっぱりと言い放った。伊知恵も黙ってうなづく。
「おばあ、昔、こん川に私のこと突っ込んだよね。さっき思い出した」
土手の乾いた草に伊知恵とヨシノは並んで腰を下ろした。
「ああ、そげなこともあったっけね・・・・」
ヨシノは川面を見つめながらぼんやりとつぶやく。
それは、伊知恵が五歳ぐらいの時だっただろうか。
「ちょっとこっちゃおんまい」
ヨシノに呼ばれて、走っていった伊知恵は、ヨシノに抱きついた次の瞬間、いきなり川に放り込まれた。
びっくりして泣き叫ぶ伊知恵に、服のまま自分もじゃぶじゃぶ流れに入っていって、ヨシノはおもむろに伊知恵を頭のてっぺんまで川に沈めた。
ぶくぶくっと伊知恵の吐いた息がいくつも円い泡になって水面へ上がっていった。光をいっぱいに含んだ水は、伊知恵を押し包んだ。冷たさが肌にしみこみ、そのまま体の奥まで刺し貫いた。そうれ、とヨシノは伊知恵を両腕で脇からすくい上げ、何度も水につけては水面に押し上げた。
伊知恵の身体は冷たい水にさらされ、川の水が身体の奥までくぐり抜けたような気がした。伊知恵は次第に夢見心地になり、ぼうっとして自分が川に浸され、水に洗われるのを感じていた。
「・・・あれっきり、私は怖いものを見なくなった。後でお父さんやお母さんに、おばあにまじないしてもらったんじゃね、って言われて、何だかようわからんかったけど」
大きくなってから、『おばあのまじない』の御利益が大変なものだと周囲の噂で聞いたことがあったっけ。
「それがまた、見えるようになったんじゃろ」
ヨシノに言われ、伊知恵は弱々しく微笑んだ。
「しばらくこっちにおるんやったら、おばあんちにも泊まりにおいで。そうそう、今日はお父はんとお母はんも一緒にこっちで晩ご飯食べんさい。おみらの好きなもの、ぎょうさん作っとくさけ」
うん、とうなづいて伊知恵は気がついた。ここに着いてから一度も、いやな想いが浮かんだり、耳の奥で誰かの声が聞こえることはなくなっていた。東京での気の滅入る日々ははるか遠くに消え、伊知恵は伊知恵らしく、のびのびと自由だった。




