2.怪異[9]
静かな住宅街は街灯に照らされた道幅は狭く、車はほとんど通らない。伊知恵はしばらく当てもなく歩き回っている内に、いつの間にか道に迷ってしまった。
部屋を出たときは、確か十一時を過ぎていた。携帯電話は持ってこなかったし、鍵も閉めたかどうか定かでない。
ひたひた、と背後からかすかな音が聞こえる。裸足の足音のようだ。アスファルトの道をはだしで歩く人なんていない。まただ。伊知恵は絶望的なため息をついた。
都会には、うるさいものが多すぎる。私は、何の役にも立たないのに。
幼い頃伊知恵を脅かしたのは少なくともこの世を去ったか、人の世界以外のものだったが、ここでは今現在生きている人々の排泄した念まで漂っている。それを吸収してくれる自然が少なすぎるからだ。
二酸化炭素と同じように、人々の様々な「気」を、大地や水辺や植物は吸収してくれる。そしてすっかり浄化して、安らかな「気」を吐き出して、人々を知らぬ間に癒してくれているのだ。何の見返りも要求せずに、淡々と、呼吸するのと同じように。
「・・・お母はんが、家のことをするのと同しじゃよ」
いつだったか、祖母が自分の仕事のことをわかりやすくそう教えてくれた。一家の主婦が、毎日忙しく同じ家事を文句も言わずに淡々とこなすのと同じ。部屋べやを掃除し、トイレや風呂場や台所の水場も清潔にし、汚れた服を洗い、乾けばたたみ、食事を作り、鍋や食器を洗う。
「せやから、こん仕事はおなごのもんなんじゃ」
どんなに片づけても、次の日はまた家族みんなが使って汚れ、ちらかる。それをまたきれいに清めて片づける。それを苦にしていたら、主婦は務まらない。巫女の仕事もそれと同じ、人々の日々の暮らしを見守り、目に見えないものたちをあるべきところに収め、秩序を保ち、汚れを祓い清める。生きている間、ずっと、淡々と。それだけのことだ。だから、伊知恵にだってちゃんと出来る。
そんな祖母の言葉さえ、今の伊知恵には重かった。巫女どころか、普通の主婦にさえなる自信がない。途方もない日々の繰り返しの中、自分を保って平然と暮らしてゆくなんて。
はだしの足音は少し速度を増し、伊知恵の背後に迫った。そして、伊知恵の体にすうっと冷たい空気の固まりが通り抜けたかと思うと、目の前に肩を落として疲れ切った人影が足早に歩み去っていくのが見えた。
何かに絶望して、打ちひしがれて、それでもまだ逃げている。でも逃げているのは他人からではなく、自分自身からだ。かれはそのことに気づいていない。だからいつまでも焦るばかりで、まだ追ってくる、逃げなくては、と、あてもなくひたすら逃げ続けているのだ。
(私にはどうしてあげることも出来ない)
それでも、かれの狂わんばかりの焦りと絶望が、伊知恵の心を容赦なく傷つける。かれは少し先の角を曲がったら、ぐるっと一周してまたここを歩くだろう。かれの実体がどこで何をしているのか想像し始めると、伊知恵の背中を悪寒が走った。
(ああ、だめだ、考えちゃ)
伊知恵の心はかれのような存在にいちいち同調してしまい、自分の中の焦りや絶望が増幅していく。自分をコントロールする術を、伊知恵はまだ知らない。
(帰らんと。おばあに教えてもらわんと。試験が終わったら、帰ろう)
伊知恵は目を閉じ、ブレスレットの石を右手でなぞりながら下宿先の家を思い浮かべた。まず、あそこに帰って、試験勉強をする。試験が終わったら、実家に帰って祖母に会おう。今は祖母の助けがどうしても必要だ。ようやくなじんできた下宿先の部屋の中を思い浮かべ、意識的に現実に気持ちをフォーカスした。冷静になれば、通い慣れた近所だ。きっと帰り着ける。よし、帰ろう。
そう思って顔を上げたら、目の前にまたあの女が立っていた。底なしの闇をたたえた双眸が、まっすぐ伊知恵をとらえている。
声にならない叫びをかみ殺して、伊知恵は夢中で夜の街を駆けだした。




