2.怪異[1]
しばらくは大学とアルバイトの日々が続いたが、月の半ばにまた連休があった。その日、恭一は当てにしていた日払いの引っ越しのアルバイトがキャンセルになって、まるまる一日を持てあましていた。どこかに出かける気にもなれず、何となく気が乗らないまま、自宅の自分の部屋でごろごろしていた。
スマートフォンで、この間のキャンプや夏休みの旅行の写真をフォルダに分類しながら、恭一は時々伊知恵の顔が映っていると拡大して表情を観察していた。
ショートヘアがよく似合う伊知恵は、派手な香苗と対照的だった。香苗は明るくて遊び場や店に詳しく、彼女がいるとすんなり場が盛り上がる。何かの時には誰もが真っ先に誘いたいタイプだ。だが、伊知恵は何というか、そばにいると何となく場が和むのだ。いったい、どこにその魅力が隠されているのだろう。
画面いっぱいに広がった伊知恵は、どれも少し困ったような、控えめな笑顔を浮かべている。自分を前面に出さず、でもそれが少しも不満そうではない。
(そこが不思議なんだよな。みんな、写真を撮られるときは普通、少しは自意識過剰になるのに)
伊知恵の笑顔は、写真に写るという意識より、カメラの向こうの撮影者への自然な感謝や労りに満ちていた。そうだ、彼女はいつも自分じゃなくて相手なんだ。自分を認めてもらうより、相手への興味の方が強い。
(それって、きっと、自分に余裕っていうか、揺るがない何かがあるんだろうな)
そんな伊知恵に恭一は友達以上に惹かれるものがあった。あの控えめなすがすがしさはどこから来るのか、知りたかった。自分にはとうてい持ち得ないまっすぐな何かを伊知恵は持っていた。もっと彼女に近づきたい。伊知恵のことをもっと知りたい。そんなかすかな衝動に恭一の胸がうずいた。
(さあちゃんの話も・・・)
正直、伊知恵に聞いてもらいたかったのだと思う。そう気がつくと、恭一はますます伊知恵の存在を大きなものに感じた。
その時、ピシ、と小さな音がした。見ると、古い窓ガラスにかすかに亀裂が入っていた。何かがぶつかった気配はない。築五十年のこの家は、気がつくとあちこちがゆがんでいたり、床の合板がはがれかけたりしていることがあったが、窓ガラスの亀裂はこれが初めてだった。ひょっとしたら、家全体が少しずつ傾いて窓枠と桟がかみ合わなくなり、ガラスに負荷がかかっていたのかもしれない。
大地震が来たらアウトだろうな、と思う。だがこの家は、恭一が生まれる前に亡くなった父方の祖父が旧知の大工を頼んでかなり丁寧に建てたものらしく、取り壊して建て直すには惜しいほど、まだまだ住めそうに頑丈だった。両親は大々的に建て替えるより、ちょこちょこ修繕しながら住み続ける方をよしとした。恭一にとっても生まれ育った家だったから、古いが落ち着く。
一応そばに行って確かめてみたが、窓の外の屋根には何も落ちていなかった。亀裂はわずかだったから、両側から防水テープを貼っておけば大丈夫だろう、と判断した。
テープを探しに階下へ降りたついでに、そのままキッチンを物色する。小腹が空いたのでカップ麺を食べようと、やかんに水を入れて火にかけた。が、何度やってもカチカチ音がするばかりで、火がつかない。ガスコンロも古いからなあ、と思ったところで、いきなり勢いよくぼっと火がついた。危ない、ガス漏れしていたのか。恭一はあわてて換気扇をつけた。
リーン。
四畳半の和室に置かれた仏壇のりんが鳴った。さすがに恭一は眉をひそめた。両親は仕事に出かけて留守だ。りんが鳴るわけはなかった。
リーン・・・。
さらにもう一度、今度は前より大きく鳴った。誰かが力強く叩いたのでなければ、あんな音は出るわけがない。
恭一はおそるおそる仏壇を覗いた。りんはきちんと鈴布団の上にあり、鈴棒も定位置におかれていた。空耳に違いない、と恭一はキッチンに戻り、沸いていた湯をカップ麺の容器に注いだ。
いきなり、りんが激しく続けて鳴りだし、恭一は思わず熱湯の入ったやかんを取り落としそうになった。
あり得ない。あんな風にりんを叩く人なんていないし、第一この家には恭一しかいないのだ。
リンリンリンリンリンリンリンリン・・・・
狂った叫びのようにひたすら鳴り響く音の正体を確かめに、恭一は再び足早に仏壇を見に行った。そして、そこで恭一は自分の目を疑った。
りんがひとりでに鳴っている。だが、棒は置かれたままだ。りんだけが、見えない棒に激しく叩かれているように小さく震えながら鳴り続けていた。
しばらく呆然とそれを見ていた恭一は、意を決して仏壇に歩み寄り、鈍い光を放つりんをいきなり右手でつかんだ。
「いてっ!」
りんをつかんだ瞬間、手の甲に何か細くて堅いもので思い切り叩かれたような感触が走り、恭一はりんを落としてしまった。
畳に落ちたりんが最後にくぐもった深い音を立てた。それはまるで、寺の梵鐘のように聞こえた。それっきり、りんは鳴りやんだ。恭一はあっけにとられて畳の上に転がるりんを見つめていた。




