2.怪異[3]
あのキャンプ以来、伊知恵は体調が優れなかった。東京に来て半年、少し疲れが出てきたのかもしれない。季節の変わり目ということもある。東京の水が体に合わないのか、何度か全身にじんましんが出た。
下宿は老夫婦の住まいとは別に広い庭に建てられた小さな離れで、かつて老夫婦の二人の娘の部屋として使われていたものだった。トイレと小さいキッチンも備え付けられており、いわば平屋のワンルームマンションのようだ。敷地に入るための門扉は一つだが、玄関のドアは別々で完全にプライバシーが保たれていた。日当たりや風通しも良く、窓からは庭の木々や花壇の花が静かに風にそよぐのが見える。田舎から出てきた学生の住まいとしては、申し分ないものだった。
住環境には恵まれていたものの、慣れない都会で一夏を過ごして張りつめていた心身の緊張が限界に達したのが体調不良の原因なのだろう。
だが、それだけではない。
キャンプの夜に山小屋で見た、あの双眸。それが、伊知恵に封じられていた忌まわしい記憶をよみがえらせていた。
見えるはずのない場所に不意に現れる「顔」は、幼い頃何度も現れては、伊知恵の心の奥底の闇を無理矢理押し広げた。その都度違う、だれのものかわからないその目に凝視されると、幼い伊知恵のあどけないわがままや不安があっというまにどんどん増幅した。両親に構ってもらえない寂しさ。まだ眠いのに起こされたこと。見ていたテレビを途中で消されてしまった理不尽な悔しさ。蚊に刺された腕の不快なかゆみ。そんな些細な日々の出来事の記憶が、見知らぬまなざしに出会うと見る間に黒く膨れあがって、伊知恵の心をありもしない怒りや憎しみでいっぱいにした。そのたびに伊知恵の幼い無防備な心は蝕まれ、伊知恵は少しずつ元気を失っていった。父や母には理解できない幼い子供の不思議な行動が、祖母にだけは見えていた。だから、伊知恵が苦しまないために祖母の力で封印してくれたのだ。あんなに頻繁に現れて伊知恵を責め立てたたくさんの「顔」たちが、ある日を境にいっさい見えなくなった。そして、伊知恵はかつて自分がいろいろなものを「見て」いたこともすっかり忘れてしまった。
だが、もう記憶はよみがえってしまった。脳裏には、山小屋で見たあのまなざしが焼き付いていた。
若い女の、無表情な瞳。
真の無表情を意図的に作れる、生きている人間はいない。瞳に何らかの感情が宿る。ほんのひとかけらも感情を出さずにいられるのは、もはや生きた感情がないからだ。それはすなわち死者、或いは初めから命なきものに限られた。
あれから女の顔は見ていないが、相変わらず音には敏感な伊知恵は、時々その女のものらしいむせび泣く声に悩まされていた。その声を聞く度に、一度見たきりの女の顔が伊知恵の頭の中でどんどん鮮明になっていった。肩の辺りで切りそろえた髪型や、切れ長の目、薄い眉、すっと通った鼻筋。日を追うごとに、薄れるどころかどんどん強いイメージとなってよみがえる。それが伊知恵に何を訴えようとしているのかはわからないままだが、良いイメージでないことは確かだった。
弱った伊知恵の心には、他の無数の音も侵入してきた。抵抗力を失った体にウィルスが勢いよく増殖するように、無防備な伊知恵の精神に他者の意識が際限なくいくらでも入り込んできた。ののしりあう声。子供の泣き声。深いため息。いらだった舌打ちや鼻でせせら笑う気配。何故か、どれも気のふさぐ声ばかりで、穏やかな声が語りかけてくることは全くない。
(おばあ、助けてよう)
伊知恵は辛くなるたび祖母のくれたブレスレットを握りしめた。東京に来てから肌身離さずつけているお守り。麻糸に包まれた小さい石を握りしめると、音が消えて心の闇も薄れる気がした。
だが、一度取り込んでしまったものを全て追い出すには伊知恵の精神もブレスレットの力も弱すぎた。
東京の大学へ行くことに決まってあれこれ心配してばかりの母に、祖母は笑って「可愛い子には旅をさせるものだよ」と言っていた。その言葉の本当の意味は、祖母自身がいちばんよく分かっていたのかもしれない。
祖母は、東京で伊知恵に試練が待ち受けていることを予期していたのだろう。そしてそれを伊知恵が自分の力で乗り越えなければならないことも。だが、慣れない土地で自分を保つのが精一杯の伊知恵は、さらなる試練を乗り越える余力はとうてい持てそうになかった。一人でこの部屋にいるといつも挫折感と孤独感に悩まされる。両親や祖母のおかげでここにいられるのに。そんな焦りも身を包む伊知恵だった。




